二〇一九年・空っぽの男

 山王を出て十分足らずの間で、中寉の親指が紡ぐ言葉はゆうに二千字を超えていた。斜め右下で、ちょっと集中力を切らせた隙にどんどん延びていく文字列を、慌てて追い直すということを続けていたから、各駅停車で四つ目の、中寉の家の最寄り駅に着く頃には承の目はすっかり疲れてしまっていた。ただでさえ寝不足で酷使している目である。それでも中寉の大事なところだけは見ないよう努めていた目である。

 それはこれまで語られた言葉や履歴書には到底収まりきらない、中寉了の心が歩んだ歴史であった。

 ……まっすぐ帰ろうと思っていたのだ。中寉によってトイレの個室から解放され、「後ろを振り返らないで」とやはり親指に言われたままにトイレを出たあとには、一瞬まっすぐ改札へ向かおうと思ったのだけれど、結局ホームへの階段を上った承だった。

 身体以上に心が疲れ切っていた。既にラッシュ時間帯で混雑している中で、次の電車までのほんの数分もじっといることが耐えがたく思われて、……そういえば、ああいうトイレの発展場のことを、「ティールーム」と呼ぶのだとミツルが言っていたことを思い出しつつ、普段なら絶対に選ばない甘ったるいばかりの缶コーヒーを飲んでいたら、

「マスター」

 いつのまにか中寉に追い付かれていた。中寉もあのあとすぐに発展場となっていたトイレを出て来たらしい。申し訳ないな、という気がしたけれど、言葉はすぐには出てこなかった。彼はあの性的な声を聴かせた男ではなく、物静かで有能なアルバイトの顔をしていた。

 中寉は何度か目をしばたかせて承を見ていた。表情は希薄であるが、なにごとか訴え掛けるような強さのある目を、中寉はしていた。承の口から言葉が何も発されないことを察知するや、

「申し訳ありません」

 周囲に大勢いる前で、深々と頭を下げた。

 これは承には大変効果的で、思わず「やめろよ、いいよ」という言葉が口を衝いて出てきてしまった。ぬるぬると掴みあぐねていた心を、中寉によって釣り上げられたようだった。

「マスターを巻き込むわけにはいかなかったのです」

 電車が一本発車するたび、ホームの人間は入れ替わる。中寉が承に頭を下げたところを見た人間が一人もいなくなるまで待ってから、承の側まで歩み寄り、中寉は言った。

「あそこには以前から、たちの悪い男が現れるのです」

「……たちの悪い男」

「僕の知っている限りでも、何人も酷い目に遇わされています。元々は平和な、中学生の頃の僕でも安心して遊べるぐらいの場所だったのですが」

「中……、学生……?」

 中寉は白い顔でこくんと頷く。いまだって高校生と自称すればそれで通ってしまうだろうなという顔である。『緑の兎』でこの男が働き始めて三日目に地元の警察官がやって来て、中寉の身分証明を検めるということがあった。どうやら客か同業者から「あそこの店でこどもが働いている」と通報があったらしい。ただこの男が中学生のころというのは、もう、それこそ「こども」そのものだったのではあるまいか。

 そんな時期からあんな場所に出入りしていた?

「お忘れですか。僕は書生紛いだったのですよ」

 無表情に言った最後に、少しだけ哀しげな微笑みを中寉は浮かべた。

「僕は汚い男です」

 ぽつり、自分のスニーカーに言葉を落とす。モノトーンで、一見しただけではどうということのないであるが、それもハイブランドのものである。

 しかし、あのトイレの床のタイルを幾度となく踏み締めてきたらしいスニーカーである。

「汚くて、汚いばかりではなくて、空っぽな男です。僕の中には何もありません。その罰として早死にするのか、それとも早死にすることが判っているから心置きなく罪を犯すのか、自分でも解りません」

 ちくり、と承の胸を針で刺した自覚もない様子で、薄い笑顔を中寉は承に見せた。

「ですが、その中において、初めて真っ当に『働く』という、自分の仕事でお客様を喜ばせるという機会を与えてくださったマスターに、僕は心から感謝しています。今日も、とても楽しかったのです。お邪魔になってしまうのではないかと、本当は不安で仕方がなかったのですが、どうしてもマスターと遊んでみたかったのです」

 中寉の瞬きの回数が増えていた。それでも表情はほとんど変えずに、

「僕は、まだ雇って頂けますか」

 と問うとき、彼の声は底が震えている気がした。

「……別に、まあ……、そんなのは」

 どうやら今日は、楽しい一日だったのだ。

 中寉にとっても、意外なことに承にとっても、楽しいまま締め括られるはずの日だったのだ。別れたあと、承はギターの弦を買い、中寉はあのトイレで遊んで、それぞれに満足して家路に就き、睡眠不足を取り戻すように明日の昼まで寝倒すという休日。

 その予定が壊れてしまった。このあと、今日の余分な出来事をそれぞれ持ち帰り、明日目が覚めてから火曜日の仕事まで鬱々とした思いを抱えることになってしまったのは、別にどちらのせいでもない。強いて言うならば承が回避可能であった地雷を油断の靴底で思いきり踏んづけてしまったからであるが、そもそもトイレという公共の場所が先に出来ていたのであるから、それだって酌量されるはずである。

「……お前、晩飯は」

 空き缶を捨てて承は訊いた。もうホームに戻ってきてから三本目の電車が出ていった後だ。

「スーパーで買いものをしてから、家で作って食べます。お休みの日には、今までもそうしていました」

 若いのに殊勝なことだと思ったが、あれほどの料理の腕があるのだから自分の舌を満足させることだって容易いのだろう。何なら飯に誘ってみようか、……今日のボートの話をしよう、もうちょっと深く話して、お互いにとって不幸だったさっきの出来事を上から塗り潰してしまえたなら、明日明後日少しぐらいは心が軽くなるだろうと思ったのだけど。

 ちょっと怖い思いをしたせいだろうか、承の心は滑稽なぐらいに弱っていたらしい。

「もし宜しかったら」

 さっき、親指の動きが滞ったときのように、彼にしては珍しく一瞬言葉を躊躇うような余白を挟んで、

「マスター、僕の部屋に遊びにいらっしゃいませんか。大したものは出来ませんが、ごちそうしますよ」

 これまでで一番大きく笑顔を膨らませて、中寉は言った。それが彼の、最も愛想のいい顔なのだろうということは判った。あまり人間的な温もりは感じさせない男であるが、かと言って真っ当な神経がその四肢五指に通っていないわけでもあるまい。きっと独りで過ごすはずの残り二日の休み、憂鬱の中で膝を抱え自分の吐いた溜め息に押し潰されて終えるのは嫌だという感覚は承と共通のものを有しているらしい。

 かくして、山王駅中央改札を出て、私鉄の各駅停車に乗り込んで、十分近く、ずっと中寉の紡ぐ言葉を読んで、ただただ圧倒されていた承である。

 この男は本当にこどものころから、そうした行為に淫してきたのだ。

 畑村國重の「書生紛い」として買われて、相手をしている以外の時間、この少年は山王の「ティールーム」をはじめあちこちの同様の場所で遊んできたのだそうだ。初めて訪れたのは某駅のホームにあるトイレで、それが十二歳のときであったというから恐れ入る。根を張ることは基本的にせず、ときには郊外にも足を伸ばして、しかし夜には帰ってくる。畑村がそのことを知っていたのかどうか、恐らく知らなかったのではないかと中寉は語る。

 畑村は「お人形さん」のように中寉を愛玩し、対して中寉はしっかりと愛想よくして金を得る。それはあちこちのトイレで、中寉がまだ「こども」であると知りながら触れる手や指から得るものと、何ら違わないものである。

 危ないことはなかったのか、という懸念を承が抱いたのが伝わったのだろう。

 これまでのところ僕は恐ろしい思いや痛い思いをしたことはありません。それはひょっとしたら、僕自身少々鈍感なところがあるからかもしれませんが、身体に残るような傷を負わされたり、厄介な病気を伝染されたりといったことはありません。

 つまり、この男が言った「長くは生きられない」のは、そうした病気が原因ではないということらしい。

 駅前のスーパーに入るなり、

「マスターは、お肉とお魚とどちらがお好きですか」

 中寉は柔和な微笑みを浮かべて訊いてきた。

 昼はボートレース場で焼きそばを買ってスタンドで食べた。食が細いのだろうとは想像していたが、それさえも持て余しぎみであった中寉を見ていたら、「脂っこい肉が食いたい」などとは言えない。

「何でも……、お前は何を食べるつもりだったの」

「特に決めていません。冷蔵庫の中身で副菜を考えつつ、主菜はスーパーで良さそうなものがあったらという感じです。あまりたくさんは要らないので、美味しく作って少しだけ食べます。料理は好きですが、エンゲル係数はあまり高くないのです」

 中寉は表情はあまり変えないが、楽しそうであった。別にあれこれと話し掛けて来るわけではないのだが、魚売り場の前で立ち止まって「鰤の照り焼きでいいですか」と訊くために振り返ったとき、彼の目元の赤みは花が咲いたように鮮やかに、その美しい顔を彩っていた。

 かつては承にもこうして遊んだ相手はいた。学生の頃には、一ヶ月のうち半分ぐらいは友人宅で寝泊まりしたこともある。今はこの通り、だいたいにおいて独りであるが。

「お前は、大学で友達いないのか」

「いないですね。みんなと僕と興味の対象が重なることは少ないので」

 お前の興味の対象って何なんだろう、サコッシュから出したエコバッグに量の少ない買いものを全部放り込んで細い腕にぶら提げる男の隣を歩きながら、……例えばボートレースがそうなのか、と問うてみようかどうしようか、考えているうちに「ここです」と中寉の足が止まった。夜空を貫いて建つ高層マンション、十二階まで数えているうちに、

「マスター? どうぞお入りください」

 と中寉に促されてしまった。

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