第一章第三話 「ぬばたまの闇に」

「捜索が無理ってどういうことです。もう七時間だ、おかしいでしょう! まさか先遣隊の二十人を全員見捨てるとでも?」


「そうしたくはありません。しかし、現状ではあまりにもリスクが高すぎる」


 日が沈んだ午後八時。

 ニューミッドウェー島の入り江、エーリング湾に造営ぞうえいされたベースキャンプ。その司令部となっている天幕てんまくに詰め掛け、小熊はここ数年で一度も出したことのないほど切迫感せっぱくかんに満ちた言葉を発していた。


 今、小熊の目の前にいるのは調査隊の総指揮官を務める壮年のフランス軍人だ。

 フレデリック・リュドワー陸軍大佐。本来なら大手メディア所属とはいえ、いちジャーナリストに過ぎない小熊の相手をしている暇はないはずだった。


 第一次先遣隊二十名、全員の連絡れんらく途絶とぜつ失踪しっそう

 七時間前に島内で消息を絶った彼らの行方は未だ一切掴めていないからだ。


 ただの地質調査任務、それも国連派遣部隊にあるまじき異常事態にリュドワーは辣腕らつわんを振るって指揮を執るべき立場にある。つまり彼が悠長に小熊の前に腰を下ろしているというのは、彼にすら今できることが何もないという最悪の現状があるからに他ならなかった。


「第一次先遣隊の捜索に出したドローンは陸上、空撮を含め大小十機。そのすべてが未帰還となり、中継映像とシグナルを見る限り恐らく破壊されています」


 サティムの二機に留まらず、未帰還となった先遣隊の捜索に送られたドローンはすべて通信途絶に陥った。皮肉にもより大きな被害によって、サティムの操縦技術への疑いは晴れたことになる。


「望遠カメラ、サーモグラフィ、放射線量計、集音マイク、レーダーなどの遠隔探査はほとんどが森林に遮蔽しゃへいされてしまいます。そして何より。電子顕微鏡での分析の結果、森林そのものであるニューミッドウェーの植生しょくせい生命分類ドメインや界のレベルで未知の生態系だと判明しました」


 具体的には、細胞やDNAの二重螺旋の塩基構造。その有無からして少なくない差異があり、むしろ既知の植物と類似しているのは外観ぐらいなのだという。


 起源は不明だがあの樹々はある意味で本物のUMA、未確認生命体というわけだ。

 地球の内外で珪素けいそやヒ素生命体を必死に探していたNASAが聞けば大喜びするビッグニュースだろう。


 だがそんなことは今はどうでもよかった。

 小熊は焦る心情のまま奥歯を強く噛み締めて吐き捨てる。


「つまり」


「森林地帯の内部環境は不明。第一次先遣隊は森林内部で何らかの原生生物により捕食、または殺傷されたと考えられます。軽装甲車と同等の耐久性がある軍用陸上ドローンが破壊された以上、現時点で有人探査を行えば高い確率で二次被害が出る。——現在、国連本部ではニューミッドウェーからの一時撤退が検討されています」


「クソッ!!」


 小熊はスチール製の簡易デスクを拳で殴りつけた。

 礼を失した行動を咎められないのは、緊急時であるというだけでなくリュドワーや周囲の部下達もまた同じ心情だからだろう。


 これは戦争ではない。人間同士が血を流す争いを止めるための、大袈裟だが平和で退屈な環境調査任務。そのはずではなかったのか。仲間を失ったかもしれないことに対するやり場のない怒りと、その奥底に燻る未知への恐怖をこの場にいる誰もが懸命に押し殺している。


 しかし。

 状況の変化は、それさえも悠長ゆうちょうだとあざ笑う。


「――リュドワー総指揮官! 森林地帯から、何かが現れました!!」


 天幕に飛び込んできた若いフィリピン系の女性工兵は、乏しい電気カンテラの明かりでもわかるほど明確に血の気が引いている。天幕の中が一斉にざわつく。入り口付近にいた小熊は誰よりも早く外へと飛び出す。


 そして。『それ』を見た。


「……黒い、虎?」


 暗夜の入り江。波飛沫の音だけが滔々とうとうと響く砂浜に動く影がある。


 森の境界と二十基のテントモジュールの距離は百メートルと離れていない。星明りと電気カンテラだけの薄暗がりでも、闇に溶ける輪郭までがおぼろげに映る。


 それは四足の獣だった。


 四肢を備え、艶やかな漆黒の体毛に覆われた大型獣。異様な雰囲気を醸し出してはいるが、体躯たいくだけならニューミッドウェーの異質な生態系から考えれば常識的過ぎるほど真っ当な造形とすら言えた。ここが海から現れたばかりの新島であることを除けばだが。


 だから、エーリング湾のベースキャンプにいた数十人の人間達が気にしていたのは、その『黒い虎』のわずか三つの特徴だった。


 一つは、『それ』が北方アムールに生息する最大種の虎にも匹敵する巨躯であること。

 一つは、『それ』の毛並みが黒晶オニキスのように美しい純黒であったこと。


 そして――もう一つは。

 『それ』の眼球の代わりのように頭部中央に一つだけ、四角錐のように尖った結晶体が生えていたことだ。


 誰も、何も言わない。


 ジリジリと熱気が喉を焼く。亜熱帯の湿度が結露けつろして玉の汗に変わる。

 小熊民間人だけでなく、精鋭の軍人達ですら動けなかった。る一頭の獣だけが迷いなくゆったりと一歩ずつ距離を詰めてくる。


 だから。

 自ら緊張を破ることができたのは、二百名の命を預かる覚悟をしていたその男だけだった。


「――総員、構えろ。静かに。手元に小銃のある者は前へ。よく狙え」


 フレデリック・リュドワー。

 フランス出身の熟練の大佐は無線機を引き寄せて告げたが、彼の低い声は電波を通さずとも夜の砂浜によく響いた。


 小熊が横目に見た彼の表情は険しいが冷静だ。国際情勢さえ左右する部隊を預かった総指揮官としての決意が、彼の双眸そうぼうと言葉に力を与えていた。


 一秒、二秒、三秒。

 十五秒。


 永遠にも思える時間が過ぎ、エーリング湾の全員にリュドワーの指示が浸透し、思考力を取り戻した頃を見計らって。


 五十メートルほど近くまで迫った奇妙な獣に、彼は腕を振り下ろした。


撃てファイアッ!!」


 パババッ!! と空気を引き裂くような音がすぐに絶え間なく連続する破裂音に変わる。手元に自動小銃を抱えていた国連軍の軍人は十人足らず。だが米軍に制式採用されたM4カービンは一分間で900発の5.56mmNATO弾をマッハ3で叩き込む。


 何発かが硬い骨に弾かれようが関係なく、横薙ぎに降り注いだ銃弾の雨が黒い獣を貫いていく。どれほど不気味な姿をしていても、その獣は亡霊ではなく生物だったらしい。


 あっけなく。

 百発以上の弾丸を全身に撃ち込まれた『黒い虎』は地に倒れ伏した。


「射撃停止! ……未確認生物を識別名『黒に潜む虎ハーミット』と暫定呼称する。組織サンプルを採取しろ。小銃持ちは周囲を警戒。残りの者は武装を回収し、早急に調査船へと撤退しろ」


 無線機を掴んだリュドワーの冷静沈着な指揮に、エーリング湾にいた七十名近い人員は研究員すら含めて落ち着きを取り戻し始めていた。

 小熊もその一人だ。


 アンジェリカ達第一次先遣隊の安否は気がかりだ。

 だがまずは、この場の安全を確保しなければならない。


 ありとあらゆる未知に囲まれたニューミッドウェーという島にあっても。優れた指揮官の存在によって、七十二名の上陸者は統率とうそつされた集団としての動きを取り戻しつつあった。


 だからこそ。

 もしも彼らの様子を俯瞰して眺める誰かがいたなら、次にやるべき事はどこまでも明白だっただろう。


『リュ、リュドワー総指揮官! 熱反応が、近くに!』


 無線越しに、観測機材の前でサーモグラフィを眺めていた女性技師の叫びが木霊する。だが小熊にもリュドワーにも、彼女が叫んだ言葉の意味までは理解が間に合わなかった。


 誰もが見ていた一頭は撃ち殺した、だが。


 『黒に潜む虎ハーミット』。

 その毛並みは、夜に溶け込むには最適な保護色ほごしょくではなかったか。


「ぎッ、が……」


 小熊のすぐ後ろに立っていたリュドワーが、呻き声を上げてよろめく。


 その首筋には、鋭い爪と牙が深々と突き立っている。

 二頭目の『黒い虎』は、背後から音もなくリュドワーの頸動脈を抉っていた。


 死の寸前、リュドワーは護身用の拳銃を抜いていた。自分の人生が残り一秒だと自覚しながらも、彼は三発の銃弾を襲いくる獣の腹に撃ち込んだ。


 それで終わりだった。


 砂浜に押し倒したリュドワーの首が、獣のあごに異音を立ててへし折られる。

 水気を帯びた生肉の咀嚼音そしゃくおんが響く。


 銃を抱えて振り向いた数名が、夜間だというのにほぼ正確に二頭目の『黒い虎』の胴と頭を撃ち抜いた。『黒い虎』への報復には十秒とかかっていない。

 彼らの卓越した射撃技術は疑いようのないものだっただろう。


 それでも、リュドワーは死んだ。


 そして。

 絶命した総指揮官を見つめる軍人達の背後にも。


 夜と同化した漆黒の虎が、幾頭いくとうも浮かび上がっていた。


 直後。

 ニューミッドウェー国連派遣調査隊の秩序ちつじょは、完全に崩壊した。


「「「ッぎ、ぁああぁあああぁあああぁぁああああああッッッ!!!」」」


 一斉に上がった絶叫は、総指揮官が倒れた絶望よりも、手足や胴を噛み千切られた者の悲鳴の方が大きかった。


 一流の軍人は戦友の突然の死に泣き叫んだりはしない。

 だが自分がもう死ぬとわかったのなら、苦痛の叫びを堪える必要もない。

 それが研究者や技術者ならばなおさらだ。


 重なる悲鳴は止まない。散発的な銃声が響く。調査船カルネアデスの船上から投光器フラッドライトが照らされ、しかし照射範囲外に逃れる『黒い虎』の姿をより濃い闇で覆い隠しただけに終わる。


 野生動物の大規模な群れは確かに恐ろしい。

 黒い体表の隠密性、夜行性の夜目、音も立てず砂浜を駆ける機動力も脅威的きょういてきだ。


 だが何より異常なのは、その飢餓きがだった。


 『黒い虎』は、異常なまでにえていた。

 同類が目の前で射殺されようが意にも介さず、己の体躯たいくに何発銃弾を撃ち込まれようとも獲物の肉に食らいつくことを最優先する。


 恐怖などない。

 野生動物としてあるべき、死を忌避する本能さえない。


 ニューミッドウェーに集った軍人達が死なないために最適化された軍人ならば。『黒い虎』は生存本能という最も原始的なルールさえ忘れてしまった、生物とすら呼べない怪物の群れだった。


 狩猟が始まる。

 戦争にすらならない、一方的な人間狩りマンハンティングが。


「は、あ……っ?」


 悪い冗談のような光景に、小熊の思考が黒くつぶされていく。


 我先にと調査船に伸びる架橋タラップや上陸ボートを目指す人々が、背後から食いつかれて血飛沫ちしぶきき散らす。小銃を拾い上げて二頭に応戦した歴戦の軍人が、四頭の『黒い虎』にむらがられて砂浜に沈む。


 闇から闇へと跳躍する『黒い虎』は最低でも二十頭、あるいは百頭以上いるのではないかとも思えた。悠長に数える余裕などあるはずもない。


 そのまま呆けていれば、数秒後には小熊も他の動く獲物を食い尽くした『黒い虎』の餌食となっていただろう。

 それを阻止したのは、小熊の腕を強く引いた一本の手だ。


「小熊さん、こっちへ」


 日本語だ。耳元で押し殺した声。

 

 闇夜に目をらす暇もなく、誰かは小熊のひじつかんで引いていく。

 右にも左にも『黒い虎』に襲われ、顔面や臓腑ぞうふを食われながら絶叫する国連軍の仲間がいた。

 だが、腕を引く誰かは見向きもしない。


 迷う事なく、調査船と逆の森林地帯へと足を速める。


「なっ、んで、森に」


「調査船を見てください。足は止めずに」


 小熊は肩越しに一度だけ振り向いた。

 海岸沿いの調査隊員を皆殺しにした『黒い虎』は、架橋タラップを駆け上がっていた。

 甲板からの銃撃で何頭かは海に落ちるが、五頭ほどが船上に辿り着く。


 それとほぼ同時に、電子制御の架橋が切り離された。

 それ以上の侵入を防ぐためだろう。どちらにせよ、血の海と化した海岸線に調査船へと回収できそうな生きた人間はほとんど残ってはいなかった。

 

 前へと向き直る前に、小熊は撃ち殺された最初の一頭の死骸を三頭の『黒い虎』がむさぼる光景を目にしてしまった。飢えた彼らにとって、噛み千切れる肉である限りそれが何であるかはどうでもいいらしい。


 前を向く頃には、闇に目が慣れつつあった。

 腕を引くのは国連軍の迷彩服を着た青年だ。腕章は日本国旗。

 彼は船旅の間に、日系人の小熊と早くから打ち解けていた若い自衛官だった。


 鵜山翔也うやましょうや。階級は二尉にい

 小熊は蜘蛛くもの糸にすがるように、彼の名を確かめる。


「鵜山さん……?」


「ええ。カルネアデスはもう無理です。視界の開けた入り江にいるよりは、入り組んだ森の方が隠れる余地よちがある。……生き残れる保証までは、できませんが」


 柔和ながら良い意味でエリート然とした生真面目な好青年だったが、今の表情は完全に強張こわばっている。


 まず間違いなく、小熊も鵜山も明日の朝を迎えることなく獣に食われて死ぬのだろう。あるいは死因は『黒い虎』ではなく、樹海に潜む正体不明の別の生物かもしれないが。


 樹々が立ち並ぶ森の入り口に数歩踏み入ると、他の人間の姿があった。

 男が五人、女が二人。

 小熊以外の全員が国連軍の迷彩服を着ている。


 先頭に立っているのは、怜悧れいりな眼差しをした中国出身の軍人だった。


 呉悠然ウー・ヨウラン

 『中国側が新島を占拠するためにクーデターを起こすとしたらこの女が司令塔』と噂が流れていたほど存在感のある、長い黒髪の女性大尉だ。


 だがクーデターを起こす対象は既に崩壊しているし、噂を小熊に教えたオランダ人曹長も先程『黒い虎』に食われていた。


 呉大尉は淡々と、


「最低限の食料と武装、装備は確保できました。ここにいる八名をニューミッドウェー調査隊の呉独立分隊ウーどくりつぶんたいとします。目的は生存。私が死亡した際は階級順に指揮権しきけんを引き継ぐように」


 それだけ言って、森の奥へと歩き出そうとする。

 背後では今も阿鼻叫喚の絶叫が聴こえ続けているのだから、急ぐのは当然と言えば当然だ。だがその前に小熊は一つだけ聞いておきたいことがあった。


「あの」


 八人の軍人が全員小熊を振り返る。

 進もうとしている先には、樹々の隙間に死の闇だけが満ちている。


「どうして、俺を?」


「あなたが民間人で。あなたが、ジャーナリストだからです」


 呉大尉は一秒も迷わずに答える。

 表情はなかったが、鵜山二尉を含めたこの場にいる全員が同じ目をしていた。

 拳銃すらまともに扱えない、誰よりも足手まといのはずの小熊に対してすがるような目を。


 末期のがん患者が、一冊の手帳とペンを見るかのように。


「世界に伝えてください。――このすべてを」

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