第6話:千珠院家

 まず景信が最初に抱いた感情は驚愕だった。

 かつての家はごく普通のマンションだ――10階建てで最上階に住んでいた。

 この世界にビルのような高層建築物がないので、高いと言ってもせいぜいが3階建てぐらい。

 現実世界での景信の住居は1階建てだ。高さは確かにない、代わりにあるものが彼を唖然とするほどの規模であり、外観そのものだった。



「な、なんだこれ……これが本当に、俺が住んでた家なのか?」

「そうよ。まぁ、景信ちゃんにはもう記憶がないもんね……驚くのも無理ないか」

「いや、これはさすがに俺じゃなくても驚くでしょう……」



 唖然とする景信の視線の先には、広大な敷地の中にどっしりと構えている。

 日本古来の造りであるのは良しとして、外観はまるで武家屋敷をイメージさせる。寧ろそのまんまだといっても過言ではない。

 京都の御所ぐらいはあるんじゃないだろうか……記憶にある実在する場所と比較しても、同等はあるだろうと察した景信を更なる驚愕が追い打ちを掛ける。来客者と家の主をまず最初に出迎える門――なんて大きさだろうか、全長2メートル以上はある巨大な門を潜った先で景信は、ずらりと整列する群中にぎょっと目を丸くした。

 この人達は何者なのだろう、と思考を巡らせる間もなく群集が一斉に頭を垂れた。



「おかえりなさいませ当主様!」

「そして景信様! 退院おめでとうございます!」

「え……? こ、この人達は……?」

「安心なさい景信。この者達は私達千珠院家に仕えている従者の方々です」

「じゅ、従者……!?」



 メイドや執事など、存在こそあれど実物を日本で拝める日はやってこない……そう考えていた時期が景信にもあっただけに、よもや実家が従者をそれも100人以上も雇えるだけの金持ちだと知った彼の驚愕は収まるばかりか強まるばかり。千珠院せんじゅいんなどと大層な性を名乗ってるもののその実、家庭はどこまでもが平凡だった。

 父は一般企業に勤めるサラリーマンであるし、母は週3回のパートをしながら家事も担う主婦である。とてもではないがメイドなどを雇えるだけの金銭的余裕が我が家になかったことは、息子である景信がよく知っていた。


(俺……マジでこんなところで暮らしてたのか? 一気に貴族じゃねーか)


 何もかもが、今までと異なる生活に景信の肉体は拒絶に近しい反応を示している。

 もはや夢現がどうこうではなく、単純に突然貴族のような生活を強いられても慣れそうにないし、景信自身も堅苦しいことは望むところではない。

 記憶が健在だったころの自分は、はてどのようにこの家で暮らしていたのだろう……不安ばかりが募るのを抑えられないまま、景信は屋敷の方へと進んでいく。

 その間、虎美達が一所懸命に景信に声を掛け続けていた。



「――、それで景信ちゃん。ここから見えるあの建物は道場よ。あそこで私達や他のみんなも修練するの」

「あっちがウチらの住居で、んでこっちが従者の人達の住居って感じだから。ウチの部屋には間違ってもそうじゃなくても入っていいけど、従者ンとこだけはぜったいダメだから。そこんとこちゃんと守ってね?」

「あちらの建物が鍛冶場や倉庫となります。後は――」



 以前であれば庭同然に行き来できた我が家も、記憶のない景信には未知の世界に等しい。

 故に今後を考慮して少しでも彼が快適に暮らせられるよう、彼女なりの配慮だった。

 そして肝心の当事者である景信は、彼女らの言葉をほとんど聞いていない。

 言葉による情報よりも、視覚による情報がより新鮮で彼の興味を惹いていた。場所なんてものは何度か行き来さえすれば自然と身体が憶えるもの。今はそれよりも、自分がこれほどの大屋敷で暮らしていたことへの驚愕と関心から百面相よろしくころころと表情を変えながら景信は屋敷へと足を踏み入れた。


 そこでも従者に出迎えられて、現在いま――長い廊下を景信は母と二人きりで歩いていた。今から向かうのは景信が使っていた自室であり、記憶のない彼の案内役を彼女が務めている。

 木板を踏む二つの足音を交える中、不意に「ねぇ信くん」と先導する紫苑に呼ばれた。

 突然どうしたのだろう……怪訝な眼差しですたすたと歩く紫苑の背中を捉えつつ、景信はおずおずと応答した。



「な、なんですか?」

「……夢現乖離症候群むげんかいりしょうこうぐんは発症者の記憶を改ざんしてしまう。そうなってしまうと本来の記憶は完全に抹消されて、二度と戻ることはない……」

「…………」

「ねぇ信くん。やっぱり、私達が怖い?」

「そ、それは……」

「いいの、信くんの考えてることは多分わかってるし、その気持ちも否定したりしないわ。例え夢の中でも信くんにとっては大切な思い出ばかりだったのね。そうじゃなきゃ、ここまで抵抗感があるわけないもの」



 紫苑の指摘に、景信はどうしてよいかわからず口を閉ざすしかなかった。

 彼女の指摘は、とても正しい。そして今の口ぶりから察するに、夢現乖離症候群むげんかいりしょうこうぐんにも個人差があって、その重症度も内容次第であると景信は仮説を立てた。必ずしも幸せな夢ばかりとは限らない、それこそ現実世界での暮らしが如何に幸福だったかと思うほどの地獄を味わった者もいてもなんらおかしな話ではない。

 だとしたら、神様は相当意地悪な性格をしている。

 千珠院景信せんじゅいんかげのぶは元より信心深くはない。

 しかし自分の身に起きた不幸を誰かの所為にするには、不確定要素である神が都合がよかった。



「でも、私達は信くんの家族だから。どんなことがあっても、信くんがどんな風に私達を見ても絶対に手放したり見捨てたりなんかしないから――それだけは憶えておいてほしいかな」

「あ、か……か――」

「――、さぁ信くんのお部屋はここよ」



 立ち止まった場所はちょうど部屋の前だったらしく、扉をすっと開ける――外観が武家屋敷なのに、内観は意外と洋風染みている――母に、景信は黙ってその後に続いた。

 かつて使っていた自室と景信は向かい合う。

 広さは10畳ほどと、自室にしては随分と広々としている。広いと感じさせるのは、この部屋には驚くほど千珠院景信せんじゅいんかげのぶを象徴する物が置かれていない。ベッドに机と椅子、衣装ケースとあるのは必要最低限の家具ばかり。自室というよりかは客間としての印象に戸惑いを隠せなかった景信の視界に、ふとあるものが映る。


 それはこの殺風景極まりない自室において、他の誰よりも激しく自己主張していた。

 入室した者の視線を強制的に奪うほどの魅力があるとでもいうべきか、ともあれ景信はそれから目が離せずにいた。

 どうして自分の部屋に日本刀があるのだろうか……景信は台座に鎮座するそれにそっと触れた。


 黒い光沢がとても美しい鞘と朱の柄巻き。すらりと鞘から抜いて見やれば、美しくもどこかおどろおどろしい赤刃が露わとなる。それは焔のようであり、また血のようでもある。

 こうも色鮮やかな赤い刀身は現実世界では存在しないだろうし、少なくとも景信はアニメや漫画でしか見たことがない。

 どんな材質を用いればこのような鮮やかな赤を出せるのだろう、とこの打刀への関心もそこそこに景信はある疑問に直面する。


(なんだろう……この感じ。なんていうか……落ち着く?)


 それはまるで、失われた身体の一部を取り戻したかのよう。

 景信自身でさえも、胸中に湧く安心感を理解できずにいた。

 だが、決して悪い感覚ではない。小首をはてとひねりつつ、この謎多き打刀について触れないわけにはいかず、景信は後ろで見守っていた紫苑に事の詳細を求めた。



「この刀は?」

「それは名刀鬼哭啾啾きこくしゅうしゅう……さる名高い名匠が打った刀で、信くん……あなたの大切なものよ」

「お、俺の……?」

「――、信くんには説明しておかなきゃならないわね。信くんが……ううん、私達千珠院せんじゅいんの一族が何者であるかを」

「千珠院の……」


 千珠院――この大層な性には何か特別な意味合いがあるらしい。

 温厚な顔立ちに真剣みが帯びた紫苑に、景信は固唾を呑んで母の動向を見守った。


「――、信くんもさっき鬼は見たわね?」

「……えぇ、まぁ」

「千珠院は古来よりその鬼を狩る一族よ」

「鬼を狩る……」

「人間の魂は輪廻転生の輪に導かれてそしてまた新たな命となってこの現世に帰る……だけどその魂がいつまでも地上にいたら? 死んでいることすら気付かなかったら?」

「つまり、鬼っていうのは怨霊みたいなもの……?」

「厳密に言うと、死後現世に留まった魂が人間の負の感情を吸収し続けた結果、誰にでも視覚化できる悪霊――鬼となる。私達をはじめとする護祓士ごふつしはその鬼から人々を守ることを役目としているの」

「な、なるほど……」



 母の口から淡々と語られる千珠院が背負う責務とこの世界に敷かれた理は、どれも非科学的すぎて景信がこれまでに築いてきた常識を根底から打ち砕くものばかりだった。

 これではゲームやアニメのような世界じゃないか、そんな世界に自分は生きてきたのか……改めて思い知らされる驚愕の事実に、景信は言葉を失った。



「――、それと信くん。これからはその刀……鬼哭啾啾きこくしゅうしゅうを肌身離さず持っていなきゃだめよ?」

「え!?」

「ごめんなさい。だけど信くんも千珠院家の血を引く者である以上、鬼とは戦う宿命にあるの」

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! 俺、刀なんか振るったことなんかないですよ!?」



 景信は紫苑からの提案に強く否定の意志を示した。

 かつての千珠院景信せんじゅいんかげのぶなら、この刀を手に鬼と戦ってきたかもしれない。だが現在の千珠院景信せんじゅいんかげのぶにあの恐ろしい怪物――鬼と渡り合えるだけの技量も経験も一切がない。チャンバラごっこで木の棒をぶんぶんと粗雑に振り回す程度でやられるような敵でないのは、広場での一件で理解している。



「気持ちはわかるわ。だけど信くんのためでもあるの……どうかわかってちょうだい」

「そんな……」

「――、それじゃあお母さんご飯作ってくるわね。信くんはここでゆっくりと待っててちょうだい」

「あ……」



 退室する紫苑の背を、景信は手を伸ばしそうになって――ゆっくりと引っ込めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る