第15話 鳴り響くこと

 トトフィガロはメイドである。

 好きな音は、硝子を叩いた時に鳴る澄んだ音のメイドである。


「やや! トト! トトじゃあないか」


 発破のようなハキハキとした聞き取りやすい声と共に、その声量に負けない程の大音量のブラスバンドのような金管楽器の絡むサウンドが鳴り響く。それは広く、天井の高い城内に反響し、その場にいる者の耳を脳ごと劈いた。


 王女殿下と別れ、再び一人で静かな廊下を上機嫌に歩いていたトトフィガロは、突然のその音量に驚いて、一瞬身を固くする。しかし、此方に向けて手を振る声と音の主が見知った顔であることを認識し、全身の緊張を解いて、笑みを浮かべた。


「ヘイルガイル、起きていたのですね」


 声の主、ヘイルガイルは挙げていた手を下ろし、トトフィガロの傍で足を止めた。


「僕が寝ているだなんて、誰に聞いたんだい? ご覧の通り、ばっちり起きているよ。ほら、瞼だってこんなに開くとも」


 そう言って、ヘイルガイルは鬼灯の如き妖しい光の灯る眼を見開き、その上、歯を剥き出しにして、さながらホラー映画のキャラクターのような恐ろしい笑顔を向けた。その戯けた様子に、トトフィガロは思わず笑い声を溢す。


「あはは、それは笑顔ですか?」

「地上の花のような笑みだろう。荒地もまるで芽吹き始める……ああっと、君は花を見たことはあったのだったかな」

「ありません。でも、多分、これではないと思います。あ、でも、見に行けそうなんです」

「おや、何があったのかな」


 ふんすと鼻息荒く、少し興奮し、話したそうにするトトフィガロを見て、ヘイルガイルは何処か愛おしそうに目を細める。

 ヘイルガイルはトトフィガロが竜宮國へ辿り着いた時から知っているためなのか、幼く弱い雛が自分の住まう國で楽しそうにしているだけで、嬉しくなるようだった。喧しいと口々に言われるヘイルガイルだが、それは他人のいる場所に自ら向かうから発生する苦情であり、また、それも面倒見の良さ故のお節介を発揮するがための行動で、そして、口では何と言おうとも、周囲もそんなヘイルガイルを親しみを持って受け入れているのだ。愛あるぞんざいな扱いは、それもまた受け入れるヘイルガイルの度量で成り立つ。つまり、隣人への愛が深い竜なのだ。

 彼にとってトトフィガロの幼気さと健気さ、危うさというものは、そういった心の在り方を刺激されるらしく、事あるごとに構いに行くので、トトフィガロもお世話され慣れたとでも言おうか、気圧されることも多い竜達の中でも、距離の近い関係を築けていた。


「実は王女殿下と一緒に地上に行くことになったのです」


 トトフィガロは胸の前に拳を握って、大きな目をぱちりと開いて、満面の笑みで報告をする。


「嗚呼、王女殿下が偶に行く、不思議発見旅だね。三十年ぶりかな。お供に選ばれるだなんて、光栄じゃないか」

「旅には名称があるのですか?」

「そうだよ。今、僕が付けたんだけどね。あの方は海底の闇そのものでありながら、境界なく天翔ける閉蹉へいさの素質も受け継いでいらっしゃるから、僕等のように引きこもってばかりではいられないのだろう。……役割を思えば、難儀なものだ」


 そう言って、ヘイルガイルは少し悲しげに目を細めた。だが、それはほんの一瞬のことで、次の瞬間には穏やかな笑みを浮かべていた。


「それはさておき、殿下が持ち帰るお土産は珍しい物ばかりだから、今から帰りが待ち遠しいよ。勿論、トトの帰りもね」

「此間はぱいなっぷるとか言う果物を持ち帰っていらして、噛むと甘い果汁がじゅわって出て来て、美味しかったです」

「僕はそれを食べなかったんだよね。正しくは食べられなかった」


 ヘイルガイルは器用に片眉だけを上げ、不満げな表情を浮かべた。


「皆が捌けた後に、最後の一切れを取ろうとしたら、イーエンスが横から取ってっちゃったんだよ」


 トトフィガロはその場面を頭に思い浮かべる。そして、直ぐに「イーエンスならやりかねないな」という感想を持った。

 彼の鈍感さは肌の感覚だけではなく、空気に含まれる人の予備動作のようなものへの察知能力も低いのだ。人が進もうとする動線にも気付かないし、ヘイルガイルの語るような、最後の一つも遠慮なく取って行くのだ。更に言えば、そこに悪意はない。

 しかし、それは必ずしも悪いことばかりではない。裏表のない性格は信頼に置けるし、皆が無駄に遠慮し合う空気を壊せるし、ポジティブな考え方は聞いてる側にも良く影響するし、何より間違っていることを間違っていると口籠らずに主張出来ることは、トトフィガロから見ると、格好が良いことなのだ。


「では、もし地上でぱいなっぷるがあれば、持ち帰って、一番にヘイルガイルへ差し上げます」

「それは嬉しいね。期待はしないが、心待ちにはしよう」

「期待してくれないんですか?」

「地上に慣れた王女殿下がいるから、多少はどうとでもしてくれるだろうとは言え、地上はなかなか面倒事が多いものだからね。僕のために無理はしないように。それに果物というものは、地域によって採れるものが異なる。今回、君達が行くルートにぱいなっぷるがあるか分からないさ」


 トトフィガロの地上のイメージは、そのまま王女殿下が持ち帰って来たものと、物語の中の世界とで出来ている。ふんわりとしたイメージで見ているため、それが何処で実ったものなのか、いつ頃が収穫期なのかなど、その物語の舞台の具体性や季節の移り変わりもあまり気にしない。だが、それはこの竜宮に身を置き、外の世界での記憶をほぼ持っていないが故の無知であった。


 竜宮には、季節も地域差もない。初めから、一から十まで作られた世界のために、轍としての地図も作られなかった。未踏の地はなく、光で照らす先もない。点在する月の明かりだけが、朧ろに輪郭を浮かばせることはあれど、終ぞ明かす者を必要としなかった人にとっては原始の闇の世界である。

 この国における例外を挙げるとするなら、カザミナルと王女殿下であろう。彼等は闇を闇だと認識出来る者達だ。そして、今はトトフィガロも彼等の考え方に近付きつつある。

 多くの竜は、微睡みとそれの区別をつけられない。境目が曖昧な居心地の良い場所だと考え、そこには恐怖も興味もない。秩序がありながらも、分別は混沌としている、というのがこの國の奇妙さかも分からない。


 だが、それは、全てが明かされてしまったこの世界において唯一、謎のままに残った地点であることを示す。極端に表現するなら、此処は最後の希望なのだ。そこには未開の可能性が残っているかもしれないのだ。


 それは、さておき、トトフィガロは常の生活において地図というものに触れないでいるから、その必要性も重要性にも触れずにいた。


「地上には、地上にある全ての道を記した紙があるそうだよ。もし、それを手に入れて、旅をしながらそこに何があったのか、どういう特徴があったのかを書いていけば、何処に行けばその果物か手に入るのか、皆にも分かるかもしれないね」


 相変わらず、賑やかな声でヘイルガイルは和かに言った。

 その喉から発せられる音は言葉ばかりでない。それは音楽だ。主旋律があり、それを支える低音があり、テンポを保つ打楽器の音もある。その雰囲気は先程の華やかなバンドではなく、まるで、大人びたバーにでもいるかのような、落ち着いたものへと変わっていた。


 竜達は彼の声を喧しい声だと言う。聞き取るべき言葉が、他の音で聞こえないし、そもそも声量が大きいからだ。音楽がない竜宮では、それは音楽とは認識されず、彼のサウンドは唯の騒音でしかない。

 本人にとっては、音楽を鳴らすのは楽しいことらしい。何処かで聴いた音楽を複製して、その時の気分で曲を変えているようだ。


 彼の耳は、聞こえる範囲が酷く広く、まさに音の奔流とでも言うべき具合で、小さな音、大きな音、近くの音、遠くの音、高い音、低い音、他人の心音ばかりでなく、地上の人々の会話さえも盗み聞き出来た。それは常に音が鳴り続けている、静寂のない生活である。只人であれば、精神の針が振り切れてしまっていたかもしれない。

 だが、ヘイルガイルが音の洪水に耐えられるのは、一つの楽しみがあったがためだ。彼は世界の何処かで流されているラジオの電波をも聞き取ることが出来た。聞き慣れない言葉、音楽、調子、それらは他の雑音を遮断出来る程に、集中して聴いてしまう楽しい一時だった。喉から出る音楽は、そのラジオで聞いたことのあるメロディが殆どだが、時折、自分でも見よう見まねで曲を作ることもあるようだった。


 遠く、遠く、何処とも知らぬ国の名前も知らない曲は、彼にとっては興味が惹かれて、真似したいと思える特別なものだったのだ。だが、この国には音楽がない。歌もなく、楽器もなく、それを理解する同士もいない。歌う者も、踊る者もいない。

 だから、彼は一人で歌うしかなかった。喧しいと言われながらも、仕方ないと困ったように笑われながらも、愛するものを奏で続けている。


「では、トトが書き込みましょう。何処で何を食べたかを書いておけば、それがまた食べたくなった時に良いのですよね」

「そうだよ。地図に直接じゃなくても、旅のことは何かに書き残しておいた方が、後々の楽しみになるさ。ノートブックならアインスに言えば、ちゃちゃっと作ってくれるよ。書く文字がないと文句は言われるだろうけどね」


 それを何処か満足そうに聞いていたヘイルガイルは、何かに気付いたように、トトフィガロの背後へと視線を向けた。


「おや、お寝坊さんが起きて来たね」








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