第5話『ミー子とシャルル』

 春の麗らかな陽気が芽吹いてきた始まりの季節。一年前とは似て異なる新たな春を迎える猫屋敷家の居間に、無邪気な歌声が響き渡る。


「咲ーいーたー、咲ーいーたー、のハッナッ(鼻の音の高低イントネーションで)がぁっ」


 春爛漫を謳う陽気な歌の主は、自分の膝にポヨポヨの橙茶色の毛玉を抱いている。毛玉の上突起部分に芽吹いた桃色の蕾のようなをつんっと優しく突きながら、声の調子を跳ねさせる。


 「なーらんだー、並んだー、赤、、黄色。どの、見ってっも、だなー」


 チューリップの花の替え歌としてアレンジされた『シャルルの』の歌を口ずさむミー子に、シャルルは観念した様子で聴き入っていた。

 異な事にミー子の声はよく通るし、旋律も中々に調和されているおかげか、猫の僕にもそれなりに小気味良い歌だ。

 ただ、チューリップの「花」に猫シャルルの「鼻」をかけた駄洒落は寒苦しいが。

 相変わらずミー子の激しい愛情接触スキンシップは暑苦しいが、最近はミー子の歌をほんの一時聴いてやるのも悪くはない、と感じ始めている。

 ところで……春と言えば、学校の新学期が始まるはずだが、何故ミー子は未だ日本に帰国したままで、呑気にを抱いて歌っているかって?


 「ミー子もついに大学生のねぇ……大学はどう? 気の合いそうな友達はできたかしら? ちゃんと授業にはついていけてる?」

 「うん! 大丈夫だよ、ママ。大学の授業は、私には初めて学ぶことばかりですっごく新鮮で楽しい! 友達はね、一応入学式で隣に座っていた女の子と仲良くなったよ。明日は大学サークルを一緒に巡る予定」


 ここ最近、じっくり猫耳を立てて聞いている内に判明したのは、ミー子がついに“大学生”なるものになった話だ。

 春になってもミー子が留学先のカナダへ帰っていない理由も、ミー子が既にカナダの高校を卒業し、帰国子女枠で合格した日本の私立大学に入学したからだと知り、腑に落ちた。

 「これからはずーっと毎日、シャルルとも一緒にいられるね!」、と屈託なく笑いながら、僕の頬にちゅーを連発した時は寒気が走ったにゃ……。

 ママン達との会話を聞いていると、ミー子は英語とそこそこの国語力、まあまあの生物学を除いた基本科目はからっきし、特に数学は四則演算の段階で壊滅的らしい。

 やはり僕の推理に狂いはなく、ミー子のように夢見がちで幼い言動のオタク娘がカナダなんぞに留学できた理由も、やはり猫屋敷家の財力と人脈にモノを言わせたからに違いない。

 ミー子の明るい表情と台詞から、今の所は学業も交友も順調らしいが、果たしてそれもどこまでが事実でなのか。

 一方ミー子の生き生きした様子から疑う余地を挟むことのないママンは、胸を撫で下ろしたように微笑んでいた。


 「そうなのね。とても楽しそうでよかった……久しぶりの日本だし、あなたが大学で上手くやっていけるか心配だったけれど、大丈夫そうね……」


 何やら神妙な眼差しで感慨深そうに呟いたママンの様子が引っかかった。

 僕の場合、去勢やら発熱などの騒動の後でさらに強まったが、ママンは僕に対してやや過保護で心配性な面が見られる。

 娘のミー子に対しても例に漏れず、ミー子の動向や様子を常に気にかけているのは猫目にも明らかだった。

 ただ当時の僕は、周りの同年代よりも内面が幼く、に対してもそうであるように自儘で空気を読めないオタクなミー子の将来をママンが心配しているのだ、と思った。


 「捕まえちゃったー! シャルル! 可愛い可愛いなあ! 


 ミー子が猫屋敷家へ無期限? 帰還したことで、僕の日常生活に多少の変化は起きるようになった。

 長椅子での昼寝を終えて、今度は二階のベランダへ日光浴をしに出かけようとする所で、ミー子は僕を後ろから抱き上げた。

 寝起きを狙われて捕まるなんて、僕ながら不覚。

 ていうか、ぷいひひって、何にゃ、その変な笑い声は。

 ミー子がプロの声優さんもきっと顔負けの、地声からかけ離れた甲高い色の奇妙な声を発するのは相変わらず謎。

 僕の鳴き真似までもが、ママンとパパンを騙せるレベルで絶妙にそっくりな点は一目置いているが。

 以前であれば、ママンが在宅仕事に勤しみ、パパンがネットオークションの売り買いやプラモデル製作、料理をする時間帯の僕は、昼寝や室内探索、つけっぱなしのテレビを鑑賞などをして、一人のんびり気ままに過ごしていた。

 しかし、猫屋敷家にいる時間の増えたミー子は、僕の都合問わずに構い倒してきて困った。

 長椅子で熟睡していると、またミー子に捕まり、膝の上で赤ちゃん抱っこをさせられる。

 ママンの事務所の倉庫で丸まっていると「んーふふふふぅっ」、と変な呻きを零しながら頭から背中、お腹に鼻を押し付けて顔を埋めて匂いを嗅いでくる。

 くすぐったい僕は「んー……ふ……ぶぅみ……っ」、と子豚さながらの声を漏らされる。

 ママンのお布団に寝転がって日向ぼっこしてバカンス気分を味わっている所、しつこい追っかけカメラマンさながら「可愛いー! こっち向いてー!」、と図々しくパシャパシャとカメラ音とフラッシュをたいてくる。

 それから、居間の暖房機前に敷かれたフカフカ絨毯に寝転がり、暖を取りながら微睡んでいた最中。

 僕にストロベリーピンクのもこもこイースターうさぎの帽子(猫の被り物ガチャのコーナーで落ちていたのを拾ったらしい)を被せたり、別の日にはタヌキみたいに木の葉を額へ乗せられた。

 また別の日には家庭菜園のピーマンやぬいぐるみを抱っこさせられ、さらに別の日には畑人か優雅なみたいに薄手のハンカチで頭巾巻きにされる。

 はたまた別の日には、ママンと悪ノリしたミー子が熟睡するシャルルを布で包み、おもちゃのおしゃぶりを持たせて「お包みに入った赤ちゃんみたいー」、と騒いで……ミー子の子どもじみた悪戯いたずらもといコスプレ遊びは枚挙にいとまがない。

 まあ今の僕はミー子より大人な成人猫だからにゃ、多少のことは妥協して付き合ってあげるにゃ。けど……。


「待ってよぅ、シャルルゥ」


 大人猫にだって限界というものがあるにゃ!

 ついにミー子の赤ちゃん抱っこ体勢からの撫で撫でチューに付き合いきれなくなった僕は、一瞬の隙を突いて体をバネのように反らせ、ミー子の懐から飛び逃げた。

 しかし、当然ながら懲りないミー子は椅子から立ち上がると追いかけてきた。

 猫から見れば二足歩行の巨人が笑顔で執念深く追いかけてくる様は、まさにみたいで恐ろしい。


 「袋のにゃーん! 逃がさないのにゃーにゃーんっ」


 はっ! しまった! 僕という猫がまたしてもにゃんたる不覚!

 進撃のミー子から必死に逃げ惑っている内に、いつの間にか一階の事務所倉庫の袋小路へ追い込まれていた僕はミー子に再び捕らわれた。

 むむむ……! 一階ではなく二階へ駆け上がって逃げれば勝算はあったというのに。

 己の誤算に悔しさで爪をキュッキュッさせるシャルルを他所に、ミー子は勝者の愉悦に満ちた笑顔でシャルルを連れて行く。


 「おい、ミー子。シャルルを離してやれよ。嫌がっているじゃないですか」


 猫屋敷家の救世主の絶妙な時期での登場に、僕の胸へ希望の光明が差した。

 シャルルを問答無用で攫っていくミー子の行動を見かねたパパンは、呆れた表情でミー子を諌めてきた。

 シャルルがミー子に愛弄されている時は、唯一パパンがシャルルを憐れみ、言葉だけではあるが助けてくれる。


 [にゃんっ(助けてぇ、パパンっ)]


 パパンに助けを求めて短く鳴きながら、桃色のプヨプヨ肉球を向けるように両手を伸ばすシャルル。

 するとシャルルの求めに応じるようにパパンは「はいはい」、と穏やかに微笑みながら両手を伸ばした。

 ミー子は釈然としない表情を浮かべながらも、シャルルの気持ちを察してか、渋々とシャルルをパパンへ渡した。

 親に泣き付く幼児さながらパパンの肩にしがみつくシャルル。

 シュンと耳を垂らしたフワフワの後頭部を、パパンはよしよしと撫でてやる。

 それから直ぐにシャルルを降ろして自由にしてやった。

 パパンは僕が嫌がったり、降りたがったりするとあっさり解放してくれるのだ。

 まったく、ママンと特にミー子はパパンの無理強いしない慎ましさを、多少は見習ってほしいにゃ。

 ヤレヤレ、とシャルルは心内で呟きながら床を自ら踏む自由を噛み締める。


 「シャルルたーん!」

 

 しかしシャルルの期待を裏切り、ミー子は再びシャルルを捕まえようと笑顔で手を伸ばして迫ってきた。


  [にゃーんっ(ちょっとはの身になって考えてよにゃ!]

 「あっ! 待つのにゃあ!」

 「まったく……」


 幸いか否か、階段付近にいた僕は二階へ駆け上がって逃げた。

 ミー子も僕に続いて二階へ上がってきた。

 ふふん、あまいにゃミー子。二階へ逃げた時点で僕の勝利は確定したも同然!

 一階から二階へ吹き抜けになっている螺旋式のぐるぐる階段を登り終えた僕は、迷わず右折して扉がわずかに開いたとある部屋へと飛び込んだ。


 「あ! しまった! シャルル!」


 ミー子の心底焦った声が背中に響いたが、シャルルは決して振り返らずに目的地へ身を滑り込ませた。

 シャルルが入っていったのはだ。

 いわゆる、自ら敵地へと潜り込んだシャルルだが、そこにがあることを熟知していた。


 「シャルルー、出ておいでぇ。また、そこに入っちゃって!」


 ミー子の学習机の下の右奥にある狭い空間にシャルルは身を潜ませていた。

 学習机の下へ頭を潜り込ませたミー子は、右奥から後退姿勢でこちらを警戒気味に見つめるシャルルと目が合った。

 ミー子は宥めるような口調でシャルルへ手を伸ばすが、生憎届かないし、届いたとしてもシャルルを引っ張り出すのは容易ではない。

 机の右奥は大柄な猫一匹が通れるほどの広さしかない。

 学習机の下の奥へ逃げ込んでしまえば、ミー子も誰もシャルルに手出しはできない。

 緊急避難所は、シャルルの苦手な通院や耳掃除、爪切りがどうしても嫌な時に逃げられる場所として見つけた。にゃふふっ。

 どーにゃ、まいったかにゃ小娘ミー子め。緊急避難所ここに暫く籠城していれば、さすがのミー子も待ちくたびれて僕を諦めてくれるだろう。

 普段はミー子に捕まり、愛をのたまう戯れに翻弄されてばかりの僕だが、今回ばかりは勝利を確信した。


 ズズズズズッ……。


 シャルルの胸に湧いた勝利の美酒マタタビに酔いしれながら、ようやく辿り着いた安寧の場所で暫しの昼寝に耽ろうとした。

 (何か擦り軋むように妙な音がした気はするが、気にしないことにした。恐らくミー子が悔しさに歯軋りしていたか、怒りで連続屁でもかましたのだろう)。


 「んーーっしょっ! シャルルゥっ」

 

 やはりミー子が唸っていた。また馴れ馴れしく僕を呼ぶんじゃない。いい加減、僕を放っておいてにゃ。

 猫にはたまらない絶妙な暗さに体へぴったりくっつく仄闇の狭境オアシスで眠る僕の邪魔を……。

 この緊急避難所へ差し込むはずのない光の眩さを感じ、閉じた瞼を思わず開けてしまった。


 [――……(馬鹿にゃ……ありえないにゃ……)]


 シャルルにとっては世界の終末を眺めるに等しい驚愕の光景だった。

 仄闇の緊急避難所を照らす明るさに慣れてきた瞳に映り込んだのは……学習机の右下に設置された引き出しを左側へずらし、某巨人さながらヌッと顔を突き出して微笑むだった。

 引き出しには小さな車輪がついているため、移動させることができることを今回初めて知ったのだ。

 右奥の空間の壁を背に隠れていたシャルルの姿が丸見えになっている。


 「捕まえちゃったぁ、シャルルゥッ」

 

 恐怖映画に登場する猫が味わったのと同じ恐怖を身近で体感したくはなかったにゃ……。

 緊急避難所の完璧防護神話を砕かれた絶望感、勝ち誇った笑顔のミー子に再び捕らわれた敗北感に打ちひしがれるシャルルであった。

 こうしてミー子による一方通行な鬼ごっこは幕を閉じては、また別の日に繰り返された。


 *


 紅葉は黄昏に染まり、秋の残滓となって落葉する前冬の季節。

 シャルルの人生では三度目を迎える末秋だ。同じ紅葉から黄昏色、やがては雪灰色へ移ろう中庭の光景は昨年と一昨年と同じ。

 しかし、今年ばかりはいつもの猫屋敷家の秋とは雰囲気が変わっていた。


「ミー子、大丈夫……大丈夫だからね、ミー子」


 この日は珍しく、ママは自宅事務所で仕事をしていなかった。

 しかも娘のミー子の名前を繰り返しながら、今までになく悲痛な表情を浮かべている。おかしいのは、ママンだけではない。


 「くそっ。何なんだよ! どうしようもないって! は一体どうしろってんだ! 本人はめちゃ苦しそうなのに! 他に当てはないのか!」


 パパンもプラモデル仲間と遊びに行くことも、ネットオークションかテレビに耽ることもしていなかった。

 代わりに携帯端末で誰かへ電話をかけ、切る度に納得のいかない様子で焦って、苛立っているように見えた。

 ピリピリしている時のパパンには不用意に近付かないのが安全だにゃ。

 いたたまれないシャルルは静かに二階へ上がると、ママンのいるミー子の部屋へ向かってみた。

 今朝、通学のためにママンに車で駅まで送ってもらったはずのミー子は、三十分足らずで帰って来ていた。

 普段と明らかに様子の違う三人が気になったシャルルは、ママンとパパンの気を揉ませている問題の渦中が存在する寝室――ミー子が横たわっている寝台へ忍び足で近寄ってみた。


 「っ……ママ……怖い……怖いよ、ママ……私、おかしいよ……どうにかなっちゃいそうなの……止まらないの……苦しいの……あぁ……ああぁぁあぁ……っ!」

 「ミー子……! ああ……一体どうすれば……っ」


 寝台で顔下まで布団を被っているミー子は

 しかも、何か悲しいことがあって静かに涙を流すといった生易しげな様子ではない。

 カッと大きく見開いた真っ赤な双眸から留めどなく涙を溢れさせ、頬から長い髪の毛、枕へと幾つもの筋を生んで濡らせていく。

 淡い赤紫に淀み渇いた唇をワナワナと震わせながら、暗い洞からは苦悶の悲鳴をか細く漏らす。

 当然ながらシャルルのお鼻のように愛らしく色付いた顔も、血色を失ったように青褪めている。

 冬布団に毛布をたくさん被っているにも関わらず、ミー子の体は凍えているかのように震えている。

 さらに心臓発作に苦しむ人間のように左胸辺りを手で押さえながら、ハアハアと呼吸を荒げている。


 「っ……怖い……苦しい……体の奥から頭までサァーッて冷たくなって……胸も痛い気がして……私、を……をしてしまいそうで……私は、そんなことをちっとも望んでいないのに……っ……そんなことになったら、私……っ!」


 普段の天真爛漫で能天気、自由自儘なはずのミー子と同一人物なのか、とシャルルも目を疑ってしまった。

 しかし、現にミー子は心底苦しそうに涙を流しながら身悶えているのだ。

 今にも形相で……。


 「っ……シャルル……?」


 ただならぬ雰囲気を感じたシャルルは布団に乗っかり、ミー子のもとへノソノソと近付く。

 シャルルに気付いたミー子は普段の覇気を失っているが、青褪めた唇は淡い微笑みを自然と零した。

 左胸に立てていた指先はシャルルの額と喉へ伸び、モフモフなそこを優しく撫でてくれた。はぁ、きくぅ……撫で撫で技術テクニックは健在らしくて安心にゃ。


 「きっとミー子のことが心配で来てくれたのよ。シャルルちゃんは賢いわねぇ……ふふふっ」


 苦しむミー子に悲痛な面持ちだったママンの唇からも微笑みが自然と零れた。

 おっ! ママンも笑ってくれたにゃあ。そうそう! 背中も撫でられると気持ちいいにゃあ。


 「いつもなら、私を見ると即逃げるのにね、ふふふ……っ」


 やはり確信犯だったのかにゃー。無自覚よりも性質タチが悪いにゃ、まったく。

 ミー子にしては珍しい皮肉っぽい台詞にシャルルは呆れを覚えたが、何となく悪い気はしなかった。

 先程まで死にそうな顔をしていたミー子が嬉しそうだから。

 決してふざけているわけではないミー子に一体何が起こっているのか、猫の僕には訳わからないが……。

 一応は“家族”なのだから、ミー子に元気がなければ僕も気にかけてやるし、僕が傍に来ることで笑ってくれるなら(普段の奇抜な笑い方ではなく、あくまで穏やかな)、そうしてあげるにゃ。

 多少悔しくはあるが、ママンだけでなく、普段は苦言の多いパパンも娘のミー子を大事に思っているのを僕は知っている。

 以前、ママンが久しぶりに帰国したミー子にばかり関心を向けるのが何となく癪に障った時があった。

 大人になった今なら分かる。僕はミー子にを妬いていたのにゃ。

 初めてミー子の寝台で粗相をしたのは偶然だったが、二回目と三回目は意図的にやったのにゃ。

 案の定、鬼の剣幕でパパンに叱られ、ママンとミー子は「可哀想カワイソ可愛い」、と笑っていた。

 パパンはミー子のことになると直ぐ熱くなるクセがあるため、ミー子が気にしていなくてもパパンが代わりに怒るのだ。

 電話口でパパンが苛立っているのも、ミー子の訴える苦痛に対処できる病院の当てを中々見つけられずに、奮闘し続けているからだった。

 それは紛れもなく、パパンもミー子を想っている証で……。


 「ありがとう……シャルルは、優しい……いい子、いい子だねぇ……」


 まさにその通りにゃ。僕もひとがいい、と我にゃがら思う。

 まあ、僕だってママンとパパンが大好きだから、二人がミー子を大好きなのは理解できなくもないにゃ。

 ママンの優しさとも、パパンの甘やかしとも異なるミー子の眼差し。ただ、を愛おしむ“無邪気な慈しみ”……その愛を体で触れ、口付け、匂いを嗅いで、全身全霊で僕に伝えてくるぬくもりは、重たいけど、時に心地良くすら感じるのだ……。

 そんなミー子の性格も愛も理解してやり(受け入れるかは別)、嫌がりながらも付き合ってやれる猫はアイドルセレブ美猫の僕くらいだろう。

 ミー子は優しさと寛大に満ちた仏猫さながらの僕へ感謝と畏敬を抱くべきだ、とやがて思い知らせてやるにゃー。

 布団越しにミー子の膝に腰を落ち着かせたシャルルを撫でるミー子。

 青褪めたままの顔には穏やかな微笑みを浮かべ、蕩けるような慈愛の眼差しにシャルルを映していた。

 シャルルに見つめ触れている内に、ミー子を苛んでいた胸の苦しさや狂おしい不安は不思議と和らいでいった。


 *


 淡い藍灰の冬に色付いた天空、清らかに澄んだ冷気を纏う大地に包まれる十二月。

 寒がりのパパンに冷え性なママンのために、居間のテレビ下の暖房機と横の灯油ストーブ、絨毯に搭載された電気毛布も全開にされてポカポカと温まっている一階に、猫屋敷一家は団欒としていた。


「シャルルー、


 食卓の上に乗っかって居間を見渡していたシャルルへ、ミー子から声がかかった。

 しかし、撫でられるのなら分かるが、とは一体。

 ミー子の台詞の意味が分からず首を傾げているシャルルへ、ミー子は低姿勢で接近していた。ミー子は食卓の下から首を垂れて頭を差し出していた。

 シャルルは一瞬困惑しつつも手を伸ばしてみた。

 ミー子が何を求めているのか知らにゃいが、目の前で艶々と光る黒髪、猫じゃらしのように長くてフサフサな物体に猫心をくすぐられたにゃ。

 シャルルはミー子の後頭部へ肉球をポンッと押し付けた。


 「あー、幸せやぁーっ」


 側から見れば、食卓の上から相手を見下ろすシャルル、シャルルに頭を押さえつけられて跪くミー子達の姿は、まるで威厳を示す王様、と王様に足蹴にされて悦に浸る召使いみたいで滑稽だ。

 しかし、ミー子にとっては後頭部に走る柔らかな肉球の感触、シャルルの方から自分に触れてくれることは、たまらない喜びらしい。

 一方、シャルルも何となくミー子の頭をポンポン押してみること数回後。


 「いてててっ。嬉しいけど痛いよぉ、シャルルっ。あー! 待って、それはさすがに痛いよシャルルゥッ」

 [にゃあ(そのまま平伏せよ)]


 途中、何となく飽きてうっとおしくなったのと、触れていく内にうねり、形をボサボサと変えていく黒髪を獲物と認識したシャルルは反射的に爪を立てた。

 尖った爪先が頭皮に食い込む感触はさすがに痛いらしく、ミー子はシャルルに苦言しながら後退しようとする。

 ふふふっ、逃げようとする獲物は逃がさないにゃあー。


 「いたたたたたっ! シャルル、好きだけど、これ以上はさすがに痛いから離してぇっ」


 肉球から突出した爪に髪を引っ掛け、捕らえたススキの葉みたいに軽くてフサフサな物体ごとミー子の頭へ齧り付いた。

 ガブリッ。甘噛みと本気噛みの中間という絶妙な力加減にミー子は痛がって逃げようとする。

 しかし、髪の毛がシャルルの爪に引っかかっているため直ぐには逃げられず、手をこまねいている間にも、シャルルは髪の毛と頭を容赦なく噛み続ける。

 ふふふーっ、ザマァだにゃ。普段は追いかける側のミー子が、僕に翻弄されて逃げ惑う様を眺めるのは気分がいいにゃ。

 これに少しでも懲りてくれたなら、もう少し僕を敬い、僕を馴れ馴れしくお触りして追いかけ回して愛玩するのは控え、身の程を弁えるがいいにゃっ。


 「ミー子は何やってんじゃ」

 「一応あれでも遊んであげているのよ、ふふふ」


 弱者に君臨する獅子王者になった気分で瞳を爛々と光らせて嬉々とするシャルル、シャルルに痛めつけられながらも笑顔を消しきれないミー子を、ママンとパパンは微笑ましく眺めていた。

 ヤレヤレ、猫屋敷家は相変わらずだにゃ……。

 かくして、ミー子の無邪気な笑顔に暑苦しい愛情表現は相変わらずで、普段と変わらない様子だ。

 しかし、猫である僕は密かに知っている。多分、ママンやパパンよりもよく見て知っているのだ。

 ふと思い立った僕が二階へ上がり、ミー子の部屋を興味半分で覗きに行く。

 大抵、ミー子はパソコンでインターネットのアニメ・ゲーム動画を見るか、音楽を聞きながら勉強や読書に没頭していることが多い(何かに深く集中している時だけは、真剣で大人びた表情を浮かべている)。

 しかしあの錯乱騒動以降も、一人でいる時のミー子は、一人で布団で縮こまり、無言で青褪めていることが増えた。

 虚ろな瞳は思案に耽って惚けて見える時もあれば、言葉にならない不安や恐怖、焦燥で瞳を揺らし、息苦しそうに胸を抑えている。

 まるで大切なモノを無くしたように悲壮な眼差しから涙を一人で流している姿もたまに見かける。

 あの騒動の渦中でママン達の会話へ猫耳を立て、難解な点はペル吉先輩に訊いて教えてもらったことで大雑把にだが、理解したことはあった。

 どうやらミー子は『不安不安フアンフアン病』に罹ってしまったらしい。

 何か行動したり出かけたりするのにも、理由のつかない不安と緊張が繰り返し、強く湧きあがるのだとか。

 不安が高じれば、みたいに錯乱状態に陥り、あるはずのない胸の痛みや息苦しさ、「このままでは発狂してしまうのではないか」、という恐ろしい不安に苛まれる。

 あの日、ミー子を駅へ送るためにママンが出した車を引き返したのは、ミー子が激しい『不安不安発作』に襲われ、電車に乗れなかったからだった。

 さらにミー子に関しては、猫の僕には髭の先も予想しなかった、意外過ぎて衝撃な“事実”も判明した。


 『実はあの子、春に大学へ入る直前から何だか悩んでいたみたいで……最初は久しぶりの日本で初めての大学だから緊張しているだけかと思っていたけど……夏休み終わった後は、ひどく落ち込んで、元気がないみたいだったわ……』


 またある日のママンとパパンのやり取りの一部をシャルルは想起する。

 から見たミー子といえば、天真爛漫で屈託なく笑い騒ぎ、無邪気な好意を真っ直ぐぶつけてくる自儘な幼い娘だ。

 しかし、ママンやパパン、以外の、猫屋敷家の外の世界で過ごすミー子はどこか別人のように聞こえた。


 『ミー子の方から「を受診したい」、て言われた時は、正直何を言っているんだっと思ったが……まさか単にミー子とお前の考え過ぎじゃなかったとはな……』


 大学の夏休み期間を終えた直後、ミー子は寧湖町から電車で二時間も離れたとある心療内科診療所を定期的に通院していたらしい。

 実際にどこか心身を悪くして受診を始めたのではなく、どうしてもがあったからとのこと。


 『あなたの気持ちは分かるわ……あの時はミー子のしたいようにすればいいって尊重したけれど、正直私も半信半疑だったの……ああ、でも……っ』


 ママンの零した半信半疑、という言葉はまさに猫の僕自身の気持ちも物語る。

 それからママンとパパンの台詞、ミー子とママンとの会話を耳にしていくと、ミー子が不安障害になった背景が少しずつ浮き彫りになってきた。


 『私、やっぱり……の……』


 ミー子は久しぶりに帰国した日本で初めての大学生活で、久しぶりの同年代の人間との交流に胸を躍らせていた。

 実際、同じ学部内で行動と学びを共にする友達はできていたし、夏祭りの夜にはその友達を家に招き、愛猫シャルルを紹介している場面もあった。

 当時その場にいたシャルルの目から見ても、ミー子と友達は和やかな雰囲気でミー子本人も笑っていた。

 しかし、あれは見たままではなかったというのだろうかにゃ……。


 『、私には分からないの……っ』


 ママンに涙ながらに不安を打ち明けていたミー子の台詞。

 それは気の置ける猫屋敷家にいるミー子からはまったく見えない、ミー子の秘めたる“苦悩”を物語っていた。


 『私……他人と何を話したらいいのか分からないの――っ。他人が面白いと思うものを、私だけはどうしても面白いと思えないの……! 頭に入らないっ』


 ミー子にしては何とも曖昧で難解な内容を話すものだ。そして何を当たり前のような事を深刻そうに言うのか、と僕は首を傾げた。

 そもそもなのだから、違うのは当然だにゃ。

 猫の僕だって、他の犬猫と「何を話そう?」なんて考えるまでもなく分かるはずがにゃい。相手だってそうにゃ。

 何故なら、自分も相手も生まれや育ち、得て来た知識や関心、嗜好が異なるのは当たり前にゃんだから。

 同じ猫種族の間でも、耳の形から毛の色と質、髭の長さだけでなく、性格や好みは“十十色”なのにゃ。

 近所で仲良くさせてもらっているペル吉先輩やチビ子さんについても違いは明白にゃ。

 二匹が好むあの味が濃くてしょっぱくて、やたら人工的な海藻臭い乾燥食ドライフードや、ゴミ捨て場で見つかる掘り出しものの骨付き魚、狩り立ての鮮血滴る野鳥の美味さについては理解不能。

 野良猫ならではの外の世界での出来事や時事ネタには、室内暮らしの僕はたまに付いていけない。

 同じ種族であっても、どうしても埋め難い“壁や溝”というものは多かれ少なかれあるものだにゃ。

 今の僕みたいに立派な大人猫へ成長すれば、ある程度は相手の心を感じる取ることはできるだろうが、心が読めるなどまやかしの夢に過ぎにゃい。

 ま、ミー子の日頃の行いを振り返れば、僕の機嫌も都合もお構いなしの実直さ、で幼い言動は友達を作るのには苦労するのが目に浮かぶ。

 後々耳にした話を整理すると、どうやらミー子は、最近になって大学でも孤立気味らしい。

 流行の芸能テレビネタやファッション、音楽・スポーツ系のサークル活動、アルバイト、一流企業や大学院の説明会参加、国際的グローバルな技能と経験値を売り込むための語学・留学プログラム、そして……人生の春を謳歌する大学生らしいそれらの楽しみは、どれもミー子の心を惹きつけることがなかったらしい。

 確かにミー子は流行にはまったく疎いしテレビは見ないし(アニメしか見ない)。

 友達と一緒にギターサークルに入ったから買ったギターの演奏もド下手で曲にも疎いし(アニメ系でもマニアックなやつばかり聴いているようだ)。

 さらに運動嫌いだし、留学していたわりには英会話力も語彙力も乏しいし、恋愛は専ら二次元限定のオタクだ。

 同級生とは気が合わなさそうなのも、猫の僕にも頭を絞るまでもなく想像つくにゃ。

 だからといって、それのどこがいけないのだというのにゃ?


 [ミャッ、ミャアァ〜]

 「シャルル? 珍しいね……ううん、久しぶり、かな? こうしてシャルルの方から来てくれるなんて……」


 微かに開いた扉の隙間へポヨポヨの体を滑り込ませたシャルルは猫撫で声を漏らした。

 普段は目が合えば即背中を向けるはずのシャルルから歩み寄ってきたのが珍しく、ミー子は戸惑い半分嬉しさ倍の微笑みを浮かべた。

 今はしおらしくなっているおかげか、自ら寝台へ乗り上げて近寄るシャルルに興奮して喚くこともなく、静かにシャルルを手招きする。

 サービスとばかりにゴロゴロと喉を鳴らしながら、ミー子の膝へ顔から体を擦り寄せて甘えるシャルルをミー子は優しく撫であげる。

 これはのほんの気まぐれだからにゃ。

 相変わらず技術者テクニシャンなミー子の指遣いにシャルルは心地良さを覚え、ミー子の横に腰を落ち着けた。


 「シャルル……足を揃えて丸く座ってるの、で可愛い……ふふふ……っ」


 目元に暗い影を落としたまましおらしく微笑んではいても、やはり言葉は以前のミー子らしさを残していた。それでいいんじゃないかにゃ?

 ミー子は、ミー子でしかないのだから。

 猫の僕が僕でしかなく、僕以外の何者にはなれないのと同じように。

 仮にミー子が典型的な大学生と同じように振る舞えたとしても、それは

 勉強や家族そっちのけでサークル活動や飲み会、バイトに没頭し、流行の芸能ネタで盛り上がり、自分の趣味に合わないお洒落や化粧にお小遣いと労力を注ぎ、語学留学や大学院進学か一流企業偵察で意識高い系を目指し、好きな相手と逢瀬デートを重ねて恋人を作るミー子など……宇宙人レベルで想像できない。

 もしも、僕だってペル吉先輩とチビ子さんみたいに野鳥狩りや草むらでの野宿とか、ゴミ漁りにお宝や縄張りを巡っての猫間抗争ができたとしても……それが“本来の僕”だって思えないし、ママンやパパン、ミー子もそんなのはシャルルじゃない、と感じるだろう。

 だから結局、真理と結論は既に僕ら命の手中に在るのだ。


 僕はただ僕がままでいるしかない。


 ミー子もあるがままミー子でいるしかない。


 それでいいではないかにゃあ。


 まだまだ未熟な小童こわっぱのミー子も、僕と同じくらい大人のよわいになれば、いつかは悟るだろうにゃ。


 「ありがとう、シャルル……大好きよ、元気が出た」


 それまでは、まだまだ猫の僕にことを許してやらないこともないにゃ。

 スキンシップ愛情表現だけは、普段よりもさらにこれくらいまでに、心底控えてほしいけどにゃっ。

 一匹の猫は信じて気長に見守ってきた。


 春の明けぬ冬は存在しないことを知っていたから。



 ***第6話へ続く***

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