第一章第六話 「夜の底の決意」

「アン、ジェリカ……?」


 月光が射し込み、樹々の間隙かんげきから彼女を照らし出す。赤い髪は乾いた泥に汚れている。けれど小熊が生涯でカメラのファインダーに収めてきたどんな著名な美術品や絶景よりも、凛と立つ彼女は美しかった。


 何しろ、生きている。

 生きているのだ。彼女は。


 小熊は自分の目頭が熱くなるのを感じながら、ふらふらと立ち上がる。

 あまりに嬉しすぎて。死に際に見る夢ではないかと半ば本気で疑っていた。


「アンジェリカ。生きて、たのか?」


「うん。どうにか生きてたよ。オグマ」


 油断なく『黒い虎』の死骸をチェックし、周囲に視線を配る合間に、アンジェリカは小熊に軽やかな声で笑いかける。船の上カルネアデスでの五日間と同じように。


 赤い髪の女性軍人は、確かにアンジェリカと同じ迷彩服を着ていた。

 声も喋り方もそっくりで、顔も仕草もよく似ている。

 つまりどう見ても同一人物だ。


 だがそれでもなお、小熊は未だに信じ切れなかった。


「本当に? 幻覚じゃなく? この厄介な森ならやりかねないんだが」


「本物だよ。ちょっとだけ触ってみる?」


 小熊は恐る恐る近付いてアンジェリカの頬に触れ、手を持ち上げ、胸の適度な膨らみにうっかり触れようとした辺りで笑顔で指先をはたき落された。

 そのじんわりとしびれる感触のお陰で、ようやく遅れて実感が湧いてくる。


「……そうか。俺以外にもまだ、生き残りがいたんだな」


 視界がにじみ、自分のワイシャツの胸元を掴む。

 

 ほんの数時間の間にどれだけの別れを経験したことだろう。

 そのほとんどが数日しか関わっていない相手とはいえ、親族の穏やかな葬式とは比べものにならない凄絶せいぜつな死に様ばかりだった。


 まさか、生きて再会できる相手がいるとは思ってもみなかった。

 それも一番最初に森へと消えてしまったアンジェリカと。

 

 アンジェリカは小熊が落ち着きを取り戻したのを確認して、腰の軍用ポーチから医療用セットを開く。腕の棘をゆっくりと抜き、圧縮包帯をくるくると巻いて応急処置をほどこしていく。


「いつっ……!」


「ごめんね。痛いと思うけど、すぐに命に係わる傷はなさそうだから」


 そう言いながら、手際良くアンジェリカは小熊を治療していく。


 『黒い虎』相手の鮮やかな立ち回りといい、無惨に負傷した小熊を見ても取り乱さない胆力たんりょくといい、彼女の軍人としての完成度はエーリング湾にいた人々と比べても最高峰だ。


 米軍最強と謳われる伝説的な特殊部隊、Navy SEALsネイビーシールズ

 階級は上級兵曹SCPO


 船上で気軽に名乗られた時には冗談かと思っていたが、その人間離れした技量と精神力を見せつけられた今となっては疑うべくもない。


 逆に言えば、世界から精鋭として集められた中でも彼女ほど飛び抜けた逸材でなければニュー・ミッドウェーの地獄は生き抜けなかったのだろう。

 さながら人間をふるいにかける蟲毒こどくのように。


(なら、俺はどうなんだ?)


 小熊は胸の奥で自問する。 


 小熊には鍛え抜いた戦闘技術も、飛び抜けた生き延びる才能もない。

 この島で死んでいったどの軍人や研究者と比べても、小熊はもっと早くに死んでいて当然の存在だっただろう。


 ならば、偶然なのか。

 小熊はただ運が良かっただけなのか。

 やはり小熊は、湧き上がる罪悪感に従って死ぬべきなのか。


「……違う。それは、違う。そうじゃない」


「オグマ?」


 アンジェリカが包帯を巻く手を止めていぶかしむ。

 それにも構わず、小熊はさらなる思考に没頭していく。


 サティム達から話を聞いていなければ、小熊はニュー・ミッドウェーの樹海を正しく警戒することはできなかっただろう。

 鵜川二尉と呉大尉が連れ出してくれなければ、小熊はとっくにエーリング湾で『黒い虎』の餌食えじきになっていただろう。

 アンジェリカと友人になったのだって、カルネアデスの船上で数多くのメンバーに取材する中で知り合ったからだった。


 すべて、小熊が記者ジャーナリストだったから起きたことだ。

 『あの人』に救われた小熊が、ジャーナリストとして生きることを決めたからこそ、オグマは今こうしてここにいる。


 一冊の手帳と、ペン。

 末期の癌患者にとってそれが希望となるのは、彼らの生きた証を、まだ生きている者達に伝える唯一の手段となるからだ。

 死にゆく者達にまだ生きている、無力な自分ができる唯一のこと。


「『このすべてを世界に伝える』」


 死に満ちたニュー・ミッドウェーの夜の森の底で、小熊は呉大尉の言葉を反芻はんすうした。


 小熊は顔を上げる。気遣わしげなアンジェリカと視線が交錯こうさくする。

 小熊がアンジェリカに恩を返せる機会は今後もないだろう。

 生き延びるためには、小熊はアンジェリカの強さに守られるしかないからだ。


 だが。死んでいった者達の尊厳のために。

 まだこの地獄を知らない人々に警告を届けてこの先の命を救うために。

 小熊が少しでも世界に何かを伝えられるのなら。

 

 そのために死に急ぐのではなく。

 そのために生きることができるのなら。


「アンジェリカ」


「な、何? オグマ。大丈夫?」


「――俺を生かしてくれて、ありがとう」


 小熊はこんな島にまでやってきて、何度も死にかけて、初めて。


 ジャーナリストとして。

 自分が本当にやるべきことを見つけられた気がした。


               ▽▲▽▲▽▲


「こっちに一時的な拠点があるの。オグマの声が聴こえたから急いで一人で来たんだけど。本当、間に合ってよかった」


 やぶをかき分けながら先導せんどうするアンジェリカの後について、オグマはこわごわと深い森の中を移動していた。


 生きる理由を見つけたとは言っても、急に恐怖が消えてなくなるわけではない。

 何しろこの森に襲われて、鵜川達が凄惨な死に方をしていくところをすぐ傍で見続けてきたのだ。


 小熊は思わず、前を歩くアンジェリカの肩を叩いて尋ねる。


「なぁ、本当に大丈夫なのか? またいきなり樹だの花だの、わけのわからないUMAモドキの化け物が襲い掛かってきたりは?」


 対して、アンジェリカは予想外に冷静だった。

 それは必ずしも、彼女が優れた軍人だからというだけでもないらしい。


「安全なルートがあるの。絶対じゃないけどね。こっちの生存者の中に、頼れる植物学者さんがいるから」


「もしかしてとは思ったけど、他にも生存者がいるんだな。全部で何人?」


「オグマを入れたら十一人。他に通信もないし、多分それが調査隊の生き残りの全部だと思う」


 二百名ものメンバーが揃っていたニューミッドウェー国連派遣調査隊の生き残りが、わずか十一人。


 悲惨としか言いようのない生存率ではある。

 しかし、つい先程までこの島で生きているのは自分一人なのではないかと考えていた小熊にとっては、むしろ多いとすら思った。


「オグマの知り合いもいるみたいだけど、詳しくは着いてから……ほら、そこの目隠しの奥だよ」


 アンジェリカに言われるままに笠のように重ねられた枝葉を持ち上げると、太い枝を骨組みにドーム状に隠された空間が姿を現した。天然素材のベースキャンプに集っていた生存者の数は、アンジェリカから聞いていた通りの九人。


 だがその中に予想外の顔ぶれがあった。

 長い黒髪に、怜悧な眼差し。内に秘めた心の強さを体現したような東洋軍人。

 

ウー大尉!?」


 小熊は声を抑えながらも、驚きまでは隠せない。樹海の中で命を落としたとばかり思っていた呉悠然ウー・ヨウランが、輪の中に加わっていたからだ。


 混乱の中で呉独立分隊はバラバラに離散していた。だが樹海を生き延び、ここまで辿り着いたのは小熊一人ではなかったらしい。


「ご無事だったんですね。何よりで……っ、いや、それは?」


「五体満足とはいかなかった、というところです。ですがまずは再会を祝しましょう、小熊記者。あなたの生存は私も嬉しい」


 顔を上げた呉大尉は何事もなかったかのように小熊を見る。

 だがその顔は血の気が引いて青白い。その上左肩から先には、赤黒く染まった包帯が巻かれているだけだった。


 死に満ちた樹海の逃避行で。彼女は、左腕を失っていた。


「同情は不要です。……それより、あなたに用のある者がいるようですよ」


 何も言えずにいた小熊に、呉大尉の方から視線を逸らした。


 彼女が見た先にいたのは浅黒い肌に眼鏡の禿頭の男。登山用のベストに眼鏡をかけた理知的な風貌であり、事実、彼は植物学の世界的な権威として今回の調査に加わっている。


 アフリカ系アメリカ人研究者、スティンディ・ナイトハット。

 小熊も過去に船内でインタビューを行った研究者達のトップだった。


「スティンディ博士……」


「ミスター・オグマ。まだ君に船でインタビューを受けてから三日も経っていないが、随分と久しぶりに思えるな。だが他の研究者達は……残念だった。最期に私にこれを託していったよ」


 スティンディが取り出したのは、乾いた血のこびりついたUSBメモリだ。

 スティンディの他に生き残りの研究者がいるという話は聞かない。事実上、これは調査隊にいたすべての研究者達の遺品でもあるのだろう。


「中には何が?」


「この島の総合的な研究データだ。火山学、海洋学、植物学、そして『黒い虎』を含めたニューミッドウェーの獣達の身体構造と生態。我々が調べられた限りの調査結果がまとめてある。外に持ち出せば、この島の正体を探る鍵になるかもしれない」


 スティンディの眼差しは真剣だった。取材の際にも生真面目な男だったが、研究者達の遺志が籠もったこの研究データについては、自分一人の問題ではないという思いもあるのだろう。

 だから、次に続いた言葉に小熊は息を呑んだ。


「オグマ。これを君に託したい」


「……何故です? そんな大事な物を、俺に?」


「大事だからだ。私では扱い切れないほどに」


 スティンディの顔は苦渋くじゅうに歪んでいた。

 これは、そう。無力を痛感する者の表情だ。少し前まで同じ心境にあった小熊にはよくわかる。


「私は口が上手くない。植物に関してだけならまだしも、これほど奇妙な研究データを、国連や人々に受け入れてもらう方法など思い浮かばない。だがそれではすべての研究者達の死が無駄になってしまう」


「俺に、それができると?」


 スティンディは頷いた。何故、ここまで彼は小熊を信頼しているのだろう。スティンディは首の後ろに手をやって、小熊が首から提げた傷だらけの一眼レフを指差した。


「本音を言えば、マスメディアは苦手だ。彼らは自らの望む情報を報じるからな。……だがこの最悪の夜を乗り越えてもカメラを手放さない君のことは、外のメディアの数百倍は信じられる」


「俺はただ誰かに助けられただけで。自分じゃ何も」


「自覚がないのか? 酷い顔をしているぞ。それで何の苦労もしていないと言われても、かえって反応に困るさ」


 まぁ、確かにあの酸の霧を抜けてきたのだ。凄い顔をしているのだろう。並大抵の苦労人には負けるまい。


 そう考えてみると、自分は意外と根性のある奴なのかもしれない。くっくっ、と笑うスティンディに釣られ、小熊も思わず吹き出す。


 それから受け取ったUSBメモリはどこまでも軽く、そして重かった。


               ▽▲▽▲▽▲


「第一の目標はこの島からの脱出です」


 そう宣言したのは呉大尉だった。


 西側と東側。十一人の生存者の中には、どちらの立場の者もいる。

 だが全員が死の寸前にいる状況では国家の所属などどうでもいい、というのがここにいる全員の総意のようだった。


 個人と個人としてなら確執かくしつを一時的に手放すこともできる、というのは国際情勢の混迷ぶりを思えば希望の持てる話でもある。全員が協力したとしても生還できる可能性がゼロに近い以上、ほんのわずかな希望ではあったが。

 

 呉大尉は顎に手を当て、悩ましそうに続ける。


「つまり問題は脱出手段。海でも空でも構いませんが、どうにか太平洋を渡らなければなりません。しかも、『夜の燕』や森からの攻撃をい潜れる方法で」


「東西の大陸まではどちらも約四千キロ。ただし一番近いミッドウェー諸島まで辿り着ければ、少なくとも遭難や餓死は避けられる……が」


 スティンディは現実的な方策を述べつつも、苦い顔を崩さなかった。

 それはそうだろう。

 アンジェリカが十一人の誰もが考えていた最大の困難を代弁する。


「そもそもどうやって? 三隻の調査船のうち二隻が襲われて、最後の一隻だって無事な保証はどこにもないのに」


「外に連絡はできるんだろう。国連からの救助は?」


 スティンディの問いに、呉大尉が首を振る。


「状況は報告済みですが、救助は早くても五時間後のレスキューヘリだそうです。超音速戦闘機でも飛ばせばすぐですが……」


「無理なのか?」


「ただでさえ外ではこの島の状況に疑心暗鬼になっているようです。百名以上の多国籍メンバーが死に、敵の正体は不明と報告したのですから。どこかの国が戦闘機でも飛ばそうものなら、三度目の世界大戦は今度こそ現実になるでしょう」


 呉の言葉に、他の全員が押し黙る。

 

 政治的配慮。

 それが世界中の数十億人の命を左右するというのなら、仕方がないことではある。

 だがそんな国家間の仲違いのために自分達は見捨てられるのか。


 軍人も研究者も記者も、その程度の現実は知った上でここまで来たプロフェッショナルだ。だが死が間近に迫っている状況で「仕方がない」と簡単に割り切れるわけもない。


 どうしようもないのか。そんな絶望感が、十一人の生存者にじわじわと浸透していく中で。長い間黙っていた小熊が口を開いた。


「――ひとつだけ、助かる方法があるかもしれない」


 全員の注目が、大樹の根に腰掛ける小熊に集まった。

 小熊は彼らの眼差しを受け止める。


 ジャーナリストは死にゆく者達の希望になれるのかもしれない。

 だが生きたまま救えるのなら、その方が良いに決まっている。

 

「ずっと、疑問だったんだ。この島で電波が通じるのは何故だろうって。だけど考えてみれば簡単だった。衛星からの電波を受信する機材がない以上、これは元々俺達が使っていた基地局が生きているからでしかない」


「元々の基地局……?」


 小熊は充電も残り少なくなった型落ちのスマートフォンを目の前にかざす。設定画面から通信電波の発信源の名前が、そこには表示されていた。


 『CarneadesPortカルネアデスポート-7』。

 三隻の調査船が積んでいた基地局の、その一つが。


「一号船カルネアデスは生きている。何もかもが完全に壊されたわけじゃないなら、あそこには上陸用のゴムボートがまだ残ってる!!」

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