3-12
「…………」
「ストを起こすぐらいで済ませてもらったんだって思えよ? 下手すりゃ離婚して母親を辞められていてもおかしくなかったんだ。わかってるよな?」
「……わかってるよ」
藤堂がガリガリと後頭部を掻いて、ため息をつく。
「……そういえばお前、昨日のカフェでも、『いただきます』をしてたな」
「どこでも、どんなときでも、食事の前には必ずしてるよ」
自慢げに言うことでもないけどね。
僕だって一年前、一陽さんに――『稲成り』に出逢ってなかったら、そういったことを疎かにしたままだったと思う。
食の大切さを知れたのは、かかわるすべてに感謝をすることができるようになったのは、一陽さんのおかげだ。
「そっか……」
藤堂が再度深くため息をついて、僕を見た。
「……悪かったな」
「そう思うならお袋さんを大切にしてやってくれ。僕は、もうしたくてもできないから」
どうか、僕のようにできなくなる前に。
その言葉に、藤堂が「それって……」と目を見開く。
しかし同時にダイドコの扉が開く音がして、僕らはハッとしてオクへと視線を走らせた。
「まかないだ。簡単なものだが、よかったら食べて行ってほしい」
二人が大きな持ち手つきの脇取盆を持って戻って来て、座卓の横に膝をつく。
「まかない……? で、でも、まだ部屋を出て行ってから五分ぐらいしか……」
「もともと準備はできていたんだ。いつもなら、もうまかないを食べている時間だからな。メニューも朝営業の残りものがほとんどだ」
メニューは、余ったごはんで作った塩むすびに同じく残りもののお味噌汁。にしん茄子、冬瓜のくず煮に塩鮭。玉子焼きだけは、今作ったもののようだった。
「あれ……?」
一陽さんが玉子焼きが二切れ乗った藍色の小皿と翡翠色の小皿を、全員の前に並べる。僕は思わず首を傾げた。
どうしてわざわざ皿を分けているんだろう? 一つの皿に四切れ乗せればいいのに。
しかしすぐに、双方の皿の玉子焼きが微妙に色が違うことに気づく。
もしかしてと思った瞬間、僕の隣に座った一陽さんが藤堂の前の皿を手で示した。
「玉子焼きは二種類ある。試してみてくれないか?」
「え……? た、試す……?」
「ああ。君の感想が聞きたい。正直な気持ちを教えてくれないか?」
「俺の……正直な気持ち……?」
意図を図りかねてだろう。藤堂が、ひどく困惑した様子で一陽さんの言葉を繰り返す。
しかし逆らう気はないのか、おずおずと両手を合わせて小さく「いただきます」と言い、玉子焼きに手を伸ばした。
続いて僕も、「いただきます」と両手を合わせて頭を下げて、玉子焼きを口に運ぶ。
まずは、藍色の小皿の玉子焼き。続いて、翡翠色の小皿のそれ。
「……!」
チラリと隣を窺うと、その視線に気づいた一陽さんが、そっと唇に人差し指を当てる。
僕は無言のまま頷いて、箸を置いた。
藍色の小皿が、『稲成り』の――一陽さんの作った玉子焼きだ。いつもの食べ慣れた味。味つけは砂糖と塩、少量の薄口醤油。玉子の黄色が鮮やかで、ザルで濾してから焼くから、舌触りがとてもなめらか。
翡翠色の小皿の玉子焼きは、おそらくご婦人が作ったのだろう。僕は食べたことがない味だった。おそらく味つけは、白だし少々に醤油、そして多めの砂糖だと思う。しっかり甘くて、最後にそっとお出汁が香る。巻きも、ふんわりと柔らかめの一陽さんに対して、お弁当に入れても崩れることがないであろう――密度が濃い感じだ。
「どうだ?」
一陽さんに問われて、藤堂が顔を上げる。
「ど、どっちも、すごく美味しいです……」
「そうか」
「あの、でも……ええと……俺はこっちが好きです」
そう言って、翡翠色の小皿を指差した。
「俺の好きな味です……。その、甘くて……出汁の香りがして……」
本当に、『美味しい』の一言や、味の感想をあまり口にしてこなかったのだとわかる。それだけ言うのに苦労している様子の藤堂に、一陽さんが満足げに目を細める。
「そうだろうな。一番君の舌に馴染むはずだ。そして、心に沁みるはずだ」
「え……?」
「それは、君のお袋さんが作った玉子焼きだからな」
藤堂が息を呑み、翡翠色の小皿を見つめる。
「長い時間をかけて、家族のために作り上げられた味だ」
「お袋が……家族のため、に……?」
「そうだ。それぞ『お袋の味』というものだ。どれだけ名のある店に行こうと、どれだけ大金を積もうと、決してほかでは味わうことのできないもの――」
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