第11話 答えること

 トトフィガロはメイドである。

 思い悩むことがあるメイドである。


「竜の細胞を見たことがあるかね?」


 その声色は最初よりも柔らかく、トトフィガロは幾らかリラックスしながら、思考することが出来た。


 砂が細胞であるなら、それは砂漠を見渡すだけで視界に入れることが出来る。つまり、自分の体を見たことがあれば、それは細胞も見たことがあると言えるのかもしれないと、トトフィガロは思った。

 しかし、同時に、細胞を掬って晒して、まじまじと見たことがないことにも気付いた。細胞の話を多少の理解はしたが、それでも、トトフィガロにとって身体とは、沢山の一が集まったものではなく、元より人型で出来た一でしかない。そも、目で見えぬ程の大きさのものを、自然と認識することはないだろう。それは見たことがないとも言えるのかもしれない。


「……ないです」


 自信のなさから、一番控えめな回答を選んでしまう。外れても、そこまで恥をかくことはないだろうという、トトフィガロの処世術であり、また、冒険には向かない性格の表れだった。

 しかし、それは理解への拒否からなるものではなく、自分なりに考えた結果の選択なのだ。とは言え、もしかしたらこれが正解なのかもしれないと思い至っても、確信が得られない内は胸の奥に隠してしまう癖は、教えの場に於いてはあまり良い働きはしないだろう。


 おずおずとトトフィガロは言葉を選びながら、しどろもどろに話す。


「多分、なんですけど、カザミナルが言う、見たことあるか、の見たというのは、砂を見掛けたことがあるかってことではなくて、一粒一粒の目線で見たことがあるかってことですよね」

「随分と消極的な態度だが、私の質問の意図をよく理解している。大丈夫だ。続けてくれ」


 促され、トトフィガロは僅かに自信を取り戻す。


「トトは細胞というものを、今日、初めて知りました。だから、きっと注意して、細胞を見たこともないに決まっています。今でも、細胞によって自分の身体が出来ていると分かっても、自分の体がこれ以上小さく区分け出来そうな実感はないのです。トトの身体は、今あるこの全体で一つの一なのです。だから、細胞は見たことがありません」


 頭があって、首があって、胸があって、腹があって、手足があって、指があって、それがトトフィガロにとっての体だ。その右手と右脚はダンケハロンの角より削り出した義肢ではあるが、今となっては己の手足同然であり、感覚、神経も伸びてあるから、それも含めて自分の体だ。

 これ以上、感覚を細かくとなると、難しいと感じる。


 カザミナルは舌先をちろりと唇の隙間から見せる。彼の癖のようなものだ。


「それが正常な感覚であろう。感覚は細胞ベースでないのだから、知覚出来るのは、ある程度のサイズを持つものだ。……これは偏屈なアサラルヘンの得意分野の話ではあるが、細胞の一つ一つに精神が宿るなら、生物は呼吸一つで、自分を失うことになる。だが、多くの人は自分を保ったまま、生き続けている。少なくとも、普段過ごしていても問題ない。だから、細胞には感覚も精神も宿らないと言えるだろう。ならば、精神とは何処にあろうか。脳にあるのかね、胸の奥にあるのかね。例え、そのどちらかが答えだとしても、肉体に因るのならば、それらは新陳代謝によって、いつかはかつての細胞を全て失い、臓器は新しくなる。そこに残る精神は真に本物であろうか。かつてと同じと言えるだろうか。その疑問は常に纏わりつく。ふむ、テセウスの船という言葉を知っているかね」


 また、知らない言葉が出て来たと、トトフィガロは首を振る。

 それを見たカザミナルは、席を立って、近くの本棚に立てられた一冊の本を抜き取った。そして、ぱらぱらと捲っていたが、ある頁で手を止めた。


「裏の世界での出来事の話なのだがね、テセウスという人物が乗っていた船は、その功績の為に、後の時代でも大切にされていたが、時代を経ると部材が傷むので、都度、新しい資材と入れ替えられていた。そして、いつしか、全ての部品が入れ替わった。ならば、それはテセウスの乗っていた船と呼べるのか、それとも、最早違う船となっているのか、というのがテセウスの船の問いだ」


 裏の世界とは、ラルコンドゥも言っていた、絵画の女性が生きていた世界のことだろう。難易度は高いが、行き来は不可能ではないということは、僅かではあるが交易も行われていた可能性がある。その過程で渡って来た情報の一つが、テセウスの船の話なのかもしれない。


 ぱたりと音を立てて、本は閉じられる。トトフィガロからはそれが何の本かは見えなかった。青白い程に血色の悪い指が、本をぽっかりと空いた棚へと押し戻す。

 赤茶色い背表紙の本は、布張りの重厚な装丁で、刻まれた金文字がよりそれを更に厳かにしている。この部屋には器材も多いが、本も多い。物をあまり持たないことが多い竜の中でも、珍しく部屋が散らかっている。

 本人曰く、凡ゆる角度から見ても利便的配置、とのことだが、トトフィガロから見ると、雑多で無秩序状態そのものだ。正直掃除しづらいが、それ故にやり甲斐はある。


「ふむ、この本が気になるかね」

「見たことのない豪華な本です」

「裏の世界から取り寄せたんだ。竜宮の本も、彼方のように多様な装丁になってくれると嬉しいんだがな。アインスは文字の美しさばかり気に掛けて、その辺りは気にしない」

「カザミナルも見た目が気になるのですね」

「多少だがね。重厚な物を手に取ると、気分が締まるのだよ」


 ゆらゆらと揺れるカザミナルの服の裾には、よく分からない色の染みがついている。足元に散乱した本や怪しげな試験管などが、時に中身が入ったままのものもあるから、歩いている内に浸けてしまうのだろう。


 この部屋の匂いは独特だ。薬草のような、甘ったるいような、鼻をツンと刺すような、頭を穏やかにしてくれるような、多種多様な要素がつきはぎになっているようだ。トトフィガロはこの匂いが嫌いではなかった。苦手な匂いも少しするが、集中して鼻の中の香りを掻き分けていくと、酷く懐かしい心地を呼び起こすものがあるのだ。


 カザミナルは部屋の隅で立ったまま、目を閉じた。そして、小さく嘆息しながら、薄い唇を開いた。


「すまない、そろそろ扉を閉めてくれ。眩しいんだ」

「あ、すみません」


 トトフィガロは慌てて、背後で開けっ放しになっていた扉を閉じた。途端に主だった光源は失われる。篝苔がぼんやりと机上を照らすばかりで、カザミナルの隈の濃い不健康そうな顔も、自分の爪先も見えなくなった。


「この船の話はそのまま身体に置き換えられるものだ。生き物の身体は、いつかはその細胞の全てが入れ替えられる。それでも、その人物はその人物本人のままであるのか、それとも、別人と呼ぶべきなのか」

「その人はその人なのではありませんか? 次の朝になってたら、別の人になっていたなんて、ホックロス以外では聞いたことがありません」

「彼女は大分特殊ケースだから、考慮しなくて良い。まあ、そうなんだ。細胞ベースで見れば別人物だが、意識ベースで見るなら同一人物なんだ」

「見る高さによって、答えが変わるということですか」

「そうだが、少し難しい部分がある。意識というものが、どこから湧いて、どこに置かれているものなのか、ということを突き詰めなくては、意識ベースとは何をベースにしているかが分からない」


 トトフィガロは自分の頭の中を考えてみる。

 そも、意識とは何か。こうして考えていることを、意識があると言うならば、意識とは思考することだ。であれば、トトフィガロは何処で思考しているのだろうか。頭だろうか。頭な気がする。胸の内ではない。だが、感情は胸から湧き起こるように思える。

 考えれば考える程に、トトフィガロは混乱していった。


「カザミナル、全然分かりません。トトの心の声は何処で聞こえているのでしょうか。トトの中であることは確かなのです。そして、今此処にいるのは確かにトトであると思うのです。トトはずっとトトをやって来たから、今のトトもトトの筈です。別の誰かではありません。でも、何故そう思えるのかは分からないのです」


 支離滅裂にも聞こえるトトフィガロの回答に、カザミナルは僅かに微笑みを浮かべた。


「そうだ。継続こそが、人格の形成の肝となると僕は思う。記憶こそがその人自身ではないかと。例え、細胞が全て入れ替わっても、記憶が残るならその人はその人のままなのだ。そして、意識が何処にあるかという問いについてだが、これは記憶が何処にあるかとも似ている。面白みのない回答だが、単純に脳にあるものなのだろうと思うよ。我々は脳で思考し、脳の見せる景色を見ている。脳細胞はあまり変化のない細胞でね。新陳代謝が遅いと言えば良いか。だから、記憶は継続されるのだろう。……僕は僕が観測しているから存在している。同じく、僕が思考するから、僕の意識もある。そして、その全ては脳の中にある。細胞そのものではなく、脳という臓器の機能だ。細胞が入れ替わっても、脳の機能は変わらないからね」


 暗がりの中を悠々と歩き、カザミナルはまた椅子に座る。トトフィガロは何を崩してしまわないかと恐れて、一歩も動かずにいた。


「川の流れに例える者もあるが、僕にはこの答えが一番納得出来る。或いは、我々にも精神体があるのかもしれないが、肉体を失った竜はドットくらいだからね、ケースが少なくて参考には出来ない」


 カザミナルは光源から目を離し、暗闇に溶けたトトフィガロを見た。


「竜の細胞はね、新陳代謝がないんだ」

「全ての生き物にあるものではないのですか?」

「竜だけは例外的だ。ずっと同じ細胞で、ずっと同じ姿で、ずっと生きているのだ。小さな変化はあれど、入れ替わりは起きない」

「ずっと同じ服を着ているということですか?」

「そうだ。だが、服は汚れないし、ほつれない。時に改良されることもあるし、もし破っても元に戻るのだ」

「凄く良いですね」


 トトフィガロの着ているメイド服のエプロンは二代目だ。何かの液体を溢した時に、染みが取れなくて、サンロモントに新しい物を拵えて貰ったのだ。

 もし、新調せずにいられたら、そもそも汚れることもなければ、とっても便利だとトトフィガロは思った。だが、その好意的な受け取り方をカザミナルはしていないようで、また、初めのように気難しげに眉を寄せていた。


「カザミナルはそれがあまり良くないと思っているのですか」

「どうだろう。僕は変化しない環境の方が好きだ。だから、竜宮城はとても居心地が良い。だが、それは生き物として正しい在り方だろうかとも思うのだ。退化もしないが進化もしない。閉じた世界で朽ちるまで在り続ける。まるで機械のようじゃないかい? それに多少の閉塞感や、展望のなさを感じない訳ではない」


 篝苔に照らされる彼の顔は何処か悩ましげで、何処か優しげだった。


「余計な話が長くなった。言いたいことは一つだったんだ」

「何ですか」


 蛍光緑の瞳がぎょろりとトトフィガロを映す。


「トトフィガロ、君は確かに竜だよ。細胞がそれを示している」


 トトフィガロはその言葉にどきりとした。

 何故なら、自分に竜の特徴が薄いために、実は竜ではないのではないかと疑うことが、今まで何回かあったからだ。その度に、自分は駄目だと落ち込むまでがセットだった。

 もしかしたら、カザミナルはトトフィガロが時々落ち込んでいることに気付いていて、励まそうとしていたのかもしれない。


「誰に何を言われても、カザミナルがそう言っていたと答えると良い。自分は確かに竜であると」

「でも、トトの手足が潰れた時、元通りにはなりませんでした」

「それは君の力が弱かったからだ。竜を否定する要素には足りない。そもそもの話をするなら、竜宮城には竜しか住めないのだから、女王陛下が此処に居ることを認めているなら、それだけで君は竜なんだ。我々と同じだ」


 それだけ言うと、カザミナルはまた机と向き直って、本を読み始めた。


「言いたいことはそれだけだ。掃除は間に合っている。帰りたまえ」


 ぴしゃりと扉を閉めたように、カザミナルは意識を完全に本へと向けていた。トトフィガロは途端に居場所がなくなってしまい、少しあわあわとしていたが、邪魔をしてまで掃除をする必要もないと思い、静かに退出した。


「ありがとうございます」

「……」


 返事はない。

 だが、嫌な気分にはならない。

 彼の優しさに触れられたからだ。


 トトフィガロは上機嫌に廊下をまた歩き出した。





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