遺跡の住人

第2話 遺跡の住人 1

 警告するような鋭い鳥の鳴き声と、動き始めた森の気配に目を覚まし、暗い部屋の隅でイタチのように丸くなっていた少女は、大きく体を伸ばすと深くため息をついてから重く湿った土と植物の匂いがする空気を吸い込んだ。


 試しにもう一度目を閉じて、たった今追い出されたばかりの夢の中へ戻ろうとしてみたが、叶わなかった。これは毎朝繰り返している事で、何度試してみても決してこの世界から抜け出すことはできなかったが、それでも目が覚めるたびに「もしも」と呟きながら、どこか懐かしいような別の世界を思い浮かべた。もしかするとこれが祈りなのかもしれない、そう思いながら。


 少女は諦めて体を起こすと窓のそばへ行き、ガラスが割れ落ちてただの四角い穴になってしまった窓枠に両手をついて外を見た。巨大な植物がすぐそこまで迫る、一面の緑の森。所々に覗く木々の間の暗い隙間は夜の闇よりも深くて恐ろしい世界への入り口だった。

 

 この建物はかつて学校だったもので、五階建てだが周囲を埋め尽くす植物はその屋上に迫ろうとするほどの高さだった。近い将来、この建物も植物に飲み込まれてしまうだろう。今ではもうその面影もないが、かつてこの辺りは大きな街であり、数万人の人々が暮らしていた。それが今では見渡す限り一面の森が広がり、建物のほとんどは深い森に飲み込まれてもうその姿はない。

 

 大きな建物だけが辛うじて深い緑の森に溺れるように苦しげにその頭を覗かせているばかりだ。この学校も一階と二階はわずかな生活スペースを残してあとは森の木々に明け渡してしまった。この森の植物の成長は早く、力強い。少しでも油断すればあっという間に森が全てを飲み込んで奪い去っていく。

 


 窓枠に四角く切り分けられた空をしばらく眺めた後、すぐ近くで寝ている者を起こさないよう注意しながら少女は足早に部屋の出口へと向かった。四階の居住スペースから一階にある食堂まで降りていくと、すでに数人の男たちが食事をしながら今日の行動予定について話をしていた。


 かつては自分と同じくらいの年齢の者たちが勉強をしていたという「学校」。その食堂は数百人が一度に食事を取れるほどの広さだった。かつて街だったところではこの程度の学校が半径十五キロのうちに二つ三つはある。十代の若い人間ばかりがそんなに大勢集まって集団で行動していたなど、今では想像もつかない。少女が食堂の一番奥にあるキッチンへ朝食を受け取りに向かうと、すぐ後ろで大きな気配と間隔の広い足音がした。


「よう、ティア。お前も今日は狩りか」


 背の高い、赤毛の若い男が目の前の少女に声をかけた。ティアと呼ばれた少女はちらりと振り向き面倒そうにため息をついてすぐにキッチンへ向き直った。


「そうだ」


 少女は短く答えると朝食のトレーを受け取りさっさと席へ向かった。赤毛の男はキッチンの女性に大盛りを頼むと少女の後について行き、彼女の隣に腰を下ろした。すぐ隣に座った男を気にも留めず、少女はただ黙って朝食を口に運んだ。脂の少ない固く締まった赤身の肉は先月仕留めたイノシシのベーコンだ。それにスクランブルエッグを少しとジャガイモを茹でて潰したもの。

 

 何でも欲しいものが手に入る世界ではない。ティア達のように森で暮らす人々は狩りをして獲物を仕留め、肉を手に入れる。その肉を、海辺や平原で暮らす人々の収穫物と交換するのだ。塩や魚、穀物や羊毛と。時には発電して操業している工場まで行き、布や鉄鋼などとも交換した。


 電気を手に入れたとはいえ、送電網は確立していないので工場周辺以外には電力は供給されていなかった。そのため物を作る作業もごく一部の範囲にとどまった。食べる、暮らす、そのことはなんとかなったが、今、致命的に不足しているのは医療技術と設備、そして薬品だ。ほんの少しの抗生物質がないために、大勢の大人や子供があっけなく命を落とした。小さなかすり傷からほんの数日で死んでしまった仲間をティアは何人も見てきた。食べて、眠り、生きて、殺す。その原始的な営みを維持することが今の彼らには精一杯だった。


 ティアは固い肉を噛み締めて飲み込んだ。皿の上のジャガイモは水分もなくかすかに塩気を感じるだけの味気ないもので、口に含むと飲み込むのに苦労した。グラスの水で喉に詰まるジャガイモを流し込み、ティアは席を立とうと椅子の背もたれに手をかけた。すると隣の男がティアのその左手首を摑んで言った。


「まだ時間はある、座れよ。少し付き合えって」


 皿の上にはティアが食べた量の倍ほどの肉と卵が盛り付けられており、それをフォークでつつきながら男はティアの手首を掴んだ手に力を込めた。ティアが睨むように男を見ると、男は楽しげにニヤリと笑う。


「……さっさと済ませろ。準備がある」


 ティアは苦々しく答えて、もう一度椅子に腰を下ろした。この男の口から発せられた言葉は命令だった。拒むことはできない。男は掴んだ手首を離すと、ベーコンをフォークで刺して口に運んだ。


「そんなに嫌な顔するなって。俺はいつだってお前の味方だろう?」


 男は呆れたような顔で言った。


「余計なお世話だ。私は一人がいい」


 相変わらず表情一つ変えずにティアは切り捨てた。男は手を伸ばしてティアの横顔にかかる髪をそっと拭うようにしてティアの耳にかけた。指先が頬をかすめて耳の輪郭を撫でる。ティアは弾かれたように鋭く首をひねって男の方を向くと、唇を強く引き締めて男を睨みつけた。男は楽しげに笑い、グラスの水を煽って飲み干した。


 ティアは男の向こう側、少し離れた席に自分と同じ年恰好の少女が三人座っているのを見た。彼女達はティアのことを睨みつけるように見ていたが、ティアがその視線に気づいて目が合うと少女達は慌ててそっぽを向き三人で頭を寄せ合って何事かを小声で話していた。ティアはため息をついた。


「ルーファス、ケイトが見てる」


 ティアがそう言って顔を背けると、ルーファスと呼ばれた赤毛の男は眉根を寄せて肩をすくめて見せた。ティアは苛立ちを隠さずに続けた。


「だから言ったんだ。私に構うな」


「ケイトは気にしないさ」



 勝手なことを言う、ティアは思った。彼女達のような少女が裏でどれほど陰湿か、ルーファスは分かっていない。ただでさえこのコミュニティに肉親を持たないよそ者の自分を、皆がどんな目で見ているか、ティアはよく分かっていた。

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