氷壁の塔矢

 もみじ小学校の社会の時間に神宮寺雪音が「この退屈な世界地図を描き変えるの!」と叫んでから十数年が経過した。


 人の文明を阻害する幻想領域の最奥にある、最も攻略難易度の高いエリア、魔王城。その謁見の間に周防塔矢(25才)という茶色いマントを着た黒髪の男はいた。


 何ゆえ人間の塔矢が魔王城にいるのか?


 別に塔矢は勇者を名乗っているわけではない、それでも彼は魔王を殺すためにここに来た。


 塔矢はフランツ・ダントンという老魔術師の遺品、茶色い魔法のローブを縮小して懐に収めた。……便利なマントだ。


 マントを外した塔矢の左の手首には、ピースクロ社という世界的な時計会社の元社長、マイロ・ホイヘンスの腕時計が巻かれている。

 黒いパズルピースのロゴマークに宇宙を連想させる文字盤の腕時計。……悲しいかな、これも遺品だった。


 彼の首には子供が少ない小遣いを使い尽くして買ったような安っぽいロケットペンダントがかかっている。その中の写真は幼少期の塔矢と二人の男女が写っていた。……しかし残念かな、塔矢以外の二人は亡くなっていた。


 所持品の思い出を振り返るだけで、塔矢の血生臭い人生が分かる。

 そして、彼の左腕はナイフで刺したかのような傷跡が無数にあった。


 いつもは醜いからと長袖を着て傷痕を隠しているが、人目がない幻想領域では関係ない。

 動きやすい黒い半袖と迷彩柄の長ズボンという、魔王城で大暴れする気満々の格好だった。


「【氷壁の塔矢】の名声は、この魔王城まで届いている」

 やる気な塔矢に覇気のない声で話したのは、玉座に浅く腰掛ける魔王だった。


 魔王も黒髪の男だった。その姿は魔王と呼ぶには人間に酷似している。


 彼の暗い瞳は、あまりにも深い絶望を背負っていた。


 彼の肉体は、最強最悪の魔王とは思えないほど、筋肉が少なく弱そうで小柄だった。


 魔王は気怠げに話す。


「三千年前のことだ……人間を見限った僕は幻想領域を囲い、人類領域を三つに分けた」


 伏目がちの魔王は侵入者の塔矢を見ることもなく、話しを続ける。


「それでも僕は心のどかで人間に期待していたのかもしれない。……いつかここにお前のような人間が来てくれるのを……三千年ここで待ち続けた甲斐があった。お前なら僕を殺し人類をまとめ上げることができるかもしれないな」


 塔矢は魔王の言葉を強く否定する。

「魔王、何を勘違いしているんだ。人類だけではない……幻想も人類もひっくるめて、この世の全てをまとめ上げるために俺はここに来た」


「……さようか…………この玉座から立つのは久しぶりだな……」

 魔王は玉座の肘置きに手をつき、ゆっくりと立ち上がった。

 魔王は、やる気がなさそうな猫背だ。

 一八〇センチ以上ある塔矢に対して魔王は小さく見える。


「三千年前の占い師から届いた手紙には、三千年越えの生粋のニートだと書かれていたぜ」


 塔矢の言葉に――

「それって僕のこと?」

 魔王は暗い顔の口に小さな笑みを浮かべた。


 しかし、すぐに口元を引き締めた。

「前口上はこれくらいにして、世界を賭けた殺し合いを始めよう」


 弱そうな見た目からは想像がつかない、強大で禍々しい魔力が魔王の体からあふれ出し、謁見の間を満たした。


幻想掌握術式げんそうしょうあくじゅつしきを構築」

 世界の半分を占めると云われる幻想領域の広大な空を魔王の魔法陣が埋め尽くす。


「……起動」

 魔王の呟きと共に広大すぎる魔法陣が厳かに回転を始める。


 その魔法陣は個人が行使していい大きさを遥かに凌駕していた。

 国家レベル、いや種族レベルでの軍事力で対抗しなければ勝負にならない。それほどまでに魔王の魔術【幻想掌握術式】は凶悪だ。


 しかし塔矢は、個人で魔王に挑む。


 塔矢は戦闘態勢に入る。

 彼の足元から白い冷気が大量に漏れた。それは塔矢の氷雪系の異能【クリオキネシス】が全力で発動される前兆だった。


 彼の背中に氷の鞘に収まる氷の剣が生成され、左手には年季の入った本が出現する。


 彼は右手を背中に回し、氷の剣の柄を握る。


 太陽のマークが刻まれた氷の鞘と氷の剣の間から、カチャッと擦れる音がした直後、塔矢は手早く抜剣し叫ぶ。

「フリーズ! 白夜牡丹雪びゃくやぼたんゆき!」


 謁見の間が凍りつく。それは、刀身に細かい文字が刻まれた氷の剣の力だった。


 凍りついた謁見の間、魔王の体も停止する。


 しかし、パリンッとガラスが割れるような音が響き、凍りついた謁見の間が一瞬で氷解する。


 強い力を持つ者は、より強い周囲を維持する力【リアリティコントロール】を持つということだ。それは最強の魔王も例外ではない。


 魔王のリアリティコントロールは、塔矢のクリオキネシスの強度を上回っていた。


 今の塔矢と魔王の小手調べだけで、二人の強さが、うかがえる。


 開幕速攻、塔矢は剣を抜くだけで室内を氷漬けにした。この時点で既に人類最高クラスの技を披露していたが、魔王はそれを上回った。


 つまり、これから始まるのは人類最高クラスを超える戦いだ。


 魔王のリアリティコントロールVS塔矢の異能の強度。

 その力勝負で負けた塔矢は、すぐさま次の手を打つ。


「【冒険者謄本ぼうけんしゃとうほん】を参照!」


 左手の古臭い本がひとりでに開き、ぱらぱらとページがめくれる。


「幻想図書館に接続! Aコード8910を検索!」


 勝手にめくれていた冒険者謄本が、とあるページで止まり輝き出す。


『検索を終了しました、Aコード8910を完全複写、システィア無限凍土へ移行します』

 光り輝く冒険者謄本が淡々とした声で話した。


 その直後、冒険者謄本からあふれる光が急激に強くなる。それは視界が真っ白になるほどの明るさだった。


 冒険者謄本の光が消えて視界が晴れた時、塔矢と魔王の周囲は無限に広がる氷の世界だった。


 魔王は氷の世界をぼーっと眺めながら話す。

「……ここはお前が有利な場所か」

 話す吐息が白い、それほどまでにこの世界は寒かった。


 魔王は周囲にある氷の一つに触れて確かめる。

「なるほど、現実の無限凍土へ転移したわけではないようだ。……僕の魔王城を書き換えただけ……しかし無限凍土を完全に再現している。……これではシスティア無限凍土へ転移させられたのと何も変わらないな。……さっきみたいな力技ではどうにもならないというわけか」


 ブツブツと独り言を呟いた魔王は、氷から視線を外し、剣と本を構える塔矢を見る。

「どうやらお前は僕に力勝負ではなく、知恵と技術で挑もうとしているらしい」


 塔矢は油断なく魔王を睨みながら答える。

「それはどうかな、つまらない小細工はなしで真正面からお前を倒すかもしれないぜ」


「……たしかにありえるな、その歳でその力は普通じゃない……才能と努力と運命、どれか一つでも欠けていたら今のお前はないだろう。……一体、何のためにそこまでの強さを求めたんだ?」


 魔王の疑問に塔矢は、ここ十数年の過去を振り返る。


 幼なじみの胸を刺し、中学生歌手を護衛し、(株)冒険者ギルドを建て、世界最高最大の針時計に潜り、アストラル教国で本の世界に入り、ハイジアの大学へ進学し、ピクシーガーデンの調査をし……他にも色々と馬鹿なことを塔矢はしてきたが、それらは全てある願いのためだった。


 二五歳の塔矢は、自分の十数年を一言でまとめ、その一言でもって魔王の疑問に答えた。


 全てはを叶えるため――


 そして、その幼なじみとは言わずもがな、あの男勝りでガキ大将のような彼女だった。

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