僕の手紙 ~この夕日まで~

ウニ軍艦

この夕日まで 1


      1


「さっきまで思い出していました、あの日から今日までを」

 この言葉を耳にして、私は視線を向ける……

 壮大な絶景が広がっているのに……まるでその景色が見えていないような瞳。

「……そっか」これだけ返事をすると視線を正面に戻す。やはり悲しみは消えない、いや、さらに掘り起こしてくれる。「忘れるために来たの、弱いわよね、私」

 相手から返事はない。

「……でも、きっとそれでいいの」と私はいった。

 絶景を前にゆっくりと瞼を閉じるとオレンジの光が遮断され視界は暗闇になった。

 その、暗闇の世界には、あの、彼女の姿があった。


      2


 大きな入道雲が上空の強い風にゆっくり流されると、待っていましたと言わんばかりに八月の太陽が顔を出し、その光はガラス窓を通り抜けて病室の中の三人を照らす。

 ベットの上に座る少女は、その光で一瞬目をつぶったが、手を額に当てて目を開くと窓の外に広がる空を見上げた。

(……いい、天気)

 ついさっきまで5人程いた友達も暇なはずの夏休みは意外と忙しいらしく、課題や塾、又は遊びに追われて帰宅し、残りは2人になっている。

 寂しい気持ちもあるが、入院している暇な自分がワガママなど言えない。

「課題全っ然終わってないよー……」

 友達の一人である有香が俯き加減で面倒臭そうに言った。ポニーテールがよく似合う女子だ。

「俺もー……」

 その隣が真二。同じクラスの委員長でよく病室に足を運んでくれるし花なども持って来てくれる、キリッとした目に立派な眉、短髪で夏が良く似合う男子だった。

「有香も真二君も、頭いいんだからすぐ終わるって」

 そう言ってベットの上から笑顔を返す。

「冬美に言われる程良くありませーん」有香は目を閉じながらわざとツンとして言った、確かに前回の中間テストの成績は冬美の方が良かった。「入院してる人に負けてる私達の身にもなってよね~」と有香は付け足した

「入院してるから勝ててるのっ。も~勉強以外すること無くて大変なんだから~」」冬美は溜息ながら返した。

「な~ら早く退院して私に勝ちを譲ってくださいよね~?」

「は~い……まったく有香は可愛い顔して厳しいんだから」

 その返事に有香は、「冬美に可愛いとか言われると嫌味に聞こえるの~!」と、冬美の綺麗なロングヘア-をグチャグチャした。

「わっ! ご、ごめんなさいっ!」

 謝ると手を止める有香。一際目立った可憐な顔立ちと美しい黒髪で、クラスのお姫様、なんて友達に呼ばれている冬美の髪はクシャクシャだ。

「あ~……もう」と冬美は手で髪を撫でる。

 有香はその姿を見ると一息ついて言った

「……待ってるからね、退院」

 そう呟くと冬美の乱れた髪を今度は自分のクシで梳きはじめる。

「……うん」冬美は静かにいった。

「じゃあ、俺は帰ろうかな。部活あるし」と真二がいう。

「あ、私もっ」と有香も続いた。

 どうやらお別れの時間だ。冬美はベットから下り、二人をエレベ-タ-まで見送る。

「じゃあね、ありがとね、またね」

 エレベ-タ-の扉が閉まるまで懸命に手を振りお礼を言う、みんな忙しいのに来てくれているのだ。

「………」ここは三階なので、エレベ-タ-の扉が閉まると、階の表示が二階、一階、と変わっていく。多分二人はもう一階へと着いただろう「……またね」

 冬美は小さく呟く。いつもこうだ、友達が来てくれるのは嬉しいし楽しいけど、帰った時は孤独感に襲われる。

 病室は一人部屋のために友達は出来ないし、日頃もあまり若い人は見掛けない。看護師にだって特別に気の合う人はいなかった。

 まだ中学3年、遊びたい年頃だし様々な夢にだって向かえる年齢、寂しいのも分かる。一体、いつになったら笑顔で一階へと降りて出口をくぐれるのか、そんな事ばかりを考えてしまう……

 冬美は三階の休憩室へと歩いた、大体は数人の人がいるので少しでも孤独感を紛らわせられるというものだ。

 しかし中を覗くと、本日は残念ながら誰もいない様子。休憩室の大きさは教室を半分にした位、中では数台の長机とパイプ椅子、それに自動販売機が淋しく並んでいる。

「……もう」

 残念だがせっかく来たのだ、冬美は右奥にある窓際のパイプ椅子まで歩き腰掛けた、時期に誰か来るかもしれない。

 セミの鳴き声につられて窓の外へと視線を移す、鮮やかな緑を纏った木々が太陽に照らされ一枚一枚の葉は燃える様に輝く、その木々の影は人々を誘う様に涼さが伝わる程爽やかに伸び、その遠く向こうにはこの病院が長い坂を上がった高地にあるからこそ見える海が景色の主役となり存在を魅せている。

 冬美はふと思った、この美しい風景が。

(一枚の写真ならいいのに)

 机に肘をつき手の平に顔を乗せると、一時は孤独を忘れて外を見つめた。


      3


 出勤の時間まではまだ30分あるが構わなかった、早々と職場に足を踏み入れる。なんとなく時間を潰すよりは普通に仕事をしていた方が何倍も楽だというものだ。

「今日も早いのねっ」

 婦長に言われると沙織は笑顔で答えた。正午のナ-スステ-ションは患者の昼食準備に取り掛かろうとしておりバタバタとしている。一人でも多い方が助かるのは当然の事。看護師仲間達も嬉しそうだ。

「助かるよ~沙織が来てくれると!」

 看護師の一人が言う。

 沙織は、「ランチ奢ってもらうからね」と片目を閉じてみせた。

 この辺りでは一番大きな総合記念病院。ここに入って三年が経った。最初は主に外傷を対象とする二階の担当になり三年間勤め、つい一週間前に現在の三階へと移動になった。

 若いのによく働く、だとか、仕事が出来る、だとか言われるが、自分で選んだ好きな職業なのだから真面目に働くなど当然で、褒められる方が不思議に感じる。

「沙織さん、少しいいかしら?」

 急に婦長に呼ばれた

「はい婦長」

 沙織は黒髪のショ-トヘア-に飾られたナ-スキャップを両手で整えてから近づく。

「先日話した沙織さんに担当してもらう患者さんの資料、渡しとくわね」

「ああ、今日からなんですか」

「ええ、お願いね」

 この基本的に症状の重い患者が集まる三階で担当患者を持つ事は看護師として板についてきた証だ。今現在の担当看護師が急に長期休暇を取る事になったのもあるが、わざわざ三階担当になって間もない沙織を選んでくれたのだ、それだけ期待されていると言うことだし、沙織も嬉しいのが本心。なので先日話された時には心よく引き受ける事にしたのだ。

「目、通しときます」沙織は一礼するとその場を後にした。最初の仕事は、昼食後の体調調査といった感じになるだろうか。「さーて、と」

 あと三十分もすれば昼食が配膳される。準備も一段落着いた様だし、後は栄養士の方達に任せて沙織はナ-スステ-ションの椅子に腰掛けた。しかしゆっくり休んでもいられない。沙織は一息つくとすぐに資料に視線を落とした。

「……363号室、か」


      4


 つい時間が経つのを忘れていた。

 机についた肘が痛む。もう、どれくらい眺めているだろうか。

 視界を病院内に戻すことは極力したくなかった、少しでも長く、この景色を……

 遠くを見ている間は、不思議と少し自由になれた気がした。目の前に広がる景色、自分はいつでもその広い世界へと飛び出していける、そんな気持ちになるのだ。

 だからまだ眺めている。なかなか目を反らせない。

 視線を戻せばまた病院のなか。

 そこには、現実が待っている。

 ――退屈?

 ――孤独?

 いいや、本当はそんなもの、現実を忘れるためだけに自我が勝手に生み出した悩みにすぎない。

 冬美は小さく溜息をついた。

「大丈夫?」

 と、急に後ろから声があった。

 冬美は振り返り、声の主を見上げる。

「北川、冬美ちゃんでしょ?」

「……はい、そうですけど」

 そこには若い女性看護師が立っていた。人が入ってきたのすら気付かないなんて本当に無心で外を眺めていたに違いない。

「元気、無さそうに見えたよ?」

 やはりそうらしい。「……いえ、大丈夫です」

 看護師は、「なら良かった」と優しく笑った。

 それよりも、冬美はまじまじと看護師を見る。この階で見かけたことのない顔だ。

「この階の、看護師さんですか?」

 冬美は遠慮がちに聞く。首を振って欲しくはない質問だった。こんな形で声をかけてもらったのは初めてだったので、なんだか嬉しかったのだ。

「うん、私は沙織ですよ。この階の担当になってからまだ一週間だけどね」

「よろしくお願いします、沙織さん」

 冬美は笑顔で頭を下げる。沙織も、「こちらこそ」と笑顔を返した。

 冬美自身も気付いていないが、こうやって一人でいるときに笑えたのは久しぶりのこと。日頃はイタズラばかりの神様だが、少しは反省したのか、不安をちょっとだけ忘れさせてくれた。


     5


「えと、三ヶ月。でも通院が長かったから、合わせたらもう1年になるの」

 いつから入院しているの? と沙織に訊かれたので、冬美はそう答えた。 二人で雑談をはじめて、もう十分が経とうとしていた。

「へえ、じゃあ、冬美ちゃんの方が先輩ってわけだね」

「沙織さんみたいな人が、担当なら良かったのにな……」冬美は俯き加減で言った。「新しい担当、沙織さんがなってよ~」と両手を合わせてみせる。

 現在、冬美の担当は上野と言う無口な看護師だ。そして、家庭の事情で本日から長期休暇を取ることになっている。新しい担当者はまだ聞かされていない。

「それは私が決められることじゃあないからねえ」と沙織はいった。

「だよねー……」

「それに私、けっこう厳しいわよ?」

「え~? ならやっぱり嫌っ」

「こら! 薄情者!」

 そういって二人で笑い合う。まるで友達同士のような気持ちになった。

「――あ、そう言えば」と冬美は言う。

「うん。どうしたの?」

「沙織さん、どうして休憩室に?」

「あっ――」そうだ、大事な事を忘れていた。「呼びに来たの。もう昼食の時間だよ。それなのに冬美ちゃん病室にいないんだもん」

 つまり患者がベッドにいるかどうかの確認作業の途中で、冬美が不在なことが分かり探しに来たというわけだ。

 タイミング良く休憩室の外からは昼食配膳車の音が聞こえてきた。

「ああ、そうだそうだ。病室に戻らなきゃ」

「早く早く」

 冬美は立ち上がり急いで休憩室から病室へと歩いていく。病室に着くとベッドへ上がった。

 ここまでついてきてくれた沙織は、「それじゃあね」と小さく手を振り病室の入口へと歩く。

 冬美は、「ねえ」と呼び止めていった。「時々、顔出してくれる? お話とか、したいな」

「時々? う~ん、難しいだろうな~」

「……そっか。うん。わかった」

「それじゃあね」

 沙織はそういって、病室の外へ出て行った。

「………」

 病室がしんと静まる。

 いつもの様に一人っきり部屋から、窓の外へと視線を移した。休憩室からの眺め程は壮大には感じられないが、少しは落ち着く。

 沙織との会話を思い出して、

(……久しぶりに、楽しかったのにな)

 と考えた。

 今までは、クラスの友達が来てくれている時間だけしか楽しめる時間はなかったのに……

 でも毎日のように会えるわけではない。話せるわけではない。そう考えると少し寂しくなった。せっかく気の合う看護師と会えたと言うのに。

 冬美は本日何回目になるか分からない溜息を吐いた。

「あ、そうそう」

 沙織の声だった。

「ん?」冬美が入口へと視線を向けると沙織が顔を出している。「沙織さん?」

「ここ、何号室?」

「えーと、363……だよね。どうして?」

 冬美は首を捻りながら答える、沙織はにっこり笑った。

「今日から担当、私だから、よろしく。時々どころか、しょっちゅう来るよ」

「え? だって……」

 沙織の笑顔を見て、冬美は意地悪をされたのだとわかった。

「も~! 意地悪!」冬美は膨らんでみせた

「ごめんごめん。昼食の後に、また来るからねっ」

「うんっ!」

 沙織は再び小さく手を振ったあと歩いて行った。


      6


 気持ちは切なく、その足取りは重く、沙織は俯いた状態でナ-スステ-ションへと帰ってきた。

「会った?」

 その沙織に婦長が声を掛けてくる。

「はい、少しだけ、ですけど……」

 俯いたまま答えた、そんな姿の沙織に婦長は優しく尋ねた。

「どう?」

 沙織はようやく顔を上げる。

「嬉しいのか、辛いのか……分からないんです」


「そうかもね」

「……まだ、笑えるんですね、あんな笑顔で」

 婦長は視線を落として頷く。沙織は冬美の資料を見た時の気持ちを掘り起こしていた。

 彼女の資料からまず得られたのは「脳腫瘍」と言う疾患名。冬美の入院の理由を語るものだ。

 脳腫瘍とは、頭蓋骨内に発生した腫瘍の総称であり、単純に考えるなら脳のガンである。聞き慣れるガンとはそもそも「悪性新生物」という正式名称の総称で細胞が異常な分裂や増殖を続け腫瘍が形成される疾患。

 脳腫瘍は一般的なガンとは違う点がいくつかあるが、腫瘍により血管が圧迫されたり不都合な事が起こる為に取り除かなければならないのは当然のことだ。

 冬美が病院に来たのは一年前、現在は十五歳で中学三年生。中学二年の終わり頃に頭痛などを訴え病院に足を運んだのだ。

 当然、通学には仕方なく支障が出ると思われたが、幸い放射線療法が選択でき治療方法を放射線にして通院を繰り返しながら治療を行ってきた。

 脳腫瘍の種類により放射線治療の効きにくい場合もある。冬美の腫瘍はまだ小さかったから良かったのだ、不幸中の幸いである。

 もっとも放射線を当てるだけ、と思いがちだし頭を切らずに済むことから楽なイメ-ジがある放射線療法だが、正常な組織の損傷も完全には防げないし倦怠感などの副作用もあることから、どの道通学には苦痛が伴ったはずだ。

 そんな苦痛に堪えながら通学し気付けば中学三年へと進学、それから一ヵ月は再び通院しながら学校に通っていた。

 その直後に今回の入院を余儀なくされた。新たな腫瘍が見つかったのだ。

 発生部位は下垂体周辺で脳の下に位置する部位。手術は避けられず、もう準備が進められており、本人も当然説明を受けているはずだ。

 入院してから三ヵ月、通院期間を含めて一年、その上たった一ヵ月しか三年のクラスには通えていない。まだ十五歳、取り除ける腫瘍だとしても、そんなの辛いに決まっている。

 きっと、悲観に捕われ落ち込んでいるだろう……

 そう、思っていたのだ。

 だから正直、なんて声を掛けようか迷っていた。

 結果、「大丈夫?」なんて気の利かない言葉になってしまったわけだが。

 声を掛けた沙織は、振り向いた時の冬美の顔だって、精神状態だって予想していた。

 でも……

「目を輝かせて、この階の看護師さんですか……って。頷いたら、よろしくお願いしますって、あんな笑顔で」

 想像もしてなかった。可愛い笑顔で笑ったのだ。逆に沙織の不安を消すような笑顔だった。悲観なんて一切見せない、笑顔。

 それで安心した? 嬉しかった? いや、何か違う。

 不思議と辛かったような気がする、この現実を前に、やるせない気持ちが芽生えたような、そんな気がする。

「私に気、遣ってくれたのかな」

 脳腫瘍、と言う病気の自分に話し掛けるのは勇気がいるし、相手は少し心苦しく感じてしまう。もしかしたら、そう考えて笑ってくれたのかもしれない。

「あの子は、優しい子だから」婦長が静かに言った。「あの子、分かってたんだと思うわ。担当の上野さんが自分に気を使って無口に振る舞ってたの」

「……上野さん、明るい人ですもんね」

「ええ……」

 沙織は下に向けていた視線を上げる。

「治りますよね、あの子」

「……手術が上手くいって、どこにも転移が無ければ大丈夫」

 それを聞いて、沙織はゆっくり頷くと微笑む。

「私、思いました。あの子には笑っていて欲しいって。あの、笑顔を奪ったらいけないんだ、って」

「そうね」

「それは、私の仕事ですよね」

「……そうね」婦長は優しく笑ったあと、沙織の両肩を叩いた。「元気だして」

「はいっ」と沙織は頷いた。

「あ、そうそう。それにしても冬美ちゃんは美人よね」

 婦長が急に声を明るくして言う。

「あ~、はい。美人というより、可愛いですよね」

 沙織も改めて思い出しながら言った

「沙織さんより美人を久し振りに見たかも」

「またまた~」

「あの美しさの秘密は何かしら?」

「……アミノ酸、でしょうか?」

「……コラ-ゲン、かしら?」

「……エステ?」

「……温泉?」

 二人で首を捻る。

「私、今から間に合うかしら?」

 と、いった婦長の眼差しは本気っぽかった。

 沙織は苦笑して、「……さ、さぁ?」

 真面目な空気が台なしだが、婦長が沙織を元気づけるために言ったことは分かっていた。本当に尊敬できる上司だ。沙織はその気持ちに答えて優しく笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る