第3話

 唸るような暑さを与えていた太陽が大地に飲み込まれ、空は光を喪う代わりに紺碧色に染まった。

 昼間に太陽の容赦なく照りつけてくる日差し、からからに乾いた空気と大地を夜になるとかわりに優しく照らすのは星と月、そして大地に生きる人々の生活の灯火だ。

 この時間帯は一日の肉体労働を終えた男たちが手に入れた僅かばかりの報酬を持って酒場に繰り出すと相場が決まっている。

 いつものように旅の吟遊詩人が歌を謳っている。

 創書によれば大地が割れて精霊と魔の戦に終始が打たれ、それぞれの精霊が力をもって六つに割って生まれた島々。

 精霊たちは特別に愛を注ぐものとして自分たちとよく似た生物を作ることを切望した。そして、生命をもったものたちが島に生まれ、知識を持ったものがあらわれた。

 精霊が特別に愛し、精霊の次に特別な存在と位置付けた生き物。

 それが人間――朗々と歌は続く。

 謳われたように六つある島の一つで北に位置するのがここ、砂漠地帯である灼熱と火炎の国<フルマル>だ。

 食事は朝と夜の二回のみで、労働階級の場合は自炊ではなく、街のあちこちには路上店で済ませてしまうのが日常だ。軒を連ねるテーブルには料理を並べられ、こうばしく食欲をそそる香りが広がる。それと同じく酒場という酒場はエールと男たちの歌う陽気な雰囲気が包まれる。

 夜が明ければまたしても辛い労働が待っているのだ。ささやかな自由な時間を彼らは惜しむように大切に、辛い仕事の時間を忘れようと努めて楽しく振舞うことに余念がない。

 『朝の宴』と、このさして大きくない街に一軒だけある食堂兼酒場はいつものように陽気に満たされていたが、その離れたカウンターの隅に男がいた。

 歳は決して若くはない。それなりに整った顔立ちをしているが、人目を引くほどの美貌というわけではなく、不可もなく可もなくという顔立ちだ。艶のない黒髪に黒い瞳は他人が近づくことをどこか拒絶していた。

 一般の男たちよりもずっと高く、逞しい肉体を黒い衣服に包み込み、酒場のカウンターの端にひっそりといると、無闇に声をかけることも躊躇われる雰囲気だ。

 街に住む者は旅人から何かしら新しいことを聞くことを楽しみにしているもので、あきらかに旅人風の男に労働者の何人かが声をかけたが、それも無駄な苦労に終わった。男は無礼ではないが、無口なタチで労働者が知りたいと思う娯楽話は数分話しただけで望めそうもないことがわかると、すぐに興味をなくして今は酒と歌にと大忙しである。

「飲むの、楽しい?」

 不意に男の背に声がかけられた。男が顔をそちらに向けると、黒髪の男が笑って立っていた。片目は革作りの眼帯をし、軽装だが旅人らしい。若い顔には幼いときのやんちゃさが色濃く残り、溌剌とした面持ちだ。

「俺はサザノメ、あんたは?」

 少しだけしゃべりなれない、訛りのある言い方だ。いくら男が剣呑な目で睨んでもどこ吹く風で、にこにこと笑って名乗るように促してくる。

「エレツ・ヴァダール」

 愛想のない返事をするエレツに対してサザノメは断りもなく横に腰掛けてきた。

 サザノメの片手に握っている木のコップにはエールがまだ半分ほど残っていた。

 サザノメの一つだけしかない黒い目が、何かを探ろうとするようにエレツを見つめてくる。

 エレツはあえて無視を決め込んだ。サザノメはそれを許してくれるつもりはないらしく、陽気に言葉をかけてきた。

「旅の、人?」

 六ツ邦では、それぞれの国の言葉があるが、すべての国で使われる共通語である。サザノメが使うのは、その共通語だが、発音がとても悪く、片言だ。

 エレツはついサザノメに視線を向けた。華奢だが筋肉が最低限についた肉体、肌は焼けているが灼熱と火炎の国<フルマル>の者としては白いほうだ。

 灼熱と火炎の国<フルマル>の出身ではないが、他国から来たのだろうか。――しかし共通語も満足に使えない男が一人で?

 エレツは不思議そうにサザノメを見つめて頷いた。

「ああ」

「どこに、いく?」

「いろいろだ」

 人を拒むようなエレツの態度をサザノメは気にとめないようだ。

エレツの不躾な視線に、人好きする、そして他者によく見られることを考えられた社交的な微笑みを浮かべた。

思わずエレツはサザノメから視線を逸らしてしまった。

「俺も旅をしていて……あんたみたいにいろいろと知っていて、旅をしている人とお近づきになりたかったんだ」

「一人か?」

 サザノメは鷹揚に頷いた。

「この国ははじめてか」

 エレツの問いにサザノメはまた頷いて肯定する。

「熱い」

「灼熱の火炎の国<フルマル>だからな」

「ひーくに?」

 サザノメは慣れない言い方をして首を傾げたあと

「砂だけだった」

「この国は……ほとんど雨は降らない、唯一の川であるサージャル<精霊の涙>、オアシスぐらいか……ここは精霊の剣から近いからときどき雨は降るし、緑はあるが」

 エレツは片眉を持ちあげて言い返すとサザノメはやはり困った顔をした。エレツの言葉の半分も理解できていないらしい。

「カ・ダレ」

 サザノメの口から洩れた言葉はエレツの知らない言葉だ。

「……どこの国の者だ? 多少だが、他国の言葉を俺は使える」

 エレツの申し出にサザノメは曖昧に首を傾げて見せた。

 その反応にエレツがかすかに目を眇めたのにサザノメは腰から素焼きの壷を差し出した。

 受け取るべきか迷っているとサザノメが目で飲んでもいいと語る。言葉は不自由だが、それ以上に表情が豊かなので十分に伝わってくる。

 一人というのはわけあり、だろうか。

 気になったがエレツは詮索しないことに決めた。自分もわけありなのは同じだ。

 エレツは壷を受け取り、蓋を開けて鼻に近づけた。するとブランデーの濃厚な香りが鼻腔をくすぐった。

「飲んで」

 エレツは壷に口つけて一口煽った。

 ブランデーの甘い味が口いっぱいに広がり、濃厚な味によって満たされる。口から呼吸することが惜しく、鼻からゆっくりと息を吐いた。

「うまい」

 つい口元が綻んで微かに笑って告げるエレツの素直な感想にサザノメはひどく嬉しそうに身を乗り出した。

「それ、あげる。かわり、おねがい」

「?」

「外に出てあるの。連れて行って。よろしく」

 まだ受けるとも、受けないとも言っていないというのにすでに決定したかのような強引な言葉だった。

 急ぎ足でサザノメはすぐに言葉を付け足した。

「次の街まで。この酒で十分? 旅の間は、あれを、好きに使って、いい」

 それだけ言い終わるとサザノメはテーブルに金貨を置いて立ちあがった。飲み代ではあまりにも高価すぎる支払いだ。

「多すぎだぞ」

 エレツが思わずつっこむと、サザノメは片眉をひょいと持ち上げて頭をぼりぼりとかくと、天井を見上げて、あーと気の抜けた声を漏らした。

「エレツ、のも、払っとく」

「それでも多すぎだ」

 エレツが呆れて言い返すとサザノメは眉を寄せて片手で額をこんこんと叩いた。なにか理解できないものに遭遇した態度だ。

「多すぎる」

 エレツが今度はゆっくりと告げるとサザノメは、ああとようやく頷いた。だが金貨をしまうことはせず、首をふるふると横に振った。それしかない、ということか、それとも支払いはこれでいいだろうということなのか、言葉がないのでいまいちわからないが、これでは店主が困るだけだ。

 まったく、どこの金持ちなのか。エレツは呆れた顔をして金貨をとると、サザノメの掌に置いてやった。

「俺が払っておく」

 サザノメは目を見開いてぱちぱちと瞬かせた。

「いつか、返す。あれのこと、よろしく」

「……お前ではないのか。その連れて行くというのは」

 エレツの問いにサザノメは笑って首を曖昧に傾げたあと片手をひらひらと振って陽気な酒場から夜の闇の中に消えた。エレツは一瞬だけ考えた。サザノメの頼みを聞いてやる義理などどこにもない。

『無視してもいいのではないのか?』

 遠慮がちな声がしてエレツはひょいっと目でやや右上を見た。

 姿を消しているが、旅の連れである精霊の更が心配してきて声をかけてきた。

 更の言葉は最もだが数秒迷ったがエレツは立ち上がり、酒場のドアを開けて外を見ると、闇の中できらりと二つの輝きが光った。

 金色の輝きはエレツを認めると近づいてきた。

 酒場の明かりが漏れている数メートル手前でそれは立ち止まった。目をこらしてみると、黒い犬がちょこんと地面におすわりしてエレツを見つめると、尻尾を振った。

 エレツがじっと見つめてばかりいると犬は再び立ち上がると、エレツの足元に擦り寄ってきた。

 エレツは無意識にも、その犬の頭を撫でていた。そうすると犬はくぅんと鳴いて顔をあげて生暖かい舌でエレツの手をぺろりと嘗めた。

 周囲を見回したが、他には何も居ない。どうやらサザノメが連れていってくれと頼んだものらしい。

 犬を連れて行くことは問題ないが、それはエレツが知る中でも、かなり大柄な中にはいった。

 長くふわふわの黒い毛に覆われた犬は成人男性の平均よりもずっと高い身長を誇るエレツの腰くらいまであり、しなやかな肢体は実に頑丈そうだ。金色の双方は鋭く、獰猛な肉食獣らしさを感じさせ、その見た目を裏切らない鋭い牙を持っていた。

 しかし、よく調教されているのか首輪や紐で繋げられていないが、エレツに飛び掛ったりすることはなかった。

 エレツが宿に向かうときは一メートルほど距離をとって犬はついてきた。

 宿の前で迷ったが、中にいれることもできずに犬を宿の前に置いておいた。首輪も紐もないのだから、つないでおくわけにもいかない。

 もし、これで犬がいなくなったとしても、エレツを責める者は誰もいないだろう。


 翌朝に目覚めて見ると、宿の主がしきりに困った顔を室内をうろうろしていたのに、エレツは声をかけた。

「どうかしたのか」

「なんか、黒い犬がいてね」

「犬が」

 言われてエレツは宿のドアから外を見ると、あの犬がいた。

 宿の端で身を丸めているが巨大なので、朝市に働きに出ている人々の視線を集めている。

「ありゃ、魔獣かね。大人しいようだが、どうしたもんだか……役人に頼むにも外にも出られないし」

「あれは俺の連れだ。今日、連れて行くから心配しなくていい」

「へ、そうなのかい。そりゃあ、よかった」

 あからさまに宿の主はほっとした顔をした。

 動物には時折、魔に憑かれて魔獣になるものがいる。見た目は普通の獣だが、中身が獰猛で、人を襲い殺してしまう。

 この犬がもし魔獣であれば、昨日エレツが手を伸ばして頭を撫でた地点で、簡単に腕くらい引きちぎられているだろう。

 犬はエレツが宿から出てくると待っていたとばかりに擦り寄ってきた。無碍にもできずにエレツは犬が付いてくることに任せた。

 犬は昨日と同じで一メートルほどの距離をとってエレツの行くのに付き従って歩いた。

 街を出てから背の低い草の生えた広い平坦な道を歩いていると、エレツの足に犬はじゃれるようにまとわりついてきた。

 犬の歩くスピードは速く、たびたびエレツを置いていってしまった。そのたびに犬は大人しく腰かけて退屈そうに尻尾を振ったりしてエレツの歩みを急かしたりしたが、それに応じてやることもなくエレツに自分のペースでゆっくりと歩いた。

 草の生えていた道から木々の生えたなだらかな坂道に差し掛かった。

 精霊の剣と言われる天へと聳え立つ山の根元は、山から流れる水のおかげで緑が豊富だ。

 小ぶりの山を越えると、本格的な岩砂漠になる。

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