第3話:非現実的邂逅

 どのぐらい走っただろうか……そこは大きな噴水が目立つ広場だった。

 老若男女問わず、数多くの人がこの場所で思い思いにすごしている。

 彼らにとってここは憩いの場なのだろう。広場の一角、ベンチにて呼吸を整える傍ら、景信は目の前に光景をぼんやりと見やった。



「……夢じゃない、のかよ。ははっ……まったく笑えないっての」



 酸素の求める肺の苦しさも、喉の渇きも、すべて現実だった。

 古典的な方法なのは否めずとも、景信は自身の頬を力いっぱいに殴って視たりもした。

 むろん頬はじんじんと熱と鈍痛が帯びる――痛みがあるから夢ではない、とそう悟った景信は力なく項垂れた。


(これから俺はどうしたらいいんだよ……)


 景信にはもう帰る家がない――厳密にいうと、己が知る日本に帰れない。

 ここが本当の現実であるなら当然千珠院景信せんじゅいんかげのぶの本当の家族がいる。

 家族がいるのならば、景信には帰れる場所がある。しかしそう簡単に割り切れるものではないのもまた然り。

 記憶の改ざん――景信の記憶にあるのはどれもこれも、夢での記憶ばかり。

 こちらの世界のことについて思い返してみても、ついさっきまでの最新の記憶しかない。

 本当の両親との思い出はおろか、顔さえも思い出せない相手をどうして親と呼び慕えるだろうか……できるわけがない。景信は大きな溜息を吐いた。



「……なんで俺はこんな目に遭ってるんだよ。なんなんだよ本当に……!」



 景信の怒りと不安の叫び声に、何人もの通行人がびくりと身体を打ち震わせる。

 いったい何事かと訝し気な視線をも気にならないほど、心身共に追い詰められた景信の思考は延々と何故と永遠に答えの出ない自問を繰り返す。

 そんな景信の思考を中断させたのは、予期せぬ第三者の介入であった。

 その者がこの広場に現れた途端、それまで穏やかだ空気は途端に悲鳴によって殺伐としたものへとがらりと変わる。必死に逃げ惑う光景はさながら地獄絵図のようで、この地獄を描いた本人を前に景信の目は大きく見開かれた。



「なっ……!」



 景信はそれを目にするのは今回がはじめてとなる、が知識だけならあった。

 それは日本古来より存在するとされてきた幻想で、最強の存在として描写されることが多い。知らぬ者はまずいないと断言してもよい。灰色の皮膚に筋肉の鎧で固められた肉体、ボサボサの白髪に血のように赤々とした瞳が不気味にぎらりと輝く様は、それだけで対峙した者に恐怖を植え付ける。

 だがこれら要因よりも激しく主張しているのは、さながら剣の如き鋭い牙と天に向かって伸びる二本の角だった。

 鬼――日本にて有名な妖怪達が目の前にいる。

 あまりに現実離れした展開に景信は激しく狼狽した。


(に、逃げないと……!)


 既に広場には誰もいない。

 今更ながら一人逃げ遅れたことを景信は激しく後悔した。

 いずれにせよこの窮地を脱せねば、千珠院景信せんじゅいんかげのぶの人生はここで終わる――それでもいいかもしれない、とそう思う自分を景信は自嘲気味に笑った。


 自傷行為で駄目なら、より強烈な痛み……それこそ死を伴うほどの刺激であればひょっとすると、この夢から目覚めるかもしれない。単なる現実逃避だと蔑視されようが、すべてを失った景信にはもはや些細なことだった。

 あれはすべて夢だったのだと、そう簡単に割り切れる程度の記憶だったならどれだけよかっただろうか……ゆっくりと、だが着実に迫る鋭い牙を、景信は静かに受け入れる姿勢を取った。



「――、隊長あそこにいました!」

「くっ! こんな時に鬼が出るとは……! 皆急いで彼を救出するんだ!」

「景信くん! ここは僕達が抑えておくから逃げるんだ!」



 追い掛けてきた斬崎ら衛宮が鬼の姿を捉えるや否や、腰の軍刀を抜いて鬼と対峙した。

 広場を舞台に繰り広げれる人間と妖怪の戦いは凄烈の一言に尽きるものだった。

 衛宮も鬼も、双方共にその実力は互角。一進一退の状態が続くと思われたその時だった。斬崎の「危ない!」という叫び声に呼応した景信がハッとして視線を変える。


 一匹の鬼がどかどかと地を鳴らして景信へと肉薄する。

 実力が均衡する衛宮よりも比較的簡単に殺せる景信をこの鬼は標的としたのだ。

 千珠院景信せんじゅんかげのぶはごく普通の一般市民である。

 両親も普通であったし、何か武術の類を学んできた過去も彼にはない。自衛の術を持たない人間を殺す方が、衛宮を相手するよりもずっと簡単なのは言うまでもなく、そして鬼の判断は決して間違っていない――もうすぐ殺されるというのに、いつもより冷静さを保てている思考には景信自身も驚いた。


(まぁ、もうどうでもいいか……)


 死ぬことを覚悟した今の景信に、もはや恐怖という感情はなかった。

 ようやくこの悪夢から解放されるのだから拒む道理などどこにもない。

 景信はそっと瞳を閉じ、訪れるであろう死を静かに待った。



「――――」



 何かがおかしい、と景信が疑問を抱いたのは目を閉じてから数秒後のことだった。

 つい先程までこの広場を支配していた戦の音は、水を打ったようにぴたりと止んだ。

 衛宮も鬼も、どちらも共に動きが感じられない。

 いったいどっちもどうしたのだろう……音による情報だけが頼りだった景信は、一つも情報おとが入ってこない状況に耐えられず、ついに瞼をゆっくりと開いた。

 光が再び差した景信の視界せかいにまず映ったのは衛宮でも鬼でもない。

 新しい背中が3つ。少女達の右手にはそれぞれ一振りの太刀が握られていた。よくよく見やると、美しい白刃には赤々とした液体がべったりと付着していて、その足元には鬼が一匹横たわっていた――さっき襲ってきた鬼か……首から下がなく、きれいな切断面からドクドクと生命の源である血を垂れ流している。



「――、もう大丈夫よ」



 丁度正面にいる女性が振り返ることなく、そう言った。

 その声は優しくて、とても勇ましい。不思議と安心できる魅力に景信も、彼女が言ってるんだから大丈夫か、と安心していた。


(だけど、この人達はいったい……)


 あまりにも突然すぎる登場を果たした3人の女性に景信は、はてと小首をひねった。

 彼女らもまた衛宮だろうか、だとするとその格好はあまりにも個性的すぎる。

 正面にいる女性はきれいなドレスに身を包み、令嬢と呼ぶに相応しい。

 左の女性は、ある意味景信にとってはどこか馴染み深い――ホットパンツがよく似合う、ボーイッシュな格好をしている。

 右の女性は、この世界観が古き日本のようであるだけにハイカラ少女が的確だ。



「ようやく来てくれましたか……!」

「す、すいません遅くなってしまいました隊長!」

「おぉ! お前達よくやってくれたな!」



 斬崎らとは別の衛宮が遅れてやってきた。

 一進一退の戦況を脱しきれず、徐々にその均衡が崩れつつあった彼らの顔には希望の感情いろが濃く浮かんでいる。

 これで戦況が一変した、と景信は素人ながらもそう判断した。

 人間側の援軍に、鬼の一匹がけたたましい咆哮をガァッとあげる。

 人とも獣とも違う、奇声に近しいその咆哮が開戦の合図となった。



「あっ……!」



 鬼がまず最初に向かったのは、新たに加わった謎多き3人の女性だった。彼女を脅威として捉えて、真っ先に排除することを優先としたか、あるいはこの女性ぐらいなら簡単に殺せると見誤ったか――後者は多分ない。現に仲間の1人が斬られるのを彼らも目撃している、これで慢心する方がありえない。



「それじゃあいつもどおりに鬼退治とやっちゃいましょうか朱音あかねちゃん、清華きよかちゃん!」

「おっし! いっちょやってやるっしょ!」

「朱音姉さま、慢心してやられないようにご注意くださいね」

「言ってろし!」

「はいはい、喧嘩しないの二人とも」

「な、なんなんだこの人達は……」



 繰り広げられる光景に景信は唖然とするしかなかった。

 命をやり取りをしているというのに、彼女らの挙措はあまりにも不相応極まりない。

 さながらこの戦場を遊び場であるかの如く、談笑を交えている。会話そのものについても実に他愛もない。

 やる気が本当にあるのか、と誰も彼女らに言及するものは奇しくもこの場にはいない。何故ならばたった3人で向かい来る鬼をすべて斬り伏せ、肝心の衛宮はすっかり野次馬と化していた。がんばれと激昂を腹の底から送るその様子は、まるで歌って踊る偶像アイドルのファンみたいだ……ぶんぶんと振り回される軍刀をサイリウムに置き換えてみて、あまりに似合っていたので景信はつい忍び笑いをしてしまった。

 そうこうしている間に鬼達はあっという間に彼女達の手によってすべて斬り伏せられた。



「す、すごい……」



 敵手にて息のあるものはもういない。

 女人でありながら鬼の分厚い筋肉の鎧から強靭な骨をも断てる力が、いったいどこに宿っているのやら。白銀という本来の美しさは今や朱に染め上げられた血刀けっとうへと変わり果て、それを携える彼女らに、妖艶にしてどこか恐ろしい、そんな雰囲気を景信は感じていた。

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