第11話

〈姉〉

 縁の背中に円の外周を回る点のような動きで日焼け止めを延々と塗っていたい所だが、過度に塗り過ぎたら縁がべとべとになってしまうので自重した。

「お姉ちゃんにも塗ってあげる」そこで縁がお返しに私を触ってくれる宣言をした。それはそれは有難きこと風林火山を超越するが如きご厚意。

「優しく塗るねぇ」そう言う縁は何故か不敵な笑みを浮かべて日焼け止めの準備をする。声にも怪し気な心の声が含まれている。え、まさか縁も下心というかいつぞやの仕返しに出るのでは。

「いくよお姉ちゃん」

「うん?」

「うりりりりりりりりりりりりいりりりりりり」

「あは、アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」

 アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ……。

 そのまま四十秒くらい笑いっ放しで縁に体中まさぐられていた。途中で「ひえ」とか「んう」とかいう声が何処かから生まれた気がするけど無かったことにしよう。罰というより飴と鞭みたいな物が当たった感じだな。私達のじゃれ合いの中には受動と能動の立場逆転がある。私達はリバーシブル。このように至って冷静な思考を回復させた。

 いやしかし人の少ない場所を選んで正解だった。公衆の面前では絶対に出来ない。それ以前にやろうとしないけど。という訳でその人間共が蔓延る海へと向かおう。


〈妹〉

 人が多いといっても映画館程の密度は無いので嘔吐感までは催さない。いや別に元々頻繁に嘔吐する体質ではないけどね。あの日が例外だっただけだ。事実吐いてはいないし。

 この話題の後で描写するのは何だけど、広々と水平線まで覗ける紺碧の海には濁りが殆ど無く、自然の力強さと神々しさを印象付けられる。言うまでもなくお姉ちゃんには劣る。また漂う空気は雑多な建物が乱立する市街地とは違って、純粋な呼吸を誘ってくれる。当然お姉ちゃんには劣る。更に砂浜で展開されている屋台や海の家がお姉ちゃんに劣る。そんな海の中へレッツゴー。

「わぁお姉ちゃん水が冷たいよ」

「本当だ冷たい!けど気持ち良い」

「お姉ちゃんこっちこっち」

「縁ったら、待て待てぇ。ははは」

 そんな感じでお姉ちゃんと海水を浴びに浴びたり、持ってきたビーチボールで遊んだり、砂浜の砂でわたし達の未来の新居を建てたり、昼ご飯のついでに海の家でカキ氷を急いで食べて頭の痛みで呻いたりした。カキ氷は映画館の物よりは味が落ちるけど、再び魔法を唱えることで美味しく食した。わたしが泳げないせいで浅瀬から砂浜までの範囲に遊びが制限されてしまうのに、お姉ちゃんはわたしと一緒に楽しんでくれる。それどころかわたし以上に燥いでいた。今日一日お姉ちゃんと海で過ごして、お姉ちゃんへの思いが海より深くなった。それは元からか。

 兎に角来て良かったなぁと心の底から思う。それだけにこの声は聞きたくなかった。

「あぁぁ!絆ちゃんと、縁ちゃんだぁ!」

 この抑揚の激しい音。耳を痛める粗悪な声。不用意に馴れ馴れしい言葉遣い。

 遠藤慰陽、またお前か。そう思って振り向くと遠藤慰陽の隣にもう一人似たようなのが居た。

 そいつは遠藤慰陽より頭一つ分小さく、枯れた花色のショートヘアーを頭から伸ばしている。お姉ちゃんの格下であることを前提としておくけど、多数派の人間から好ましいと見なされるのだろうなと思うくらいには整った顔立ちだ。お姉ちゃんが端正でキリリとした容貌を持つとすると、そいつはほわりという温和な雰囲気を放っていると言った違いが見て取れる。いやいやお姉ちゃんにもほんわかしている部分はあるけどね。お姉ちゃん像はジャンルを問わない。

 それにしても何で帰り際に見つかってしまったのかなと神を呪う。神は死を以て償いその座をお姉ちゃんに譲るべきではないの。そして真に償うべき人間が後ろから呼んでくる。

「二人共今行くからぁ待っていてー」

「ちょ、おい」

 遠藤慰陽ともう一人が高台となっている位置からわたし達の元へと駆け下りる。もう一人の方は気が進まずと言った姿勢で足を動かす。彼女の心中には恐らくわたしも同意する。それより柔和な雰囲気に反して口調は荒々しい。

「はぁはぁ、ふぅ……やぁまた会ったね。素晴らしいね運命だねぇ」

「おいお姉ちゃ……姉貴」

「……お久し振りです」

 二台の動くハードルを目の前にして、お姉ちゃんは対応を面倒臭く思うらしい。嫌々と言った挨拶をしている。あれでも何か変だな。お姉ちゃんに不自然さがある。視線や仕草がいつもより若干ずれている。何か、そう、映画の前に入ったカフェの時みたいな違和感を覚える。お姉ちゃん大丈夫かな。

「んー?久しぶりって程でもないよぅ。公園で会ったよね。あの日は確か影良の夏休みの初日……ってそうだぁ!影良のことはお二人さんとも初めてだよね?だったら紹介するよぅ」いやいいですどうでもいいです。帰ってください。

「良いよ別にそんなの」ほら当人も仰っていることですし、帰りましょう。

「えぇ良くないよぅ。影良ほら、自己紹介してよぅ」

「自己紹介てか、一人はあれだけどもう一人は……」

 ん?一人はあれで一人はって、わたしはこいつのことを知らないから必然的にお姉ちゃんに関連することになるけど……もしかしてお姉ちゃんの知り合いか。同級生か。そういうことについてはわたしとお姉ちゃんは一切喋らないしそもそも頭に無いから、話を把握出来ない。

「まぁいいわ、代わりにワタシが言うよぅ。この子は影良、ワタシの妹。以前も公園で言ったわよね」

 そう言えば発言していた気がしなくはない。記憶の優先順位に従えばお姉ちゃん以外の事象は次々と消えていくから、遠藤慰陽のことは断片しか思い出せない。邪魔な存在であるというような抽象的な感想は割合心に残っているけど。

「姉貴聞いてよ……片伊は知っているから」

 やっぱりそうなんだ。しかし呼び捨てをしたな。わたしの機嫌によっては切り捨て御免するよそれ。スルーしていたけどこいつ……遠藤影良だっけ。遠藤影良もわたしと同じく妹という立場か。だからと言って特にシンパシーやエンパシーは感じないけど。

「あら!そうだったの。片伊さんって絆ちゃんの方だわよね。へぇ同じ学校で同じクラスだったのね。ごめんねお姉ちゃん何も知らなくて。それはさておき何で姉貴?いつもみたいに『お姉ちゃん』で良いんだよぅ」

「煩いな。何でも良いでしょ」

「じゃあ『お姉ちゃん』でも良いんじゃなぁい?」何やら仲良し姉妹ごっこしているけどさっさと終わらせて欲しいな。わたし達の時間の価値を見誤るではない。

「もう良いから姉貴」そうそうもういい。

「むむ、じゃぁまぁいいか……あぁそうだ影良、せめて縁ちゃんにだけでも挨拶しなさい」本当の本当に災厄で、最悪だこの人間。

「うぇー」わたしもうぇーです。思うことが偶然によく一致しますねお互いに。心が通っているのとは根本的に違うけど。

「……宜しく」渋々と手を差し出してきた。けれどもしかしたら手の上に毒が盛られているかもしれないし、握った瞬間プロレス技に持ち込まれるかもしれないので、ここは慎重にならなければならない。その一心で手の人差し指のみを孤独に前進させる。異星人と少年の交信を蘇らせたかのように少しずつ少しずつ距離を縮める。

「…………」やっぱり、駄目だ。遠藤影良の人差し指まであと関節一個分と言った所でギブアップ。諦めた。無理無理。お姉ちゃん以外の人間に自ら触れに向かうのは困難を極める。それが遠藤慰陽の妹となると尚更憚られる。

「何こいつ。触れようとさえしないんですけど」一応訂正を入れると触れようとはした。他人の努力は認めるのが良いと思いますよ。

「まぁまぁ落ち着いて。縁ちゃんも、影良とこれから宜しくね?」

「…………」例に違わずわたしは沈黙を行使、静寂を維持する。

「慰陽さんは今日も何故ここに?」お姉ちゃんが助け舟を出してくれた。あぁお姉ちゃん、どうしてお姉ちゃんはこんな素敵なお姉ちゃんなの?いやそんなことはどうでもいい。お姉ちゃんは素敵に決まっている。どちらかと言えば、どうしてお姉ちゃん以外は素敵でないのかと問い立てる方が本心と本質に近い。

「見ての通り海水浴に来たのよぅ。長い長い休みだし、影良と出掛けるに丁度良いと思ってね。影良もノリノリだったのよぅ」

「ノリノリじゃないし」何となく遠藤影良の性格が明らかになってきた気がする。どうでもいい。

「絆ちゃん達はぁ?」

「私達も同じです。もう帰りますけどね」二つの不純物が混ざる中でお姉ちゃんの声に癒されます。救われます。夕方に差し掛かっているけどこいつらはまだ遊ぶのかな。一体いつからわたし達の半径百メートル以内に入っていたのだろう。一般道手前の高台付近に居たことからするにもしかして今来たのか。

「うぅそうかぁ。残念だけど仕方ないね」残念というのはこっちが随分前から抱いている台詞です。

「今日はお話だけになっちゃったけど今度いつか四人で遊ぼうね」

「……まぁ、予定が合えば」二度とその日は来ないだろうけど、配慮の行き届いたお姉ちゃんは茶柱をへし折るようにお茶を濁す。

「やったぁ。その日を楽しみにしているよぅ」満面の笑みで使い古したスポンジみたいに柔らかく顔を曲げる遠藤慰陽。哀れなり。

「じゃあねぇー!」

「じゃあまた」あぁ、やっと絶望からお暇することが出来た。すっと全身に透き通る解放感。何回目だろうこの感覚…………おや?

 ……ボソッ。去り際に遠藤影良がお姉ちゃんの隣に寄って、目を合わせずに一言二言呟いた。その間僅か二秒。呟いた後は逃げるようにその場を離れ、遠藤姉妹は海へと吸い込まれていった。

 何だったんだろうとお姉ちゃんを眺めるけど、具体的に何かを読み取ることが出来ない。ただその分からない何かを諦めたような表情になっていた。言葉に出さないならわたしも聞かないけど、妹としてやれることはないかと思惟した。

 こうしてわたし達の海物語は幕を下ろす。愈々夏休みが終わりに近付いてきた。

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