第一章 ニューミッドウェー・アイランド

第一章第一話 「第三次大戦前夜」

『――あと何分、俺が生きていられるかわからない。だから手短に話す』


 そのフレーズで始まる2分17秒の動画は後に『オグマ・データ』と呼ばれ、世界で最も有名なデジタルデータの一つになった。


 SNS上で公開された日系人ジャーナリストによる動画は当初、懐疑かいぎと嘲笑、混乱と罵倒ばとうに晒された。だが一週間も経つ頃には、主要国の首脳陣でこの2分弱の動画に目を通していない者は誰一人いなかった。


 画面に映っているのは鬱蒼と樹木の茂る薄暗い森林だ。

 一見するとシダ植物に似た亜熱帯の植生を思わせるが、わずかでも詳しい者なら映像に映るすべての植物がであることに気付くだろう。


 しばらくの間、周囲の植生を映しながらその異常さを語った撮影者はレンズを反転させて自身の顔と上半身を映す。黒髪にブルーシャツにスラックス。何の変哲もない容姿の上に、痛々しく血のにじ名状めいじょうしがたい傷痕と、絶望と恐怖に歪んだ表情があった。


『この島は狂ってる』

『全員死んだ』

『誰も来るな』

『備えろ』


 と、震えてかすれた声で告げる彼の言葉の中で、最も有名な一文がある。


あいつらはゼイ・シームドトゥ――世界の法則が違うみたいだったディファレント・ロウズ・オブ・フィジクス


 オグマ・ケイジ。


 命を賭してすべての「はじまり」を伝えた彼の名は、五十億人以上に知られたと言われている。


               ▽▲▽▲▽▲


 ――その二日前。


 小熊継次おぐまけいじは、第三次世界大戦が始まるか否かの最前線にいた。


 甲板の外では晴れ渡る青空に積乱雲がアートを描き、水平線まで続く広大な大海原は波飛沫が白く舞う。そして南国の潮風の奥にたった一つ、小さな点のような緑の島が少しづつ近付いてくる。


 真紅の大型調査船カルネアデス。

 そこは北太平洋の中心付近を航行する多目的環境調査船の甲板だった。


「ねぇ、オグマ!」


 会話を阻むスクリュー音は大きい。

 何しろ全長五十三メートル、排水量三千トンの巨体ながら20ノットで航行する大型調査船である。そこに波しぶきと海鳥の斉唱シュプレヒコールも加わる。


 それでも彼女の軽やかな声音はそれらを容易く貫いて、


「『あの島』の名前、もう決まったんだっけ? ネット上の国際投票とかで?」


「『フロンティアスピリット』、『ブルーオーシャン』に『ニューミッドウェー』。公海上の新島だからって勝手に非公式投票が盛り上がって本命候補が出揃っただけだけどな」


 ネイビーブルーのワイシャツにジャケットを羽織った小熊は、声の方へと向き直る。傍らに立っていたのは赤髪の若い女性だ。


 アンジェリカ・コールフォース。

 快活な笑顔としなやかな肢体の放つ生命力は輝く真夏の太陽に勝るとも劣らない。

 ただし鮮やかな赤い髪の似合う彼女が着ているのは制服、というより軍人向けの機能的な迷彩服だった。


  水着美女との一夏のバカンスとは近いようでマリアナ海溝並みの隔たりがある。

 何しろ大海原を眺める小熊とアンジェリカが嘆息する内容は、華やかな恋やビーチとは程遠いからだ。


「あはは、見てる側は気楽でいいよねー。現場じゃ国際的な領土問題になりかねないってお偉方までピリピリしてるっていうのに」


、か。まさか島一つで国連が派兵する騒ぎになるとはなぁ」


 周囲を航行する合計三隻の調査船団に搭乗しているメンバーのうち、およそ七割がアンジェリカと同じ立場にある。


 すなわち、国際連P合平和K維持軍F


 国連の要請に基づき加盟国の軍から募った精鋭が集う、名目上は世界の平和を守る正義の軍隊である。


 そして何故今回そんなものが組織されたのかと言えば。


 北太平洋。

 ユーラシアとアメリカの両大陸から見て中心付近に誕生した新たな島が、国際社会に大きな波紋をもたらしているからだ。


 第三次世界大戦前夜。そんな大袈裟な噂が流れるほどに。


「一週間前、公海上に一晩で現れた新たな島。つまり早い者勝ちの争奪戦で勝った国は二十二キロの領海と三百七十キロの経済水域、それに太平洋の中心っていう攻めにも守りにも使える軍事拠点が手に入るワケだしね」


「だからって普通、紛争でもないのに国連が軍を出すか?」


「大国同士で殴り合い始めてからじゃ遅いからじゃない? それに『観測衛星に噴火の痕跡も映ってない、浮上した直後からアマゾン並みの原生林がある不思議の島』だもん」


 アンジェリカと小熊が振り返った先、調査船カルネアデスの船上を見渡しただけでも国連のお偉方がどれだけ『あの島』を重視しているかは明らかだった。


 甲板を歩くのは中国出身の鋭い眼差しの女性大尉。フランス出身な金髪のベテラン将校。日本の自衛隊出身の青年情報士官。フィリピン出身の小柄な工兵。


 そして目の前のアンジェリカの肩には米軍出身であることを示す星条旗のマークが縫い付けてある。


 意図的でなければあり得ないほど、バランスよく国籍を散りばめた人員配置。

 さらには地質調査のために火山学や植物学の世界的権威と呼ばれる研究者まで乗り込んでいた。


 この『国連主導の地質調査プロジェクト』で大国や周辺国に波風が立たないようにと願うデスクワーカー達の苦労がしのばれるようだった。きっと彼らは胃薬が手放せないことだろう。


 小熊は思わず本音を漏らす。


「多国籍の地質調査チームを送って、なし崩しで国連名義の共同統治に持ち込ませる。そんな強引なシナリオが本当に上手くいくのかね」


「やらないよりはマシってこと。なにせ太平洋のド真ん中に新しい領土紛争の種ができたんだから。左右の大陸から空母艦隊が押し寄せてくるのをニュースで観たい?」


「いやまぁ。俺がそのニュースを撮る側なんだけどな」


 小熊は首から提げた黒と赤のネックストラップを持ち上げる。

 片方には撮影用の一眼レフが、もう片方には特定取材許可を受けた報道従事者としてのネームホルダーが吊られていた。

 オグマ・ケイジ。日本語と英語表記でそう記されている。


 この高価なカメラも小熊自身も、つまるところ国際情勢を迅速に公表するための機材である。『大国同士は殴り合わない程度には仲良しで、世界大戦なんて起きません』とぎこちない笑顔で肩を組ませ、胡散臭うさんくさい集合写真で世論を安心させるための。


 アンジェリカは呆れたように肩をすくめ、


「こんなところまで来るなんて変わり者だよね。状況次第じゃ本当に銃撃戦になるかもしれないのに。戦場カメラマンってわけじゃないんでしょ?」


「十中八九は何も起きない、ほとんどバカンス旅行だろ。それに――この手でビッグニュースが撮れるなら、俺は死んでも別にいいさ」


「わぉ」


 アンジェリカに目を丸くされ、小熊は肩を竦める。

 若気の至りと言われれば返す言葉もない。だが偽らざる本音だった。


 ジャーナリストという職を志した者なら、歴史的瞬間を世界に報じる権利は誰だって喉から手が出るほど欲しいだろう。

 ましてや小熊には拭い切れない憧れがある。


 命を賭けてでも、ニュースで人を救えるジャーナリストになる。

 そんな幼い夢は随分前にほこりかぶってしまったけれど。


 ただし、そこで返ってきたのは予想外の共感だった。


「でも、ちょっとわかるかも。私も誰かのためなら死んでもいい、って思ったから軍人なんてやってるんだし」


「なんだって?」


 海を眺めてそっと呟くアンジェリカに、今度は小熊が首を傾げる番だった。


 アンジェリカは船上で知り合った数少ない話し相手だが、まだたった五日間の船旅だ。互いに深く知っているとは言いがたい。志願制のアメリカで職業軍人という生き方を選んだからには、それなりの理由があるのかもしれない。


 だが彼女はまだそこまで打ち明けるつもりはないようだった。

 話題を切り換えるように小熊へと振り返り、茶目っ気のある笑顔を浮かべる。


「さっ! オグマもいつまでもサボってないで、そろそろ今日の取材に船内で七カ国語のインタビューでもしてきたら?」


「――片言のヒンディー語よりは、相手の英語力かスマホの翻訳に頼った方がいいかもな。それじゃ、またランチの時間に」


「今日は豪華なチーズバーガーだって。子供の頃ママがよく作ってくれたんだよね、楽しみ!」


 無理に食い下がって、できたばかりの友人に嫌われるのも避けたい。

 帰路も含めればあと二週間近くは同行する旅路だ。また尋ねる機会もあるだろうと、小熊は頷いて甲板に背を向けた。


               ▽▲▽▲▽▲


 その日の夜。


 五日目の航海に入ろうかという調査船カルネアデスの甲板で、小熊は十本目の煙草をふかしていた。小熊がヘビースモーカーなのは退屈な寿命を少しでもスマートに削るためだ。理由が理由なので同じ喫煙者とすら話が合わない。


 誰かと顔を合わせている時はともかく、こんな夜にはそうでもしないと幼い頃の記憶が蘇ってきて堪らなかった。


 ――夜の倉庫に響くマフィア達の怒号。

 ――大勢の足音。撃ち放たれる銃火の轟音。誘拐された子供達の泣き声。

 ――「もう大丈夫だ」と笑いかけるジャーナリストの握るカメラ。


 ――自分を庇って撃たれた胸が、赤く染まる光景。

 ――力強く抱き締める腕から、失われていく体温。


「やめろ。今考えることじゃない」


 小熊は軽く頭を振って、断片的なフラッシュバックを振り払う。


 カメラを握る理由はあの日から変わらない。

 例え憧れに近付けなくとも、どれだけのリスクをはらんだ仕事だったとしても。

 この仕事を辞めることだけはありえない。


「ん?」


 だから。


 夜の甲板からうっすらと見えたその影に小熊が抱いた最初の印象は、大抵の人間よりも軽いものだっただろう。水平線沿いの影の正体が本当に『その島』だったのかさえ判然としない。職業柄、視力には自信のある小熊でもだ。


 それでも小熊は寒気に身を震わせ、煙草の火を潰して自室に戻って寝ることにした。そして寝る前にスマホを一度だけ開く。


 結果として。これ以降に起きたすべての出来事への最初に鳴らされた警鐘は、SNSの小熊の個人アカウントで呟かれた次の一文となった。


この島は、どこか奇妙だディスアイランドイズ・ダン・ディファレント』。

 

 預言者、あるいは狂信者じみた警戒心があればこの時点から間に合ったかもしれない何らかの対策は。しかし当然、世界の軍事的、政治的、経済的、心理的なあらゆる領域において一切、行われることはなかった。

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