山崎警部と妹の日常

@asas4869

負けられない女1

 日野めぐりは元来、追い込まれることに弱い性格であった。冷静に対処していれば何も問題なく処理できていたようなことも、その性格が災いしてとんでもない事態になってしまったことが何度もあった。


例えば小学生の頃、運動の得意だっためぐりは、リレーのアンカーに選ばれた。そしてその本番。めぐりにバトンが回って来たとき、めぐりのチームはトップだったが、2位とは非常な僅差だった。ここで、めぐりが普段通りに走っていれば充分一位でゴールできる実力を持っていたのだが、「絶対に自分が一位にならなければ」というプレッシャーに追い込まれためぐりは、何を思ったのか、練習で何度も走ったはずのコースを外れ、大回りをしてしまったのだ。結局、めぐりのチームは大逆転の最下位。他のメンバーはめぐりを慰めたが、めぐり自身はその日一日泣きどおしであった。


そして、今回の事件も、その性格が引き起こしたことに他ならないのであった。






その日、めぐりは大川裕香と翌日の大会に向けて練習をしていた。大会というのは、競技かるたの大会である。競技かるたとは、「百人一首」の札を取り合うゲームなのだが、それは決して優雅なものではなく、素早く激しい動きを必要とする、いわば「スポーツ」である。めぐりと裕香は、日本で最もかるたの強い女性、クイーンを共に目指し、これまで切磋琢磨してきた親友であり、ライバルでもある。


通常、競技かるたの選手はそれぞれかるた会に所属しているのだが、めぐりと裕香は小学校の頃から同じかるた会に所属し、共に成長し、実力を高め合って来た。いつしか二人はかるた会だけでなく、日本の女子かるた選手の中でもツートップと呼ばれるまでになっていた。


その二人が今、同じ部屋で畳を叩き合い、練習しているところを他の選手が見たら、あまりの迫力に声も出ないことであろう。しかし、今ここにいるのはめぐりと裕香、そして二人を育てたかるた会の創設者、原吉郎のみである。原は二人と、二人の間にあるかるたの札が入るようにカメラを回している。これは自分たちの動きを客観的に見、後で反省するためのものである。


裕香が最後の一枚の札を弾き飛ばすと、二人は向かい合ってお辞儀をした。試合が終わった合図である。お辞儀をした後、二人は一緒に札を片付け始めた。


「ふう。危なかった。また強くなったわね、めぐり」


裕香はタオルで大量の汗を拭いながら言った。


「でも勝ったのは裕香でしょ。やっぱり私は終盤に弱いなあ。何とかしないと」


裕香に対してめぐりは、ほとんど汗をかいていなかった。その対照性は、二人の体型を見比べればすぐに腑に落ちる。めぐりは全体的に細身で、スレンダーな体型をしているのに対して、裕香は身長こそめぐりと変わらないが、体型はかなり横に大きかった。


「もっと自分に自信を持ったらいいんじゃないかしら。めぐりの実力なら、大概の選手には楽に勝てるんだから」


「そんなことないよ。明日だってどうなるか…」


「もう。明日のことなんて今から心配しても仕方ないでしょ。そんなことより、今日の晩御飯どうするか決めてる? よかったら、ホテルの一階にあるレストランで一緒に食べない?」


「ああ、うん。分かった」


めぐりは曖昧に答えた。


 めぐり、裕香、原の三人は、翌日から開催されるかるた大会に参加するため遠征に来ており、今は会場の近くのホテルに泊まっている。そのホテルの一階にはレストランが併設されているのだが、そこで夕食を摂るのは二人の恒例だった。毎年同じ大会に出場し、毎年同じホテルに泊まっている三人にとってはもう慣れたもので、ホテルの構造は完全に頭に入っていた。


「レストランで夕食もいいが、明日に備えて、今日は早く寝るんだぞ。お酒も控えるように」


二人の話を横で聞いていた原が、話に入って来た。


「分かってますよ、先生。もう、いつまでも子供扱いしないで欲しいわ。ねえ、めぐり」


裕香が呆れたようにめぐりに話を振った。


「うん。そうね」


めぐりはまださっきの話を気にしている様子で、はっきりと返事はしなかった。






 三人が泊まっているホテルは、特別高級な訳ではなかったが、レストランが併設されていることからも分かる通り、決して客も少なくない、サービスなども行き届いた、「中の上」には分類できるレベルのものであった。


 特に一階に併設されたレストランの料理は好評で、時間帯によっては行列ができることもあった。そのレストランの奥。半個室のような部屋で、めぐりと裕香は夕食を共にしていた。


「あそこの会の選手ってみんなずる賢いのよね。一回の試合で何回もごねてくるし」


裕香はめぐりを相手に、他のかるた会の選手の悪口を言っていた。競技かるたでは、どちらの選手が先に札を取ったかという判定は、基本的に選手同士の協議に委ねられてる。大概は滞りなく協議は終了するが、中には「自分が先に取った」と言って引き下がらず、対戦相手のリズムを崩そうとする悪質な選手もいる。「ごねる」とは、そのことを言っているのである。


「裕香。もうその辺にしておいた方が…」


めぐりが裕香に「その辺にして」おけと言っているのは、他の選手への悪口のことではない。それに関してはめぐりも被害を受けていたので、むしろ聞いていて心地よかった。めぐりが裕香にやめさせようとしたのはそのことではなく、飲酒だった。他の選手の悪口を話す裕香の手には、ビールジョッキが握られていた。もちろん、めぐりも裕香も既に成人しているので、飲酒自体には何の問題もない。ただ、さっき原が言っていたように、次の日はかるたの大会がある。そこに二日酔いの状態で臨むのは好ましくないと、めぐりは主張したのである。しかし裕香は、


「大丈夫よ。そんなに飲まないから。それに、何か今、すごく調子が良いのよね。今なら誰にでも勝てそうな気がするの」


そう言って、ほとんど意に介していない様子であった。裕香は昔からこうだ。誰かが決めたルールになんて縛られない。自分のやりたいようにやる、自分の生きたいように生きる。体型だけでなく、性格も豪快な女性だった。小さい頃から人の顔色ばかり窺って、自制して生きて来ためぐりとは、正反対な人間だった。今だって、左右でデザインの違う可愛いピアスを両耳に付けている。自分にはあんなものは絶対に付けられないだろうと、めぐりは思っていた。めぐりはそんな裕香に対して、一時期は嫌悪感さえ抱いたこともあったが、今では彼女のことも理解できるようになり、むしろ憧れや、尊敬の念さえ抱くようになった。「自分もこんなふうに生きられたら、どんなに幸せだろうか」と思うこともしばしばだった。


「もう。原先生に怒られても知らないよ」


言いながら、めぐりはまた落ち込んだ。悪い癖だ。すぐに他人に対して劣等感を抱いてしまうのは。特に裕香に対しては。彼女は昔から明るく快活で、周りに人を寄せ付ける、太陽のような女性であった。対して自分は、いつも裕香の陰に隠れ、その恩恵を受けるだけの、月のような存在。そんな自分が唯一裕香と対等に並べるのがかるただった。もし、そのかるたでさえ、裕香に勝てなかったら…。そういった考えが、めぐりの頭の中をぐるぐると回っていた。


 そんなめぐりの様子を感じ取ったのか、裕香がおもむろに口を開いた。


「まだ明日のこと心配してるの? なるようにしかならないんだから、美味しいご飯食べて、今はそんなこと忘れちゃいましょうよ」


「うん。そうなんだけどね。やっぱり心配で…。もちろんクイーンにはなりたいし、そのために今まで頑張って来た。でも、本当になれるのかなって…」


めぐりの声のトーンが下がる。そんなめぐりに対して、裕香はこんな提案をした。


「ねえ。ちょっと面白いもの見せてあげよっか?」


「面白いもの?」


「うん。じゃあね、何でもいいから、『百人一首』の中から歌を一つ思い浮かべてみて」


「何でもいいの?」


「うん。何でも」


言われた通り、めぐりは「百人一首」の中から歌を一つ頭の中に思い浮かべた。その歌は「村雨の露もまだ干ぬ槇の葉に霧立ち上る秋の夕暮れ」。


木の葉に残った雨の露から、霧が立ち上っている秋の夕暮れの景色を歌った、寂連法師の名歌である。


「思い浮かべたわよ」


めぐりが言うと、裕香は、「じゃあ、その歌をゆっくり詠んでみて」と続けた。めぐりは言われた通り、最初の「む」の音を発しようとした瞬間、裕香が大きな声で、


「霧立ち上る秋の夕暮れ!」


と、めぐりが思い浮かべた歌の下の句を言い当てたのだ。驚いている様子のめぐりに、裕香は笑いながら言った。


「どう? びっくりした?」


「何で分かったの?」


「もう一回やってみる?」


「うん」


めぐりはもう一度、歌を思い浮かべた。次に思い浮かべたのは、「君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな」。


以前までは惜しくなかったこの命も、あなたと出会ってからは少しでも長生きしたいと思うようになったという、藤原義孝の情熱的な恋愛の歌である。めぐりがこの歌を選んだのには理由があった。


 先程の「村雨の」の歌は、「一字決まり」と言われる札で、「百人一首」の中で「む」から始まる歌は、この歌しかないのだ。だから、口の形などから「む」の音を判別し、即座に自分が思い浮かべた歌が分かったのだと、めぐりは推理した。


 それに対し、この「君がため」は先程の「一字決まり」に対して、「六字決まり」の歌である。つまり、「君がため」から始まる歌は二つあり、六文字目の「お」の音を聞くまで、どちらの歌なのかを判断できないのである。これなら裕香に当てられることも無いだろうと、めぐりは高をくくった。


「思い浮かべた?」


「うん」


「じゃあ、ゆっくり詠んでみて」


言われた通り、めぐりはゆっくりとその歌を詠み始めた。


「君が―」


その瞬間、再び裕香が大きな声を出した。


「長くもがなと思ひけるかな!」


またも当てられてしまった。めぐりはまたしても驚き、裕香に言った。


「どうして? どうして分かるの? 今のは六字決まりの歌だったのに。まさか勘じゃないわよね?」


「勘で当てられたら苦労しないわよ。どうやってやってるか、知りたい?」


「是非」


「実はね、私最近、歌の読み手の講習会によく行ってるのよ」


「それは知ってる。読み手の気持ちが分かれば、音を聞きやすくなるかもしれないって言ってたわよね」


「そう。それでね、読み手の練習をするうちに、音を発するときの、人間の癖みたいなのが分かるようになってきたの」


「癖?」


「例えばね、さっきめぐりが『村雨の』って言おうとしたとき、口の形が既に『む』の形になってたのよ」


「それは私も何となくそうなのかなって思ってた。でも二回目は? あれは一字決まりじゃない。まさか、二分の一の確率に賭けたの?」


「そんなんじゃないわ。それにもちゃんと理由があるの。まあ、これは私の持論なんだけどね、口の形を見てると、『君がため』の部分を詠んでる時点で、既にその後の『お』を発音するための準備を口がしてるのよ。それが、何となくだけど分かるようになっただけなの」


「そんな…。そんなことが本当に…」


「まあ、本当に何となくだけどね」


裕香は笑いながらそう話した。裕香はめぐりを元気づけるため、余興のようなつもりでこの特技を披露したのだが、めぐりの胸に去来した感情は、それとは真逆のものだった。


 敵わない。自分は、この女には絶対に敵わない。この女と百回かるたで勝負したら、自分は百回とも負けるだろう。だとしたらクイーンは? 自分はこれまで、クイーンになるためだけに、青春の全てを費やしてかるたに打ち込んできた。それは、今まで日陰で生きて来た自分を、一人でも多くの人間に認めさせるためでもあった。それがあろうことか、自分に無いものを全て持ったこの女に、自分が一番欲しかったものまで奪われようとしている。きっとこの女はクイーンになる。そのクイーンへの挑戦権を得るだけでも大変な労力だ。それだけのものを費やしてクイーンへの挑戦権を得たとしても、その先で自分はまたこの女に負けるだろう。自分は一生クイーンにはなれない。自分が一番なりたかったものに、自分は絶対になれないのだ。


 そんな思いがめぐりの頭の中を占拠していた。そのために、裕香がその後に言った、


「でも、これは読み手の口をじっと見てないといけないから、試合では使えないわね」


という補足も、めぐりの耳には、届かなかった。そして、めぐりの思考は、更に危険なものへと変貌していった。


 この女がいる限り、自分は絶対にクイーンにはなれない。この女さえいなければ…。そうか。この女を殺してしまえばいい。いや、殺さなければならない。この女を殺さなければ、自分は一生日陰のまま。今まで費やしてきたものが全て無駄になる。それだけは耐えられない。


 この女を殺さなければ。

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