第11話 桜じみた涙

 桜のそばで一人過ごす休日というのも悪くはない、といつの頃か思うようになった。かつては新しい場所を探してはその風光明媚を楽しんでいたものだけれど、偶然訪れたこの桃浦桜の穏やかな咲き具合に心を奪われて以来、月に一度はここを訪れなくては気が済まなくなった。

 枝垂桜から散り落ちた花びらが風に流される光景を誰かが桃浦桜と呼んだらしい。確かに田畑や山々の緑とともに眺めていると何度でも視界の遠くへ飛ばされていく花びらに、桜の海に包まれているような錯覚を抱いてしまう。

 初めてここに来たときは、桃浦桜のことは知らなかった。蕎麦の有名店のある春の村落を少し歩いてみようと思い立っただけであった。そこで店主から桃浦桜のことを聞き、その店を出て数十分ほど歩いてたどり着けば、桜を前にあぁと息を吐くことしかできなくなった。

 村落から外れた場所にあるせいか、この桃浦桜を訪れるのはわずかばかりの住民と私くらいだ。桃浦桜を見に行くときは、水筒と様々な食べ物を持っていくことにしている。ちょうど観光用に設けられた紅葉巡り道という散歩道とお手洗いが近くにあるため、気楽に長居ができる。

 今日も私は春の休日を楽しむため、桃浦桜へやって来た。そしてそこで水筒の温かな紅茶を注いでゆっくりと桜の近くの長椅子に腰かける。私の隣には村の住民だろうか、散歩途中とも思える古びた赤茶色のジャケットを羽織った老人が座っている。

 「お若いの。毎年、この桜を見に来ているようだけれど、桃浦姫の言い伝えを知らないのかね」

 桃浦姫、聞いたことがない。近くに山城があることは知っていたが、この桜の名前に似た姫がいるとは思いもよらなかった。

 「知りません。私はこの桜に心を奪われて毎年来ているだけなのです」

 「そうか。桃浦姫というのはかつてこの土地の領主に嫁いできた姫で、見目がさえず、寵愛を受けることもできずにこの付近でひっそりと領主を想いながら暮らした姫様のことだよ。だからこの桜を愛した独身の者は姫の嫉妬で結婚ができなくなり、既婚の者は相手と離婚させられるんだ」

 恐ろしいだろうと、その老人は声色を低めて言った。私は特に恐怖を感じられず、そうですかと相槌を打つだけである。

 「怖くないのか。若いモンは結婚したがらないとどこかで聞いたが、時代が変わってしまったんだろうか。お前さん、結婚に興味ないのか」

 「ない、と言えば嘘になります。しかし、もう考えないことにしました。だからここで名産に舌鼓を打ちながら桜を見上げているだけでいいんです」

 老人は不思議な若者だと呟いた。

 「そう仰るあなたは?」

 「俺かい?俺ぁ奥さんに先立たれちまった。孫はしっかり育っとる。……しかし夜が寂しい。そんだからぽっくり逝ってあいつに会いたい。施設暮らしは嫌だから、桃浦姫に、お前はぁ幸せに生きすぎたから呪い殺すってんでひと思いにと殺されてみたい」

 高笑いするその老人は、どう考えてもすぐには死にそうにはなかった。行くかと彼は立ち上がり、楽しむんだよと言い残していく。私はお元気でとその背中に声をかけた。縁起でもない、じゃあなと彼は帰っていった。

 私は、大福を袋から取り出し、真っ白でさらさらとした粉を膝に落としながら食べ始める。それは奥ゆかしい甘さをしていて、しかし家で小豆を煮たときに残ってしまうあのえぐみはまるっきりなかった。やわらかな大福の皮をもちりもちりと味わいつつ、私は桃浦桜から零れ落ちていく花びらを目で追った。

 そういえば、数年前あの有名店であるこの村の蕎麦屋を訪れた際、お一人ですかと聞かれ、独身貴族を貫こうとしてましてと答えたことがあった気がした。するとその蕎麦屋の店主がそれなら桃浦桜はいかがでしょうと言ったようにも思える。その意味を私はようやく理解した。あの店主はどうやら桃浦姫の話を知っていたようだ。

 風向きが変わり、花びらが拙い動きでこちらへと向かってくる。春風にこすれあい、花びらをはためかせながら揺れ動く桃浦桜のささやかながらも確かなささめきが、どうしてか一層強く耳に響いていく。風音にくるまれた幾つもの花びらが、私の顔を通り過ぎようと迫り、私は思わず目を閉じた。

 目を開けた先には幾分か小さくなってしまった桃浦桜があった。私は自らの目を疑い、隣から諦めのこもっている女性の言葉を聞いた。その方を見れば、そこには質素だが上等な着物に袖を通した女性がいた。

 その女性はひどく伏し目がちな女性で、その服や周囲の人々のうやうやしい視線がなければ、その女性のそばの女性が姫に見えてしまうほどだった。今、どうして私は姫という言葉を使ったのか。私は気づく。私の今目の前にいる人々は、明らかに古めかしい和装をしていた。どうして。ここはそれよりもずっと先の世のはずであるのに。

 桜を含んだ風が姫と私に迫っていく。風は去った。私は姫とその周囲のものが顔を上げ、何やら話し出し、笑いあうのを見た。言葉が分かるはずなどない。しかしその姫の寂しさの流れ落ちるような明るい微笑へと、私は一心に思いを寄せた。姫の肩にお付きの者がそっと顔を近づける。そしてその手に持っていた温かな食べ物を姫に渡した。姫は、桜を散らすような笑みをその顔に広げた。

 お付きの者は嬉しそうに桃浦桜と姫から離れていく。その方を見れば、そこには土のあちこちに付着した服を着た人々が数人おり、お付きの者から何かを言われた彼らは、姫と桃浦桜へとゆるやかに視線を向けながら安堵しているようだった。

 姫はなお、桃浦桜から目を離さなかった。そして食べ物を手に持ったまま膝にのせて、何か小さな言葉で風に紛らわせた。その言葉を聞き取れることも、聞いたとして意味を解することもできるはずがあるまい。しかし、どうしてか、姫は、

 「この桜はいつまでも美しいな」

 と、言ったような気がしてならなかった。従者に訝しまれる間もなく、風が私と姫のもとへと力強く押し寄せる。もう一度、姫はその異彩の一つさえ見いだせないような顔で、桜を飛びはばたかせるような孤独で朗らかな顔をした。

 そして土埃に目を痛ませた私が顔をあげたときには、もう、そこには姫の姿はなかった。桃浦桜は大きく枝を伸ばしている。柵は桃浦桜を、円というには出っ張りのある出鱈目な楕円形で囲んでいる。私一人がそこにいる。私は誰の視線を気にすることもなく、桃浦桜へと無意識に語りかけている。

 「そんなことしなくてもあなたたちは愛されていますよ。小野小町ほどの美しさをもたないはずの桃浦姫とあなたは、こんなにも長く村の人々に語り継がれているのですから」

 桃浦桜は動かない。ただ花びらばかりが飛ばされ流されていく。故郷の桜は散っているだろうか。

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