第二話

 シーラント王国。

 大陸西の沖合いに浮かぶ二つの島、王都を有する本島である南のシーラム島と、北のライサ島が国土の八割を占める。それに付随する中小の島々およそ二千からなる島国である。

 かつてはいくつもの勢力が覇を争い群雄割拠していたが、おおよそ一六〇年前、現王家・エインズワース家の祖により統一国家が樹立された。

 他国の攻撃を受けることも数度あったが、ここ八十年ほどは諸外国との外交関係は良好で、シーラントは平和を謳歌している。

 シーラム島北部、海峡を挟んでライサ島を臨む海沿いに位置する王都レンは、現在九十万人の人口を擁する。内海に面し、町の東にはシーラム島を縦断する大河ドゥーネが流れるという立地から、古くから流通の中心地であったレンは、シーラントの繁栄に伴って世界有数の大都市へと発展した。

 この国を特徴付ける大きな文化的側面として、武術を尊ぶ気風というものがある。

 なぜそのような気風が育ったのかを説明するならば、話は有史以前の新話時代にまで遡る。神に選ばれた戦士たちが神の御前で技を競い、勝ち残った者にこの国の支配権を与えたという逸話がそもそもの起こりだ。乱世の時代が長らく続いたことも影響し、シーラント王国では王者たるものは強者であれ、という伝統が醸成された。以来、時の為政者たちは自ら強者たろうと努力してきたし、腕の立つ武芸者は手厚く保護された。これは統一国家を樹立した現王家でも変わっていない。

 火器の製造技術が進歩し、戦の主役が銃と大砲に移行しつつある時代にあっても、いまだこの国では武術は重要な意味を持つ。王国軍の訓練課程ではいまだ剣術が必須となっているし、たとえ文官であっても武術の免状は出世の足がかりとなる。ゆえに、上は王家から下は一般庶民まで、武術を嗜む者は多い。

 また、武術試合が興行として成り立っているというのも、特筆すべき点であるといえる。試合を観にきた客から徴収する観戦料、賭けの売り上げ金などで試合を運営し、出場者への賞金を出す。これで主催者も利益を得ることができるというのは、「金を払ってでも面白い武術の試合が観たい」という人々がいかに多いかを示している。

 このような国であるから、武術の腕一本で生計を立てる者も少なくない。一流と呼ばれる武術家ならば、試合の賞金だけで一般庶民の十倍以上もの年収を稼ぎ出すという。マーシャも、かつてはそうした職業的な武術家であった。

 シーラントでは年を通じて全国津々浦々、式典や祭礼にかこつけては武術大会が行われ、人々はこれに熱狂する。

 この気風が、シーラント王国が他国と一線を画す大きな特徴といえよう。


 晩酌こそが、目下マーシャ・グレンヴィルの人生において最大の楽しみである。

 現役の武術家であったころ、周囲の人間たちが酒を呑むのを見てなんともなしに、というのが酒をやるようになったきっかけである。しかし、マーシャの父は大の酒好きであったし、マーシャが聞く限り祖父、曽祖父もそうだったという。要するに、代々酒好きの家系だったというわけだ。

 稽古を終えたミネルヴァたちを見送ったのち。自身の鍛錬のために軽い素振りをこなしたあと、マーシャはベッドに寝転がりながら近頃評判の流行小説などを読んでいた。これがなかなかに面白く、時を忘れて読み耽るうち、気が付くと日は落ちて書物の文字も判別がつきにくくなっている。

「おっと、もうこんな時間か」

 ひとりごちたちょうどその時、マーシャの腹の虫がぐうと鳴いた。

 そろそろ夕餉にするか、とベッドを立ち上がった。この日マーシャの部屋には、先ほどの訪問の際にミネルヴァが手土産にと置いていった上等なハムがある。

「なれば、アレを開けるとしよう」

 にんまりと笑みを浮かべたマーシャが向かった先は、桜蓮荘の地下室である。地下室というのは、概して四季を通じて気温・湿度が安定している。これは、ワインの保存に適した環境だといわれており――数ある酒類の中でもとりわけワインを好むマーシャは、この地下室を改造してワインの保管蔵として使っているのだった。

「ええと、確かこのあたりに……おお、これだ」

 おがくずの詰まった木箱をまさぐっていたマーシャの指が、目的のものを見つけ出す。それは、一本の赤ワインだ。シーラント王国の片田舎で生産されたそのワインは、天下の銘酒と呼ばれるほどの高評価を受けながら、生産量が僅少であるということでめったなことではお目にかかれない貴重品となっている。値段もかなりのものだ。マーシャが馴染みの酒屋に頼み込んで、数ヶ月越しにようやく手に入れたものであった。

 しかし人間とは不思議なもので、実際に手にするとなんとなく空けるのが勿体ないという感情が生まれる。今日空けてしまおうか、やはり明日にしようか。いや、なにかめでたいことがあったときのために取っておこうか……そんなことを考えているうち、一ヶ月近くが経過してしまった。この日、上等なつまみを得たことで、ようやくそのワインを開栓する踏ん切りがついたというわけだ。

 マーシャは踊るような足取りで自室に向かった。

 買い置きしてあったパンとチーズ、ハムをぞんざいに皿に盛り付け、台所の棚からワイングラスを取り出す。それは一流の職人の手による、非常に薄いつくりのものだ。一般に、グラスの飲み口は薄ければ薄いほど、飲み物の風味が敏感に感じ取れるようになると言われている。

 これで、準備は整った。栓抜きのスクリューをコルクに突き立てると、はやる心を抑えてゆっくりと引き抜いていく。歳経たワインのコルクは脆く、自然手つきは慎重になる。

 遂に、ぽんという軽い音を立ててコルクが完全に抜けた。この瞬間こそが、ワイン愛好家の至福のときだ。それまで瓶の中に閉じ込められていた濃厚な葡萄の香りが一気に溢れ出し、まるで花畑にいるかのように錯覚させる――はずであった。

「む、これはいけない」

 マーシャは思わず顔をしかめる。瓶の口から溢れたのは芳醇な香りではなく、えも言われぬ嫌な臭い――たとえるならある種のかび、もしくは濡れたまま放置した洗濯物か――であった。

 ワインを飲みつけていると、こういう現象にぶち当たることはまれにある。何らかの原因で中身が変質してしまっているのだ。栓を抜いてみるまではわからぬことであり、言ってみれば「外れ」である。

 一縷の望みをかけて、少量を口に運んでみる。が、味は香りから想像できるそれより酷いくらいであった。こうなっては諦めるほかない。

 これには、マーシャも肩を落としてしまう。期待が大きかっただけに、落胆も大きい。かといって、今日は酒をやめておこう、とはならないのが酒飲みという種類の人間の厄介なところだ。一度飲むと決めたら、なんとしても飲まねば気が済まないのだ。

 地下室にはまだ秘蔵のワインが十数本眠っているのだが、さりとてワインを飲もうという気持ちはすっかり萎えてしまっていた。そして間の悪いことに、ワイン以外の酒類の買い置きは切らしている。

 どうしたものかと考えて出した結論は、

「仕方ない、今日は外でるとしよう」

 というものであった。


 軽く身支度をして、部屋を出る。向かう先は、「銀の角兜亭」である。徒歩で数分ほどの場所にあるその酒場は、マーシャの行きつけとなっている。

 表に出た瞬間、湿り気を含んだ生ぬるい空気がマーシャを包む。天気が崩れるかも知れぬ、と思いながら歩くマーシャの鼻先に、ぽつりと水滴が落ちた。やはりかと思う間もなく、雨は強さを増して本降りとなる。傘を取りに戻るのも億劫だ。マーシャは上着をおっ被って小走りに駆け出した。

(やれやれ、中庭のアザレアも、これで散ってしまうだろうなぁ)

 先ごろ満開を迎えた庭木の心配をしつつ、マーシャは「銀の角兜亭」への道のりを急ぐ。

 桜蓮荘があるのは王都の東部。東を流れる大河ドゥーネが、悠久の時を費やして作り上げた平野の上に立つ街であり、低地ゆえに下町と呼ばれる。旧王城および周辺の官公庁に集まる人々が生み出す需要によって、一時は大層栄えていたという。

 王城が移転した現在はかつてほどの賑わいはないが、それでもここが活気に満ち溢れた街であることには変わりない。

 夕飯時を過ぎようとしている時間、しかも雨が降っているにもかかわらず、商店街には人が絶えない。魚屋や肉屋などの食料品店もまだまだ看板を下ろす気配を見せぬ。

 裏通りに並ぶ娼館の軒先には、次々と営業中を示す灯りが灯り始め、多くの客引きが道行く男たちの袖を引っ張り合っている。

 そんな喧騒の中を走り抜けるマーシャの口元には、自然と笑みが浮かぶ。人々の営みが生み出す熱を肌で感じられるこの下町を、マーシャはこよなく愛していた。


 さて、濡れ鼠になりながら酒場に辿り着いたマーシャを迎えたのは、盛り場独特の賑やかな空気と、まだ年若い少年の威勢の良い挨拶であった。

「いらっしゃい! あっ、先生!」

 そう言ったのは、デューイ・カミンである。デューイは当年十四歳。マーシャの剣の教え子の一人で、桜蓮荘の一室に家族と暮らす店子でもある。女手ひとつで五人兄弟を養う母親を助けるべく、日々様々な場所で金を稼ぐ孝行者だ。彼は、三日に一度ほどの割合でこの酒場の給仕を手伝っている。

「こんな天気の日に、先生が外に出るなんて珍しいですね。これは雨でも降るか――いや、雨はもう降ってるから、槍が降るか鉄砲玉が降るか。おやっさん、今日は早仕舞いの準備をしたほうがよさそうですよ」

「馬鹿野郎。無駄口を叩いてる暇があったら、さっさと先生を席にご案内しねぇか」

「すんません! では先生、いつものところでいいですか」

 いかつい中年男である店主に怒鳴られたデューイが、マーシャを先導する。軽口に苦笑しつつ、マーシャはカウンター席へ向かった。カウンターの一番右端が、マーシャの指定席だ。途中、酒場の酔客から次々と声がかかる。妙齢の女性ながら気風がよく、腕っ節もとびきりというマーシャは、この界隈の人気者なのである。

 木製のカウンターは顔が映るほどぴかぴかに磨きこまれている。煉瓦造りの建物は古く、一見みすぼらしく見えるけども、カウンターに限らず店内は実に小奇麗に手入れされている。

 店内の手入れに手間隙をかけている店は、それに比例して料理にも手間隙をかけるものだ、というのがマーシャが経験から得た持論である。その点、「銀の角兜亭」は充分マーシャの眼鏡にかなう店であった。

「おっ、これはグレンヴィル殿。久しいですな」

 着席するなり、二つ隣の男が声をかけてきた。無精ひげを生やした筋骨たくましい四十男で、名をクレイグ・ダイアーという。まだ春先だというのに、上半身は半袖のシャツ一枚。ボタンは上から半分まで開けられ、はち切れんばかりの筋肉と胸毛を露出させている。

 彼がマーシャのことを慇懃にもグレンヴィル殿、などと呼ばわるのは、彼もまた元武術家であり、マーシャが桜蓮荘に越してくる前からの知り合いであるからだ。

 気さくでお人よしなところがあるこの男もまた、この界隈で多くの人間に慕われている。

「先生、最初はなんになさいます」

 カウンターの奥でグラスを磨きながら、店主が尋ねる。

「とりあえずビールを一杯。……ああ、それからこいつを二、三切れ皿に盛ってくれないか。残りは好きにしてくれていい」

 と、ミネルヴァから貰ったハムの塊を差し出す。食べ物を持ち込んだことへの対価として、ハムの大部分を提供することにした。

「へぇ、こいつは随分と上等ですな。タダで頂いちまうってのは気が引けちまいまさぁ」

 店主が遠慮するのも無理はない。そのハムはフォーサイス家をはじめとした多くの貴族御用達の業者によるものだ。一目見ただけでその質の高さがわかるという代物である。

「それなら、今日店にいるお客みんなに配ってくれ。あ、でもそれだと店の料理の売り上げを下げてしまうかな?」

「いえ、上等なつまみがあれば酒もよく売れますから。ありがたく頂戴して、皆さんにお配りしますよ」

「みんな、聞いたか! グレンヴィル殿が上等なつまみを提供してくださるそうだ!」

 クレイグが声を張り上げると、

「おお、ありがてぇ!」

「さすが先生、惚れ直しましたぜ!」

「いよっ、太っ腹!」

「馬鹿、レディに対して『太っ腹』なんて言い草があるか!」

 やんやの喝采が浴びせられ、マーシャは軽く手を上げてそれに答える。

「おおい、スー、話は聞いただろ。こいつを頼む」

 店主の娘であるスーはハムを受け取ると、裏手の厨房へと消えた。店主が店先に立ち、女房と娘が厨房を受け持っているのだ。

 程なくして、陶器のタンブラーに注がれたビールと、店主の女房の手によって綺麗に盛り付けられたハムが運ばれてきた。生野菜を酢と塩で和えたものが添えられ、上から数種の香草が散らしてある。持ち込みの食材に対しても丁寧な仕事を忘れないあたり、店主の女房の心遣いが見てとれよう。

「それじゃグレンヴィル殿、頂戴します」

 そう言ってクレイグが杯を軽く持ち上げ、マーシャもそれに答えた。クレイグは度数の高いであろう蒸留酒を一気に干す。

「お返しというほどのことでもありませんが、どうぞつまんでください」

 クレイグが、自らの前にあった皿をマーシャのほうに押し出す。皿に盛られているのは、鮭の干物を軽く炙ったものだ。塩気も風味も濃く、一皿あれば小一時間はつまみに困らない代物なのだが、クレイグはそれを次から次へと口に放り込んでいる。マーシャは、できるだけ小さな身を選んで口に運んだ。

「ダイアー殿、景気はいかがですか」

 なんともなしに、世間話を振る。

「そこそこには。貯金はさっぱりですがね」

「旦那は、酒を控えたらすぐにひと財産できるでしょうよ。うちとしちゃあ、ありがたいことこの上ないですがね」

 クレイグに酒を注ぎつつ、店主が会話に入ってきた。

「ちげぇねぇや。ここでクレイグの旦那を見ない日なんて定休日くらいのもんだからな」

 常連客の一人である、蹄鉄打ちのハリーが冷やかした。

「お前さんだって、人のことは言えねぇだろう。まあ、俺もだがな」

 今度は、仕立て屋のレニーだ。

「まあ、皆そこそこには景気がいいってことじゃ。何よりではないか。わしの若いころなど、一杯の酒にありつくのにも一苦労だったもんじゃよ。先王陛下様々じゃわい」

 織物問屋の隠居であるモーリスが、うんうんと頷きながらしみじみと語る。

 モーリスが言う「先王」とは、先の国王であるフェリックスのことだ。

 フェリックスの治世が始まったころ――これはおよそ六十年ほど前のことであるが、当時のシーラントは不況のどん底にあった。

 庶民の生活は苦しく、嗜好品である酒などなかなか口にできるものではなかった。先ほどのモーリス老人の言葉は決して誇張ではない。

 そもそも、建国以来、シーラントは慢性的な不況に苦しんできた。長年続いた戦乱の影響が、なかなか抜けなかったためである。

 歴代の国王たちも努力はしてきたのだが、状況は一進一退であった。

 そんな中、シーラントの財政に決定的な打撃を与えたのが、先々代国王・ジリアンによる新王城建設だった。お世辞にも賢明とは言えなかったかの王は、建国百周年の記念事業として新王城の建設とそれに付随する市街地の造成を行ったのだ。しかし、これは後世に名を残そうという虚栄心から生まれた行動に過ぎなかった。

 王都レンの混雑が緩和され、物や人の流れが円滑になるという効果はあったものの、この事業にかかった費用は財政を大きく圧迫。増税と景気悪化を繰り返すという悪循環を生み出してしまったのだ。

 新王城の完成直後に急逝したジリアンの跡を継ぎ、若くして国王となったフェリックスは、シーラントを立て直すべく改革を断行した。四十年もの歳月が費やされたこの大改革により、シーラントの景気は回復。レンに暮らす庶民の暮らし向きも、随分良くなったというわけだ。

「モーリス爺さんの言うとおりだ。先代様に乾杯!」

 クレイグが音頭をとってグラスを高く掲げると、ほかの客たちもそれに倣い、一気に酒を飲み干した。

「先生、次はどうします」

 常連客たちのお代わりを作りながら、店主が訊いてくる。

「そうだな。親父さん、今日はなにか新しい酒は入っていないかい?」

「うーん、あるといえばあるんですがね」

 店主の歯切れがいまいち悪い。

「どんな酒だね」

「ライサ島の北のほうの名産品らしいんですが、詳しいことはよく分からんのです」

 と、店主が酒瓶を取り出しグラスに少量注いでみせる。蓋を取っただけで相当度数が高いことがわかるその酒は、緑色をしていて独特の香りを放っている。

「む、これは……」

 マーシャの口の中に、独特の味わいが広がる。甘味も若干あるが、強い苦味がそれに勝る。ほんのわずか舐めただけなのだが、舌にぴりぴりと痺れるような刺激が残った。

「薬草酒ってやつでして。このとおりくせが強すぎましてね。そのまんまじゃ口に合わない、ってお客さんがほとんどなんですよ。何かで割ったりすれば、面白いレシピができそうな気はするんですが」

「ううむ、私もこれはいけないな。残念だが今日は別なのを頼むとしよう」

 カウンター奥に並ぶ酒瓶を眺めて悩むマーシャを横目に、クレイグはさらにお代わりを頼む。

「ダイアー殿、相変わらずお強いですな」

「いやあ、俺はこのとおりの図体ですからな。肉が多い分、酒の回りが遅いのですよ」

 そう言って、クレイグが力瘤ちからこぶを作って見せる。図抜けた長身と鍛え抜かれた肉体を持つクレイグが背中を丸めて椅子に座る姿は、まるで巌だ。

 見た目に違わず豪快な男である。

 彼はもともと王国軍の兵士で、兵士としての業務の傍ら武術の腕を磨き、試合に出るという生活を送っていたという。

 ある時、軍の剣術訓練で、いつもクレイグを目の敵にしていた嫌味な上司と組むことになったクレイグは、これ幸いとばかりにその上司をさんざん打ちすえてやった。さらに、止めに入った上司の取り巻き六人を相手に大立ち回り、全員を叩きのめしてしまったのだとか。

 それが遠因で軍を辞めることになったのだが、クレイグの武勇伝はいまだに王国軍内での語り草となっているとか。

 そのときの上司の血縁にさる高名な武術家がいたのが、クレイグにとっては不運だった。武術界に広く顔が利くというその武術家の働きかけにより、クレイグは表舞台に立つことができなくなってしまったのだ。

 以降、クレイグはその腕前を活かし、用心棒家業で生計を立てている。

 結局、マーシャは林檎を原料とするブランディを頼んだ。のままでも飲めるが、この酒は度数が高い。マーシャは決して弱いほうではないのだが、さりとてクレイグほどの酒豪ではない。短時間で酔いつぶれてしまってはつまらないので、マーシャは水で割ったものにレモンを絞ってもらうことにした。林檎の香りとレモンの酸味がすっきりと爽やかで、やや蒸し暑さを感じるこの夜にはぴったりであった。

 ついでに、白身魚と芋のフライ、ピクルスの盛り合わせなどつまみを頼む。

「クレイグの旦那、今日は夜回りがあるって言ってませんでしたっけ? そのくらいにしといたほうがいいんじゃないですかい」

「親父、俺は多少酒が入っていたほうが調子が出るんだよ」

 そう言って、ふたたび杯を干す。やれやれといった様子で、店主がお代わりを注いだ。

「ダイアー殿、夜回りとは」

「ええ、グレンヴィル殿は最近通り魔の噂を聞いていませんかな?」

「いえ、街の噂にはとんと疎いもので」

「先生は用事がなけりゃめったに桜蓮荘の敷地から出ないからなぁ。あれじゃ身体によくない、ってうちの母ちゃんも心配してますよ」

「おらデューイ、無駄口叩くなって何度言われりゃわかるんだ!」

 店主に叱られ、デューイがぺろりと舌を出す。

 乱雑な部屋の様子からも覗えるとおり、マーシャの私生活はかなりだらしない。昼過ぎまで寝ていることはざらだし、洗濯物や使ったあとの食器は基本的に放置される。加えて、かなりの出不精だ。現役時代は非常に規則正しい生活をしていたはずなのだが、引退して気ままな一人暮らしを始めると、あっという間にものぐさになってしまった。人とはかくも簡単に堕落してしまうのか、とマーシャ自身も不思議に思うことがある。今更改める気は、さらさらないのだが。

「で、通り魔とは?」

「それがですな。先月ごろから、この王都で立て続けに死体が見つかっていましてね」

「同じ下手人によるものだと」

「お上の調べによればそういうことらしいですな。警備部も警戒を強めているそうですが、皆が不安がっているということで、顔役の親分に夜回りを頼まれたというわけですよ」

 警備部とは王国軍の一部門であり、都市の治安を守る任を預かっている。クレイグは、警備部所属のかつての同僚から情報を貰ったらしい。

「なるほど。それにしても通り魔とはまた物騒な……」

 と、マーシャが表情を曇らせていると、酒場の片隅から大きな怒鳴り声が上がった。

 マーシャがそちらに目をやると、一人の気弱そうな若者を四人のガラの悪い男が取り囲んでがなり立てていた。肩が当たったとかなんとか、難癖をつけているようだ。

 一人の男が若者の胸倉を掴み、とうとう一発殴りつけた。若者の体が吹き飛び、グラスや食器が飛び散る。

 盛り場で喧嘩が起きるのは珍しいことではないし、客たちはそれを酒の肴として楽しむこともある。しかし、四対一となるとこれはもう喧嘩でなく苛めだ。客たちのもの言いたげな視線がカウンターに集まった。

「やれやれ、しょうがねぇな」

 クレイグがのっそりと立ち上がった。大股で男たちに近づき、一人の襟首をむんずと掴むとかいなに力を込める。すると、男の身体が持ち上がり、その両足は床から離れた。

「兄さん方、なにがあったのか知らんが、一人相手に大人げないと思わねぇか」

「ッ、てめぇ、邪魔をしやがるか!」

 怪力を披露しつつ割って入ったクレイグに一瞬怯む男たちだが、自分たちは四人ということで気が大きくなっているのだろう。ふたたびいきり立ち、今度はクレイグに矛先を向ける。

 一人が勢いよくクレイグに殴りかかった。クレイグが襟首を掴んでいた手をぱっと離すや、突き出された拳をひらりと避ける。巨躯に似合わぬ軽快な動きから相手のみぞおちに右拳の一撃を見舞うと、男は悶絶して床を転がった。

 二人目の拳もやすやすと避けたクレイグは、今度は顎に掌底。男は目を回し、膝から崩れ落ちた。

 三人目に対しては、投げである。相手の右腕を取って強烈に引き付けると、凄まじい勢いで背負い投げを放った。背中から床に叩きつけられた衝撃で、男は呼吸もままならぬ。

 これらの動作は、実際はほんの一瞬の出来事だ。クレイグの身体が右に左に閃いたかと思うと、三人の男が床に転がっていた。傍目には、そう映ったことだろう。

 しかし、最後に残った一人はよほど性質たちの悪い男であったのか、それともよほど悪い酒だったのか。腰の短剣を抜き放つと、投げを打って無防備になったクレイグの背中目掛け突きかかったのである。

 だが、その切っ先がクレイグに届くことはなかった。

「――ッ!?」

 男があんぐりと大口を開けたのも無理はない。なぜなら、男の短剣を止めていたのは、一本のフォークだったからだ。それを握っているのは、マーシャである。

「兄さん、ここは酒を楽しむ場所だ。そんな物騒なものを抜くのは無粋というものだよ」

 マーシャは役者のように言葉に節をつけ、空いた左手で男の頬をさらりとなぞる。

「くッ、このアマ! 邪魔しやがるとてめぇからッ……!?」

 ところがフォークの歯の間に挟まれた短剣は、まるで糊で貼り付けたかのように押せども引けども動かない。

「いよっ、さすがは先生!」

「レン一、いやシーラント一ッ!」

 マーシャの妙技に、常連の酔客たちが喝采する。

 刃物を持った酔っ払いに二十代の女性が立ち向かっているというのに、常連客たちはいささかも心配する様子を見せない。

「みなさん楽しんでるようで何よりだが、そろそろ仕舞いにしよう」

 そう言うと、マーシャは手首を一捻り。どんな技術を用いたのやら、ただそれだけで短剣は男の手を離れ、音を立てて床を転がった。更に大きな喝采が起こる。

 マーシャは、大仰に芝居がかったお辞儀をして喝采に答えた。マーシャは、酒が回るとこうした茶目っ気を出すことがある。

「今日はついてるな。先生の凄い技が見られたんだから」

「ああ、まったくだぜ。またひとつ話の種ができたってもんだ」

 一歩間違えれば刃傷沙汰になっていたかも知れぬのだが、常連客たちにとっては珍しい出し物でも見た程度の感覚なのだろう。背後では、店主の女房が何事もなかったかのような顔で床を片付け始めた。

「どうだ、まだやるかい」

 マーシャの不可思議な技を目の当たりにしたところで、強面のクレイグが凄んだものだからたまらない。

「ひいッ、か、勘弁してくれえッ!」

 男たちは、我先を争って店のドアを出て行った。

「ふぅ。グレンヴィル殿、助太刀感謝します」

「いえ、余計な手出しをしてしまったかと」

 事実、背後から迫る男の短剣にクレイグは気付いていたし、それに対応することもできただろうことはマーシャにはわかっていた。割って入ったのは、あくまで万一を考えてのことに過ぎない。常連客たちの晩酌に興を添えてやろう、という気持ちもないわけではなかったが。

「ほら若いの、立てるかい?」

 殴られて床に転がっていた若者に、クレイグが手を貸す。

「あ、ありがとうございます! なんとお礼を申したらよいのやら……」

「まあ、いいってことよ。それより、ここいらは気性の荒い連中が多い。一人で飲むなら用心するんだな」

「はい、はい。次からは気をつけます」

「帰り道は不安じゃないか? 俺は用心棒をしている。良かったら格安で送ってやるぜ」

「クレイグの旦那、あんたはこれから夜回りだろ」

 ちゃっかり営業するクレイグに、客の一人が突っ込んだ。

「大丈夫です、すぐそこに家の馬車を停めてありますので」

 身なりはいいし、どこぞの大店おおだなの若旦那か。なにか商用でこのあたりに来て、帰りがけに軽く一杯引っ掛けていた途中、といったところだろう。マーシャが推測する。

「それから、これはほんのお礼です。お納めください」

 男はクレイグに硬貨を握らせ、さらに店主に迷惑料を払うと店を去っていった。

「お、結構貰っちまったな。グレンヴィル殿、それでは山分けとしましょうか」

「いえ、私は結構ですからダイアー殿がお取りください」

「それはありがたい」

 にっこり笑って、遠慮なく硬貨を懐に入れるクレイグ。なんとも憎めない笑顔で、こういうところはマーシャも好ましく思う。

 ふたたび腰掛けた二人に、店主が酒を注ぐ。

「どうぞ、お上がりになってください。あいつらを懲らしめてくれたお礼でさ。それにしても、お二人がいるときに騒ぎを起こそうなんざ馬鹿な連中だ」

「あの男たち、若干だが訛りがあった。おそらくはこの界隈のものではないのだろうよ」

 マーシャが、耳ざとく分析する。

「さて、俺はそろそろ出るとするか。ではグレンヴィル殿、お先に失礼しますよ」

 脇に立てかけてあった剣を腰に吊るしながら、クレイグが立ち上がる。

「ええ、どうやら雨も強さを増しているようです。お気をつけて」

 あの男が夜回りをするのなら、街の人々もさぞ安心することだろう。先ほどの大立ち回りを思い出しながら、マーシャが考える。本人の言葉どおり、多少の酒は問題になるまい。

「さて、店主。もう一杯もらおうか」

 その夜マーシャは心行くまで酒を楽しんだ。

 そんなマーシャのもとに、クレイグの惨殺体が発見されたとの報せが届いたのは翌朝のことであった。

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