第10話

「お前……」

「抱いたりしない」

 サザノメの両手がエレツの胴をしっかりと抱きしめ、顔をエレツの胸の中に埋めた。

抱きしめたまま、サザノメは何も言わず、動こうとしもない。ただかすかな吐息が絹ごしに体に触れる。くすぐったいような、あたたかさをエレツはただ感じていた。

「あの女と何かあったのか?」

「女?」

 エレツは静かに尋ねるとサザノメが驚いて顔をあげた。

「お前、気がついてないのか」

「なんのことだ」

「オークは、女だぞ」

「そう、だったのか」

 くっとサザノメは喉を震わせて笑い、エレツの胸に再び埋めてきた。

「心配して損した」

「心配?」

「エレツがオークに食べられやしないかって」

「お前な」

 エレツは深いため息をついた。サザノメの言葉をいちいち真面目に受け取っていては身も精神も持たない。

「そんなことあってたまるか」

 エレツは口調を強めて言い返した。

 いくら茶化しても自分は立派な男である。体格差から考えて、オークに襲われるなんてあるはずがない。

「もう、勝手にいなくなるなよ」

「……ああ」

「エレツはすぐいなくなる」

「子供じゃないんだ。そこまで心配することはない」

待っていたがサザノメは反論をしなかった。見るとエレツの胸の中で寝息をたてはじめた。タヌキ寝入りかと思ったが、本当に寝てしまったようだ。

なんだかんだといって疲れていたのだろう。

 今日一日中、走りまわり、人の影に怯えていた。そのすべては自分を守るためだということをエレツは知っている。無論、それがサザノメ自身の身を守るということも意味するが。

 恐怖から自分たちは逃れきっていない。だというのに自分の胸の中で眠るサザノメには恐怖の色はない。それだけ安心しているらしい。オークの家にいたとしても、危機が去ったことにはならないし、獣として類稀なる五感を持っていたとしても、ここまで安心するのはない。

 だが自分がいるとすぐに寝てしまった。それは自分のことを信頼している、ということなのだろうか。

 自分の上にあるぬくもりをエレツは恐る恐ると抱いてみた。

 上下する暖かな肉体は確かに生きているものだ。

 あたたかさは今、腕の中にあった。


★ ★ ★


 翌朝、エレツはやはり夢も見ないほどに深く眠りから覚醒した。

胸の中にサザノメがいなかったのに疑問に思って視線を彷徨わせると、ベッドの傍らには黒い犬が丸まっていた。その背中を撫でると、サザノメが欠伸を噛み締めて眠たげな目を向けてきた。

「おはよう、朝ごはんできるよ!」

 ドアがノックされてオークがはきはきした声で告げるのに二人は部屋を出た。昨日は足を引きずって、歩くのも難儀そうにしていたというのに今は活発に狭い部屋の中を歩き回っていた。

 狭い室内には小さな窓がついていて、そこから太陽の光も情け程度にしか入らないが、エレツはようやくはっきりとオークの顔を見ることが叶った。ふっくらとした頬肉は、確かに女性特有のものであった。

「さぁ、ごはん、ごはん」

 そう言ってオークは椅子に座るようにとエレツを促した。テーブルの上には焼いたトーストとスープにソーセージが皿の上に乗っていた。

「ほら、サザノメにも」

 オークは先ほど出来たばかりの米と細かく切った肉を混ぜ、狐色のこげめが出来るまで焼いたものを皿に載せて、床に置いた。サザノメは嬉しそうに食べだすのにエレツも椅子に腰掛けた。オークは二人分のコーヒーを淹れたカップをもって、エレツの前に腰掛けた。

「どうぞ。コーヒー」

「ああ」

 カップを受け取りながら、エレツはオークの姿を見た。着ている服は昨日と同じく粗末な男性物で、髪の毛も鳥の巣のように爆発し、眼鏡をかけている顔は男とも女ともつかない印象を人に与える。

 しかし。

窓から差し込まれた祝福の銀の輝きにうっすらと照らされた顔は、そばかすが愛くるしい女性であった。

「なに?」

「いや」

 オークがあえて隠していることを口にするほど、エレツは無遠慮ではなかった。

 無言で食事を開始した。


「ここから、真っ直ぐに抜けると誰にも見つからずに街に行ける筈だよ」

 そろそろ出発すると口にしたエレツにオークはわざわざ見送ると申し出ると、家の裏手にある道を案内してくれた上に、途中のねじれた木の前で立ち止まると左手にある道を示した。

「太陽が沈む方向に歩けば、絶対に抜けられるようになってるから」

「すまんな。ここまで案内させてしまった」

「いいよ。運動しないと……あと、これをどうぞ」

 オークは片手に持っていた麻袋をエレツに差し出した。てっきり、それはオーク自身の荷物だと思っていたが違ったらしい。エレツが受け取って中身を見ると、食料がはいっていた。

「水とかパンとか、とりあえず、保存の効くものばかりだよ」

「しかし、これは」

「いいんだ。自分の分はちゃんと残してあるからさ。村を避けるとしたらここからしばらくは何も手に入らないよ。遠慮しないで」

「わかった。ありがとう」

「どういたしまして」

 オークはエレツの足元にいる黒い犬に手を伸ばすと最後の別れを惜しむように、ふわふわの毛を撫でたあと口元に笑みを浮かべた。

「また、チャンスがあればめぐり合えるよ。僕たち」

「そうだな」

 エレツはサザノメに目配せして歩き出した。オークの撫でてくる手を心地よさそうに目を細めていたサザノメは少し遅れて慌ててあとを追って早足に歩き出した。

 冷たい土を数キロも歩いたところで、サザノメは獣から人の姿に変わった。その変化は何度か見たと思うが、エレツはつい見入ってしまう。今まで四本足で歩いていたはずの黒い犬が、気がついたら黒い衣服に二本足で立っているのだ。驚くなというほうが難しい。

「ねぇエレツ」

「なんだ」

「これ、飲まない?」

 サザノメがエレツの顔の前に差し出してきた黒い粒をエレツは怪訝とした顔でみた。

「これは、まさか」

「オークのところからくすねてきた」

「お前……」

 いつの間にと呆れてしまった。

「オークはとってもいいって言ってたし。エレツ、飲んでみないか?」

 エレツは無視を決め込んで、無言で歩いていくのにサザノメは舌打ちした。

『そういうのは食事に混ぜればいいんだ』

 サザノメとエレツの頭上から声がした。

 見上げると、更が降りてきていた。

会ったのは一度きりだが、どうも、この精霊に対してサザノメは苦手という意識が拭えない。

 いきなりあらわれても当然のように会話に参加しているところをみると、どこからか自分達の行動を見ていたようだ。

 しかし、今の言葉はエレツを敬い、果ては初対面のサザノメと敵対した者の言葉とは思えない。

「いいのかよ、そんな助言して、お前」

『エレツに害がないならばな』

 更はしれっと言い返す。

 更にとっての害というのは、エレツを精神的、肉体的に傷つけることである。このような面白いことはいいらしい。

普通、獣になる薬は十分に害があると思われるが。

「けど、言ったら、エレツ食べ物とか警戒しそう」

「するだろう。普通は」

 深いため息をついてエレツは言い返した。自分の連れはどうしてこうも薄情でおもしろいもの好きなやつばかりなのか。

「エレツ」

「なん」

 エレツは振り返ったとき、言葉は続かなかった。

 サザノメに唇が奪われたからだ。言葉を奪うキス、生暖かい舌がエレツの口の中を犯した。そのときに何か異物が口の中に流し込まれるのをエレツは感じたが、抗うことはできなかった。

 サザノメがゆっくりと顔を離すと、人の悪い笑みを浮かべている。

「お前、何を」

「薬飲ませてみた」

「お前……!」

 叫びのような怒声はあとが続かなかった。

 正確には続けられなかった。エレツが今まで着ていた衣服や荷物が地面に落ち、そのなかに残ったのは黒い毛に覆われた犬であった。逞しい犬は、自分の身に何が起こったのかまるでわからないといいだけに、その場に惚けたように座っている。

「本当に犬になった!」

『ほぉ!』

 無責任な原因と薄情な精霊が同時に驚いた声をあげるのに、ようやく黒い犬は我を取り戻すと顔をあげて二人を睨みつけた。

 エレツが睨み威嚇するように声をあげるが、サザノメはまったく気にしない。犬の低く鳴く声は威嚇というよりは、切なく助けを求める声のようであった。

「かわいい、かわいい。エレツ」

 サザノメはエレツの頭を撫でながらにこにこと笑う。

『だが、獣の姿で移動はどうするのだ』

「俺が荷物を運ぶさ。人に戻るまでは諸々の手続きは俺がすればいい」

『では任せたぞ』

 エレツが犬の姿になったこと、今後の心配がなくなったことに更は満足したように、再び消えた。

「まぁ、エレツがいないほうが何かとラクなんだよなぁ」

 地面に落ちた荷物を拾いあげて一つにまとめながらサザノメが言うのに、黒い犬はくぅんと鳴き、その黒曜石のような瞳が、じっとサザノメを見つめていた。

「どうした、エレツ。言葉は発せないわけじゃないだろう? 言いたいなら言えばいい」

「……俺は、邪魔か」

 犬の気管は人のものとは大きく異なっているせいか、発された声は、いつもよりもたどたどしく、聞き取りづらいが、ちゃんとサザノメの耳に届いた。

 犬が頭を垂れ下げる。

「……ぷ、ははは。いや、まぁね。ただお前がいじめられている姿を見るのがいやなのさ。まだ死なないのにいじめられてちゃ損だろう」

 それが村人たちにされたことを言っているのだとエレツにはぴんときた。

村から離れたといっても、いつ何時、人と接触することになるかはわからない。エレツの見た目は大きく目立つ。それも村人には今頃は黒い犬と黒い衣服の男として知られているはずだ。今のサザノメとエレツはそれに該当するが、サザノメの人の姿は村人たちには知られてはいない。彼らの目をかいくぐるにはこれ以上安全な方法もない。多少、いや、かなり乱暴であるが。

 エレツはじっとサザノメを見つめた。

「昔は違う名前を名乗っていた。ここから先の街の人間は俺の顔は知らないから大丈夫だ」

「そうなのか。俺も違う名前はある。一緒だな。なんて名前なんだ、お前のは」

 サザノメはまとめた荷物を背中に背負うと尋ねたのにエレツは悩むように視線を彷徨わせた。サザノメはかがみこむと、エレツのふわふわの毛を撫でた。

「お前の名前と交換なら教えよう」

 サザノメはエレツの問いに沈黙し、笑った。ただでは何も手に入らないらしい。

その名前を明かすことをサザノメは躊躇わなかった。出来ればエレツ以外には知られるつもりもなく、そっと獣耳に口をおしあてた。

「……ガルム」

 サザノメは小さな声で、囁くように呟いた。聞こえているのかと危ぶむほどの囁きにエレツは満足したように口を開いた。

「グレイス」

 エレツからはっきりと告げられた名前にサザノメは頷いた。

「かわいい名前じゃないか。ただし、俺の名前は滅多に呼ぶなよ?」

 その名前の持つ意味をサザノメは思い出して念を押すとエレツは返事のかわりに黙ってあたたな舌でサザノメの頬を嘗めた。

「さて、行こうか」

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