黒い犬と血の剣

北野かほり

第1話

 月はなく、星すら見えない墨をたらしたような夜。

 風が、この世にあるすべてを切り裂くほど強い力をこめて、吹く。

 ざざぁあああと、木々が悲痛な悲鳴をあげる。

 この世の終わりのようだ。

 目を細め、闇しかない空に光はないかと探してみるが、それは無駄な努力だった。なにもない、すべての命が死んだようにすら思えてくる。

 生まれたときからちょくちょくとやってきている家の裏にある山なのに、こんなにもおどろおどろしい顔をすることもあるのか。

はじめて見たかもしれないという感嘆から場違いな愛情が胸に湧いてくる。

 祝福されているのかもしれない。

 そんなことが頭をかすめる。

 この地を出ていくかっこうの日だ。

 胸にある記憶の愛着を、強い風がすべて吹き飛ばし、自分の目的だけをただただ真っ直ぐに見据えることができそうだ。

「……何もかも捨てられる」

 口にしたとたんに、手先を切り裂かれるような激痛が、鈍く心を痛ませる。

 今日のこの日のために、永遠にも等しい時間を自分は生きてきた。世界というものから背を向けて底なし沼のような思考の世界に溺れて、必死にはいあがろうとしてここまできた。

 理論も、方法も、技術もなにもかも完璧だ。

 今日のこの日のためだけに、自分は生きてきた。

「ようやく……」

 悲願がかなう。

 震える声は風にかき消され、ただ笑みが零れ落ちる。

 成功、と決まったわけではない。失敗することもあるし、このあとももっと苦労するだろう。

 自分はスタートラインに立ったに過ぎないのだ。

 目的を、一度は不本意にも離してしまった手を、もう一度掴んで、今度こそ永遠を作り上げるために。そのためだけにここまできた。そして先へと進むためにここにいるのだ。

 かたい地面に、ナイフを取り出して一心不乱にそれを描く。出来上がったものに満足すると、最後の仕上げに自分の掌を突き刺した。ぽとぽとと大粒の血が零れ落ちていく。呼吸とともに、魔法陣が淡い青色に輝く。

 ――出来た。

 泣き笑いの顔で、魔法陣から、樫の木の立派な扉が現れる。

 これをくぐったら自分は多くのものを捨てる。

 この地には二度と帰れない。故郷、家族、思い出、執着……

「お前たちはどうする?」

 尋ねた声は少しだけ弱弱しくなっていた。風に、鳴く声が聞こえてくる。それは自分に寄り添い、とても優しま受け止めてくれる。

 それがますます自分を泣かせる。

 諦めた顔で、黙ってドアに手を伸ばす。


 なにもかも捨てる覚悟はある。

 永久を選ぶために。一度は離してしまった手をもう一度掴むため。自分はようやくはじまりにきたのだ。

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