第2話『猫屋敷家の新日常』

 僕はアメリカン・カール茶虎の雄猫。アイドル猫王の父親がいた、愛らしくて凛々しい若猫である。

 紆余曲折を経て、僕は猫屋敷家という上客の心を射止め、新たな家族として迎えられた。

 生まれ持った美猫の魅力と猫事を尽くし、天命へ悠然と身を委ねたことが功を成した。やはり努力と才能は報われてこそ意味がある。

 強面の親父は高級ブランド 貴族猫ロイヤルキャットのドライフードの山盛りパックや、ペットショップで最高値の上質プラスチック製の器や檻、トイレには当然消臭性の砂玉まで揃えてくれて、至れり尽くせり。

 無類の猫好きで気前の良いお金持ちな親父に見初められた僕は、大変幸運な猫である。だから僕は猫屋敷家の柱たる親父に一生付いて行く、と決心した。

 あのせせこましいペットショップの仲間や世話係とまともにお別れする時間も与えられないまま、その日のうちに僕は引き取られた。

 ペットショップに取り残された仲間も、僕のように優しくて経済的にゆとりある猫好きの人間と巡り会えるよう祈った。それにしても。

 ペットショップから初めての外の世界へ旅立った僕に、まさかの洗礼試練が待ち受けていたとは。


 [にゃああぁぁあぁあ〜]


 揺れる、揺れる、絶え間なく起きる小刻みの振動にエンジン音、時折不意に襲ってくる凄まじい浮遊感に、口から心臓が飛び出そうだ。

 僕が買われた時刻は陽の完全に沈んだ夜であることも相まって、辺り一面は真っ暗闇だ。僕を納めている鞄の網越しにチカチカと閃く街灯が眩しくてかなわない。


 「随分、鳴き喚いているな」

 「きっと、車が怖いのよ」

 「だいじょーぶよ、だいじょーぶだから。もう少しのしんぼうだよ。ね?」


 前方座席からこちらを案じてくる親父と母親、隣から鞄の網越しに指を触れながら宥めようとしてくれるミー子だが、僕には無理! できれば今すぐ僕をここから解放してほしい! 

 ペットショップを出る際、ペット用の携帯鞄キャリーバッグに入れられた僕は、猫屋敷家の車の後部座席に乗せられた。しかし、人間が遠距離移動するための乗り物だという噂のに生まれて初めて乗った僕は、半ばパニック状態に陥った。

 遠い猫の親戚であるチーター様にも匹敵する速度で走れるらしい自動車は、何と野蛮で乱暴な乗り物なのか。

 親父が無茶なハンドルを切り回し、頻繁に急ブレーキをかける度に、僕は脳みそと胃腸を揺さぶられるような不快感と目眩に見舞われ、注意を促すための短いクラクションが鳴ると心臓を鷲掴みされる。

 これでは黒の魔猫さんみたいに命が幾つあっても足りないものよ。都市伝説の闇の引き取り屋へ連れて行かれるよりは幾分も幸運だが、外の世界とは何と刺激的で心臓に悪いものか。


「はい、到着。よく我慢したね。いい、いい猫」


 人間時間に換算すれば約二十分、猫にとっては永遠に続くのでは、とぞっとする恐怖の時を経て、僕は無事に猫屋敷家に着いた。

 鞄の中で鳴きながらも何とか堪えた僕の功労を誰か褒めて欲しいにゃ。

 内心、安堵と疲労の溜息を吐く僕の頭を、ミー子と母親は網越しに撫でてくれた。


 *


「見てみて! あれ何? あれ何か分かる?」


 宵闇に包まれて混乱していたのもあって最初はよく見えなかったが、猫屋敷家の邸宅は猫首が痛くなるくらい見上げるくらい立派な一軒家だった。

 後の生活で視認できた外装は、猫目さながら小さくてまぁるい窓、猫一匹が通れそうな細長い窓が付いた白煉瓦の壁に慎ましやかな灰白色の屋根を被っている。

 周りを囲う庭木と草花の彩りや、艶灰色の大理石の門壁以外は一見簡素な外装だ。しかし、換気し辛そうな小窓に張られた磨りガラス、頑丈な鋼扉の二つの鍵穴、防犯警報システム機器を設置した玄関から、猫屋敷家の尋常ならぬ防犯意識の高さは一目瞭然だ。

 さすが僕を見初めただけの目利きある猫屋敷の人間は、並みの富裕層ではない。 

 愛らしくてか弱い美猫の僕にとって、安心安全も私的領域プライバシーも保障される家に引き取られたのはこの上ない僥倖である。

 さっそく猫屋敷家の邸宅に招待された僕は、まさに"セレブ猫"の贅沢と刺激を体験していた。


 「見て! 猫ちゃんも映画に興味津々だよ!」


 玄関を上がって直ぐ先には、居間と食卓、台所の一体になった広い空間があった。光沢のあるキャラメル色の皮製長椅子ソファに腰掛けるミー子の膝の上から、僕は初めて「映画」という人間の娯楽を見せられていた。

 薄型の大きな液晶テレビ画面に映るのは、某人気幻想ファンタジー映画の地上波放送だった。

 透明度の高い高画質で織りなす魔法という名の光と闇の乱舞、見せ物小屋の犬猫さながら大仰に話し動く人間と幻獣は、僕の瞳を惹きつけた。

 喉や頭を撫でてくれるに座りながら、有名人気映画を鑑賞することになるとは(物語の流れも台詞の意味もさっぱりだが)。

 一方僕を膝に抱いているミー子は、映画が面白いのか、それとも僕にメロメロか、きっと両方なのか上機嫌だ。


 「猫ちゃんに名前をつけなきゃね」


 テレビの映画を見る傍ら、居間の絨毯であぐらをかいている親父の隣で寛ぐ『母親ママン』は言い出した。

 ママン、ナイスな切り出し! 最も重要な事柄である名付けは今すぐ結論を出すべき。ママンの声かけにミー子と親父は首を捻って考えた。


 「そうだ! 君はどう?」


 にゃに? 何にゃのだ。そのフランスっぽいのに一文字惜しい感じの名前は。

 同じくママンと親父も疑問を抱いたらしく、ミー子に問いかける。するとミー子曰く、彼女の好きな漫画とアニメに登場する人物キャラの名前らしい。

 何故とまったく似ても似つかない、しかも人間と同じ名前を付けられなければならないのか。


 「訳分からんから、『フラン』は没。アメリカン・カールだから『カール君』でいいだろ」

 「えー、身も蓋もない」

 「耳もカールしているから別にいいだろ」


 カールか。確かにフランよりはしっくり来るが、誰でも思い付くような名前では、イマイチ独創性オリジナリティに欠ける。しかも、ただのアメリカン・カールではなく、アイドル猫王の子息である僕には尚のこと。

 ややこしいことは深く考えたがらないらしい親父に、基本内向的で自分の意見を押さないママンも、『カール』案に傾き始めている中、ミー子は悪あがきとばかりに首を捻っていた。


 「そうだ! 『』――なんてどう?」

 「はあ? 何だ? シャルルとか、フランに負けずフランスかぶれの仰々しい名前は」

 「シャルルは、シャルルマーニュこと初代神聖ローマ皇帝・だよ。シャルルはカールのフランス語読みだからぴったりでしょ?」


 ほほう。ミー子という娘、奇特者の匂いはプンプンだが、無知薄学はくがくではないらしい。

 シャルルの「シャ」の強い響きで感じる威厳、「ルル」の流れるように軽やかな音色は愛らしさと親しみを与える。何より偉大なる皇帝と同じ名前なのが気に入った。


 [にゃんっ]

 「ほら、シャルルもシャルルがいいんだって! ねー? シャルルっ」


 にゃっ! ともう一度、強調するように甘く鳴いた僕にママンは微笑み、親父は渋々と折れた。


 「シャルルでいいのではないかしら。シャルルも気に入ったみたいだし、ね? あなた」

 「シャルルかあ……まあ、言われてみれば確かに悪くないかもな。英語読みならカールになるし」

 「やったあ! 決まり。今日からあなたは『シャルル』よ!」


 かくして、アイドル猫王に引けを取らない初代神聖皇帝と同じ『シャルル』と命名された僕の新たな日常生活は、まだまだ始まったばかり。



 「はーい。こんばんは、ミー子」

 [にゃんっ(やあ)]


 全ては順風満帆に時が過ぎ、シャルルが猫屋敷家に迎えられてから、早一ヶ月経った頃。

 どういうわけか、ママンは僕を抱き上げながらパソコン電子計算機(コンピューターというすごい機能を小さな箱に閉じ込めたもの)の前で話している。

 その僕も同じ橙茶色のお洒落なセーター(『親父パパン』が戯れに買ってきた、本来は犬用のセーター)を着せられていた。何だか窮屈。


 『シャルルきゅん! ママもこんばんは!』

 「今日も学校で元気にしてた?」

 『うん! シャルルたん、可愛い〜お洋服着てる!』


 ママンのパソコン画面に映っているのは、猫屋敷家とは異なる内装の部屋を背景に微笑むミー子だ。

 実はシャルルを飼い始めた三日後、ミー子は猫屋敷家を出ていた。ミー子はカナダに留学する女子高生らしい(顔と言動に似合わず優秀なのかにゃ?)。

 シャルルを買った時、ミー子はカナダの冬期休暇で一時帰国していたらしい。新学期が始まる前にカナダへ戻ってからも、ミー子はママンとパソコンテレビ通話で毎夜連絡を取っている。

 ママンはパソコンテレビ通話をする度に、必ずといっていいほどシャルルを伴わせる。

 日を重ねるごとに愛らしさと凛々しさを増して育ってゆく僕を見せるのはいいが、その度に長いこと抱っこしながらのお喋りにうんざりしてしまう。

 子猫時代とは違い、そんなに抱っこをされて喜ぶ歳でもないというのに。

 しかも、ママンも僕にメロメロなだけあってか、しょっちゅう抱っこや頬擦りに加え、接吻チューまで迫る始末。

 今宵もセーターを着せられた僕に魅了されたママンは、ミー子の前でチューをしてくる。ええい! 暑苦しいからやめるにゃっ。


 『可愛い! シャルルが肉球をママの唇に押し当ててるっ』

 「よね、ちゅーぷ!」

 『お目々もまぁるくて、ウルウルしていて……』


 シャルルは精一杯の抵抗として肉球でママンの唇を押し退けようとし、「お願い、やめてくだされぇ」、と潤んだ上目遣いで訴える。しかし逆効果らしく、ママンとミー子はシャルルが本気で嫌がっていることに気付いていない。

 むしろシャルルの抗議する姿に見惚れ、「可愛い!」などと見当違いな感想を述べる始末。まったく人気者は辛くてたまらないにゃ。

 というわけで、まあ愛情表現の重い母娘がたまにうっとおしいことを除けば、僕は猫屋敷家での生活に概ね満足していた。それも大半は猫屋敷家の柱たるパパンのおかげだ。


 「ほーら、シャルル。パパの特別な焼き豚だ! もう一切れ食べなされ」

 「ちょっと、あなた。あげすぎたら体に毒よ」

 「一切れくらい、かまわないさ。ほら、シャルルもこんなに美味そうに食べてるんだから、な?」

 「まったく、もう……」


 パパンは猫屋敷家で最も気前が良く、シャルルを献身的に可愛がってくれる人間だ。

 よく居間の絨毯で寝転がっているパパンのぽっこりとした風船みたいなお腹にぴったりくっついて寛ぐのも心地が良い(ある時、パパンの股間にくっついて眠っていると、何故かママンが口を押さえて震えていたが)。

 僕がうたた寝をしている時も、「お! シャルル!って呼ぶとちゃんと尻尾を振って返事してくれるぞ! シャルルは賢いなあ!」、とママンと一緒になって僕のことをたっくさん褒めてくれる(名前というより。単に声に反応しただけだとしても)。

 シャルルが女の子さながらか弱く甘い鳴き声を短く奏でながら、上目遣いで擦り寄れば、パパンは必ずご馳走をお裾分けしてくれる。

 僕の一番の好物は網焼きされた芳しい高級焼き豚やハムだ。

 隣でママンに苦言されながらも、どこ吹く風の笑顔のパパンから焼き豚の欠片を与えてもらう。

 うむ! 美味い! ドライフードでは味わえないジューシーで芳しい旨味、染み渡る刺激的な塩気に舌鼓を打つ。

 人間ですら普段から滅多に味わえない高級食を隣で一緒に食べることこそ、セレブ猫の嗜み。

 一方僕の健康を案じて、時折パパンに苦言するママンですら、結局僕に尽くしてくれる。

 例えば、巻き寿司に入っている新鮮なマグロをママンは取り分け、自分は海苔とシャリだけ残った味気ない寿司を食べる。母親とは偉大なる愛そのもの、何たる献身ぶりか。

 さらに甘党の子ども舌なパパンは、買ってきたシュークリームやロールケーキとかハイカラな名前の菓子に入ったクリームをよく僕の唇と鼻に塗り、舐めさせてくれる。

 クリームとやらは僕の好きな牛乳がより甘く濃厚にとろけるような、大変美味な食べ物だ。

 こうした珍しい食べ物の他、ふかふかの雲みたいに滑らかな毛布に、暑夏でも快適に過ごせる涼やかな敷物マット、冬にはぽかぽかと極楽な電気絨毯カーペット、猫の敏感肌にも優しいブラシ、野生時代の狩猟本能をくすぐる玩具まで……全て一級品を揃えてくれたのは、パパンの寛大さと財力である。

 パパンは目に入れても痛くないくらいシャルルを溺愛し、欲しいものや必要そうなものは何でも惜しみ無く与えてくれる。

 ペットショップ時代とは大違いのセレブ猫らしい贅沢な暮らしを満喫している僕には、毎日がまさに“至れり尽くせり”のフルコース。

 しかし、猫屋敷家での贅沢な暮らしに至高のおもてなしを満悦していた僕は調子に乗っていたか、気が緩み過ぎたのかもしれない。


 [お! ニオイと内装からして、ここはミー子の部屋かにゃ? さて、寝台の寝心地を確かめるとしよう]


 二階建ての一軒家の内部は広々としており、色々と物珍しいモノが置かれた部屋がたくさんあって面白い。

 パパンの車や飛行機の模型蒐集品コレクションを納めた部屋。海原のように広い寝台に茶室、冠婚葬祭用の洋服箪笥、外を眺められるのある夫婦の寝室。

 年季の入ったフカフカ布団やソファ、開いたダンボールの洞窟だらけのに、水の湧き出る水道蛇口いずみがある物置部屋。まさに猫屋敷家は冒険の宝庫と魔界。

 今回はカナダ留学で不在のミー子の自室へ足を踏み入れてみた。普段は閉まっている部屋だが、ママンはミー子のために頻繁に扉と窓を開けて換気しているのは知っている。

 今がまさに換気中で、ママンも庭の手入れで外にいるから好機なのだ。どれ、さっそく小娘ミー子の部屋を観察してやろう。

 見た所、他の部屋と比べたらミー子の部屋は一番狭いようだが、他の部屋にはないたくさんの興味深い物や家具が揃っている。


 [ほほう。さすがミー子は留学するだけあってか、立派な勉強机に本棚を与えられている。僕もこの机で勉強すれば、もっと賢くなれるだろうか]


 ミー子の部屋を入って直ぐ目の前には、明るい色彩の木が香る学習机に立派な本棚が設置されている。

 シャルルは猫自慢の飛躍ジャンプ力で机に乗り上げ、机の周りを観察する。換気のために開いた小さな窓からはお向かいの家の二階と庭が眺められた。

 新たなを発見。風が気持ちいいにゃ。それにしても……。

 とりわけシャルルの目を引いたのは、本棚の裏表の窪みに隙間なく埋められた大量の本の数だった。

 しかし本棚に挟まった本の帯を眺めるシャルルの瞳にはやがて、"尊敬"とは正反対の感情が灯っていく。


 [僕に名前を付けた時もそうだが……ミー子、漫画を読み過ぎではにゃいか? 本当に勉強しているのか怪しくなってきたぞ]


 ミー子の部屋には学習机と添え付けの本棚だけでなく、壁沿いに立てられた別の本棚を何冊もの漫画本で埋め尽くしていた。

 しかも本棚に納まりきらなかった漫画本の塔が、何柱も寝台の棚や本棚の天辺にまで積み上げられている。

 優学生らしい心理学や医療関係、自己啓発系の本、小説も幾つか見られるが、それでも本の山の九割は漫画・アニメ・ゲーム関連の書籍で占められている。

 寝台と机の周りもキャラもののぬいぐるみやグッズにたくさん囲まれている。つまり、ミー子は俗に言う「二次元オタク少女」というものか。

 オタク部屋なるものを初めて見た僕は度肝を抜かれた。

 なるほど。ミー子は言動や話し方、趣味といい、成熟手前の年頃な女子高生らしからぬ幼い雰囲気を醸し、友達が極端に少なく、恋人の影すら一切匂わない理由が分かったぞ。

 これだけ漫画と自分の世界に引きこもって没頭する娘が、よくまあ留学なんて大冒険へ踏み出せたものだ。

 知識も関心も偏った引っ込み思案なミー子が、言語も文化も異なる海外で友達を作り、勉強に勤しむ姿は正直想像し難い。

 一つの可能性として、ミー子は猫屋敷家の財力と人脈コネだけで海外の高校へ入学したのではないか、と僕は疑った。

 いずれにせよ、ミー子のことがほんの一瞬妬ましく思った。

 もしも僕が猫ではなく人間であれば、きっと財力やコネに頼らずとも勉強という実力で留学を果たせたに違いない。

 こんな幼いオタク少女も留学できるのだから、僕にできないはずはない。

 人間のように机に齧り付き、試験を受けて合格し、華々しく海外へ留学し、流暢な外国語を話しながら外国人とパパンとママンに「素晴らしいわ! ミスター・シャルル・猫屋敷!」、ともてはやされる光景を夢想した。


 [さっきから思っていたが……ミー子の寝台も……中々に心地良い……]


 有情滑稽ユーモラスな妄想に耽っている内に、シャルルは猛烈な睡魔に見舞われた。


 [夫婦部屋の寝台は広過ぎて逆に落ち着かないが、ミー子の方がサイズが丁度良い……布団も柔らかで涼やか……まるでお雲の上に浮かぶようにゃ……]


 ふかふかと軽やかな弾力が心地良い布団を、母親のおっぱいにするようにフミフミと掻き立て、ゴロゴロと甘く喉を鳴らす。

 ここは誰もいなくて静かで、丁度良いくらい狭く、布団も心地良い……まさに極楽天国気分にゃーにゃあぁー……。

 とろん、と恍惚に潤んだ双眸がゆっくり閉じた頃、シャルルは雲布団の上でくるまって眠りへ落ちた。

 しかし、シャルルが極楽天国から突き落とされる羽目になるのは、凄まじい怒声に叩き起こされた直後だった。


「シャ〜ル〜ル〜!!」


 まさに青天の霹靂へきれきだった。

 穏やかな微睡みに耽っていた所で、耳朶を突き刺した声。明らかに自分を呼んでいることに僕は驚き半ばで覚醒した。

 途端、目の前の光景に衝撃を抑えられなかったシャルルは目をまぁるくして呆けた。

 一方、シャルルが未だ寝惚けていると思った相手はもう一度雷声を落とした。


「シャルルー!」


 驚愕に大きく見開いたシャルルの瞳に映るのは、鬼猫の形相で睨みながら声を荒げるパパンだった。これは悪い夢なのか?

 普段はしてくれるパパンの豹変ぶりに加え、怒鳴られる理由にまったく心当たりのないシャルルは恐怖のあまり凍りつく。


 [にゃーんっ!]

 「こいつ、やりやがったな! こりゃっ」


 訳が分からないシャルルは甲高い声で鳴きながら狼狽える。パパーン!やめるにゃー! 雷声は耳がいい僕には拷問だにゃ! 

 側から見ればどこか滑稽で可愛らしい訴えも虚しく、パパンは問答無用でシャルルの首根っこを掴み上げた。

 首を吊り上げられた姿勢の不快感にさらに[にゃー!]、とシャルルは抗議する。

 一方、シャルルの顔が布団へ押し付けられた光景、パパンの言い放った台詞はお怒りの理由を物語っていた。


 「これはお前の仕業だろう? シャルル! でしたのか! ダメだろう! こんにゃろっ」


 ミー子の布団には、テニスボール二個分のが広がり、そこから鼻を突く臭いが漂っていた。

 丁度シャルルのお尻辺りも同じような臭いと共に湿っていた。

 本来であれば最も安心するはずの臭いも、パパンの凄まじい剣幕の前ではシャルルも泣き喚く他なかった。

 まったくもって納得いかにゃい。新たなお気に入りの寝床で気持ち良く眠り、身も心も緩んだことでうっかり漏らした(マーキングをした)だけだ。

 なのに、何故僕がこんなにも怒鳴られなければならないのか。今までならトイレ以外で用を足したことはないというのに。


 [にゃん……]


 かくして、シャルルはミー子の布団をオシッコで汚すという初めての"粗相"をした。

 パパンにこっぴどく叱られた後は、疲れた様子でママンの仕事椅子に伏せていたらしい。

 人間の赤ちゃんと同様、怒られた理由を解するはずもなく、落ち込むシャルルをママンが慰めたとか。


 『そういうことがあったのね。何も強く叱らなくていいのに』


 雷パパンの叱責と折檻を受けた夜、いつも通りパソコンテレビ電話でママンと繋がったミー子は事の顛末を聞かされていた。

 当のミー子はシャルルの粗相をまったく気にしていない様子だった(洗濯するのは自分じゃないから、他人事に感じるのかもしれない)。

 ミー子に同感なママンも呆れと憐れみの混じった苦笑を零しながら、シャルルを撫でる。


 「そうよねぇ。あの人ったら、普段はシャルルに甘々なのに短気ったらないわね。まあ、ミー子を思ってもあったのでしょう」

 『そっか……ねぇ、不謹慎だけれど……シャルルは』

 「ええ……疲れて落ち込んでいるのが分かるでしょう?」


 しかし、いつも穏やかママンですら、でミー子に似ていて酷だった。

 最初は同情的な眼差しだったママンの瞳に、ミー子の微笑みと同じ色が浮かんだ。

 ママンの胸に芽生えた新たなをミー子は言葉に紡いだ。


 『落ち込んでいるシャルルって、何だか……ぎゅっと抱きしめてあげたい』

 「ミー子もそう思う? ちょっと可哀想だけど、この[にゃん……]、って弱々しい表情も何だかたまらないわね。ふふふ」


 ミー子め。ママンもひどいにゃ。

 ひとがこっぴどく怒られて落ちんでいる姿を「可愛い」、などと。猫の不幸を笑うにゃんて!

 まさか二人とも、そこまでの人で無し猫で無しだったとは。


 『ミー子の布団事件・』で災難に見舞われたシャルルは心に固く誓った。

 パパンだけは決して怒らせてはならない――。

 訳も分からず叱られ怒鳴られた恨みは、猫の不幸を「可愛いらしい」と笑う非道なミー子へ燃やそう……。

 世話係のママンに対しては、死ぬまで自分の面倒を見させてやる、と……。


 シャルルの和やかながら、時たま波瀾万丈な日常は明けていく。




***3話へ続く***

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