第15話 流離い

 見慣れない玄関。嗅ぎ慣れない匂い。耳慣れない柱時計の音。他人の生活と記憶が染み着いた空間。この場にあっては、自分は異物で余所者なのだ。恭仁は居間の畳に正座して二階堂家と向き合い、自覚した。


ハジメだ、肇が帰って来た!」


パジャマ姿で白髪の初老男性が、呆けた顔を喜びに歪めて言った。その隣で丸顔に眼鏡の初老女性が、諦め疲れ切った顔で、男の背を摩っている。男は二階堂ススム。女は志信シノブ。恭仁の祖父母だ。その周りには夫婦と思しき中年の男女と、その子供であろう少年少女が座って、どこか居心地の悪い様子で顔を見合わせた。恭仁は畳に三つ指を突いて恭しく平伏す。


「お祖父ジイ様、お祖母バア様、お久しぶりでございます、と申すべきでしょうか」

「肇! 何か食いたい物はあるか。お前は蕎麦が好きだった。そうだよな」


 認知症から恭仁を息子と錯誤している奨の言葉に、中年男が怪訝な面持ちで恭仁を一瞥し、何者か問い質すように志信を振り向いた。志信は頭を振る。


「申し遅れまして私、倉山恭仁と申す者。生まれは東京、育ちは竜ヶ島。二階堂肇と倉山早紀恵の倅、今は亡き母の兄である倉山利義の養子と相成ります。倉山家の姓を名乗り竜ヶ島に暮らし、もう直ぐで16年となります。近頃、僕の出自と両家の絶縁にまつわる話を伝え聞きまして、願わくば亡き父と、そのお祖父様とお祖母様のお顔を一目窺いたく、遠路はるばる竜ヶ島よりこうして参った次第です」


 恭仁が立て板に水の調子で口上を述べると、志信は奨の背中を摩り、何度も頷いて涙を滲ませ、顔を袖で拭う。傍らの少女が堪え切れない様子で噴き出した。


「めっちゃ訛ってるし。ウケる」


 少女より背の高い兄と思しき少年が、血相を変えて少女の頭を叩いた。


「バカッ! お前、茶々入れていい状況か!」

「だっておかしいんだもん!」

「もう16年になるのね。長く見ない間にうんと大きくなったけど、その目鼻立ちは肇にそっくり。お父さんがだった時、もっと早くに来てくれたら」


 言い合いを始めかけた兄と妹が、祖母の沈痛な語りを聞いて口を噤む。


 恭仁は床の間に行って仏壇に線香を上げ、合掌した。頭上の壁からせり出した梁に掛けられた写真の額縁を見遣り、最も新しいカラー写真に映る、若くて野性味の強い笑みを湛えた男に目を停めた。恭仁は確信する。自分の父、肇に違いない。


 振り返ると、反対側の壁際には介護用の寝台。草臥れた掛布団や擦り切れた手摺の様子から、使い込まれた様子が容易に窺えた。恭仁は双眸を窄め、仏壇に再び視線を戻して一礼すると、ぎこちない空気の居間に戻り、腰を下ろした。


 テーブルには、歓迎の茶の一杯すらも出てくる気配は無い。お前はここに居るべき人間ではないのだ、と暗示するように。志信が伏し目がちに恭仁を見遣る。


「肇ので、私たちがどれほど周りから責められ、辛い思いに耐え続け今まで生きてきたか。恭仁、今の貴方には想像もつかないでしょう」

「僕の電話を悪戯だとあしらい続けたことに、今までの苦労が偲ばれます」


 恭仁が頷いて答えると、志信は片手で顔を覆い、長い長い溜め息をついた。


「肇の罪は、私たちが背負い償っても償いきれるものではないわ。それでも私たちは犯罪者の家族という十字架と、一生分の苦しみを背負って、それでもどうにか今まで生きて来ました。今の願いは静かに暮らし続けたいだけ。

「お会いできただけで嬉しいです。それ以上は何も望みません」


 恭仁はトランクを開け、持参した茶菓子をテーブルに差し出す。月桃の甘い香りがふわりと漂った。月桃の長い葉を折り畳んで包み、紐で縛られたチマキのような物体。中身は、恭仁お手製のヨモギ団子だ。


「墓参りに寄って、竜ヶ島へ戻ります。つまらない土産ですが、どうぞ」


 恭仁が腰を上げかけると、奨が呆けた顔で恭仁を見上げ、唇を蠢かせる。


「肇、どこに行くんだ、肇!」


 恭仁が穏やかな笑みで祖父に歩み寄ると、鼻を衝くアンモニア臭を感じた。


「ご心配なく、お祖父様。僕はご先祖様の墓参りに行ってくるだけです」

「おお肇、肇だ!」


 奨は恭仁の言葉を無視して、恭仁の顔を両手で無遠慮に撫で回す。その手が恭仁の側頭部をガッシリと掴み、十指が万力のような圧で挟み込んだ。


「鬼、悪魔、人殺し、この親不孝者! 、肇、この……」


 恭仁は無表情で奨を見つめる。奨の手から次第に力が抜け、彼はガクリと項垂れて涙を流した。志信がそっと寄り添って肩を貸し、立ち上がらせて床の間へと歩むと、寝台に横たえた。恭仁は残された叔父一家を一瞥し、腰を上げる。


「お邪魔しました。それでは失礼します。どうかお元気で」


 叔父から墓所の在り処を聞いた恭仁は、同伴を丁重に断ると、独り家を出て北へと歩んだ。小さな寺院、池上院の角に立つ、深大寺南参道の石碑を目印に路地へと足を踏み入れる。住宅の密集する坂道を登ると、無機質な小路が開けて木立が姿を現す。蕎麦屋を横目に丁字路へ出れば、そこは深大寺通りだ。


 褐色の舗装道に沿う並木道の歩道を、恭仁は南東へ進む。曲がり道を抜けバス停が姿を現すと、北東に折れて石畳の参道へ。蕎麦屋を横目に門前町を行けば、正面には石段と朱色の山門、その奥に聳えるは……古刹、深大寺。


 恭仁は境内に足を踏み入れると、常香炉に歩み寄って線香を立てた。本堂に進んで合掌し、元三大師堂と開山堂を横目に境内を抜け、北門から出ると、神代植物公園と隔てる十字路を西へ。2軒の蕎麦屋が並び立つ横を通り過ぎ、森の道を行く。右手の公園敷地を閉ざす鉄柵に沿って暫し歩くと、その先で木立が途切れて空が見えた。


 都会の空隙に潜んだ、静かなる墓地が現れた。


 恭仁は墓所に並んだ卒塔婆と墓石の中から、二階堂家を探す。それらしい墓は直ぐ見つかった。墓前に投げ出された猫の死骸が朽ちかけ、8月の午後の熱気に腐敗臭を漂わせていた。墓石は切られ穿たれた古傷が夥しく刻まれ、家名の上には赤黒い血で人殺しと大きな文字で書き殴られ、墓石を滴り落ち乾燥しへばりついていた。菊花と供物は地に打ち捨てられ、踏みにじられている。墓荒らしの恨みの深さが分かった。


 無言で立ち尽くす恭仁の背後を、他の墓参者が薄気味悪そうな顔で通り過ぎては、ひそひそ話を交わす。恭仁は唖然と立ち尽くし、猫の死骸を片付ける手段を手始めに考えた。動物の轢殺体は、市役所が処分してくれるという話をどこかで聞いたことを思い出し、スマホで市役所に電話する。応答する気配は無い。


「そうか、お盆だから役所も休みなんだ……」


 呼び出し音が無情に鳴り続ける電話を、恭仁は呆然と切った。何もかも見なかったことにして逃げ出したい気分だった。恭仁はトランクの中に備えていたビニール袋を何枚か取り出し、重ね合わせて、猫の死骸と菊花と供物の残骸を詰め込んだ。恭仁は墓前に膝を折って途方に暮れ、墓所への道中に動物霊園を見たことを思い出した。


 恭仁は一縷の望みを託して、袋を手に墓所を出た。


「事情は分かりましたが、当園といたしましても、ご遺体を受領するためには所定の料金を拝領しなければなりません。一番安価なプランですと複数のご遺体をまとめて火葬する合同葬がご案内できますが、いかがでしょうか」


 恭仁が動物霊園に猫の腐乱死体を持ち込むと、葬儀屋は交渉の末に、譲歩に譲歩を重ねて引き受けは出来ると回答した。恭仁は懐具合を確かめ、渋々頷く。


「よろしくお願いします」


 選択肢は無かった。恭仁は身銭を切って猫を葬儀屋に託し、荼毘に付した。


 恭仁は墓所に戻って共同の掃除道具を拝借、死臭の染みついた手で柄杓を振るって墓石に水をかけ、丹念に磨いて落書きを洗い落とす。奥歯を噛んで手を動かす恭仁の目に、悔し涙が滲んだ。清められた墓石の傷ついた地肌に陽光が乱反射し、鈍く光を照り返してみせた。花と供物は取り返しがつかないが、これで一応の面目は立つ。


 いずれにせよ恭仁の自己満足に過ぎぬ。隙を見て墓荒らしは繰り返されるだろう。延々と続く嫌がらせ。二階堂家はこの仕打ちにずっと耐え続けてきたのだ。


 恭仁は墓参りの戻り道、辺りに並び立つ蕎麦屋の暖簾に目が留まり、祖父の言葉を思い出して暖簾をくぐった。どうやら蕎麦は父の好物だったとか。恭仁は生粉打ちのせいろそばを大盛りで頼むと、黙々と腹に詰め込んだ。父の遺影と墓前の猫、墓石に書き殴られた人殺しの血文字が頭に次々と過ぎり、恭仁は声を殺して泣いた。



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