第36話 求められたい





 小さな紙袋に入ったパンを抱え、ディゼルは家に戻ってきた。

 元々誰が住んでいたのか分からない空き家を勝手に使わせてもらっているだけだが、今のところ誰にも文句を言われていないので好きにさせてもらっている。

 ここはスラム街の隅の方にある、家というよりただの小屋のようなもの。ボロボロだが雨風は凌げる。大きな通りから離れているため、人通りもほとんどない。

 ここでなら、何をしても気付かれることはない。ディゼルは壁を背もたれにして座り、小さく息を吐いた。


「ここは居心地が良いな」

「悪魔様」


 黒い靄と共に現れた悪魔が、ククっと低い声で笑う。

 治安の悪いこの場所は悪魔にとっては楽園のようなもの。不幸と絶望で満ち溢れ、常に死の匂いを漂わせている。

 ずっと花を咲かすために血を流していたディゼルは、一度体を休めるためにここを選んだ。

 ここで花を買おうとする者はいない。余計な血を流すこともない。誰かに愛想を振りまく必要もない。殺伐としたこの場所が、今までで一番落ち着けるなんておかしな話だと、ディゼルは思わず笑みを零す。


「この国は分かりやすいくらい貧富の差がありますわね。そのおかげで、ここは荒んでる」

「そうだな。希望を持って暮らすものは誰一人としていない。明日生きているかどうかも分からないという不安を抱いてる。おかげで俺はここにいるだけで腹を満たせる」

「ふふ。それは良かったです」

「お前も男の相手をして心を腐らせているな。いい具合に魂が熟している」

「自分の身を守るためとはいえ、出来ればやりたくはないです……この身に触れていいのは悪魔様だけですのに」

「ああ、そうだな。お前は俺のものだ。しかし、お前が絶望を抱き、不幸になっていくのは歓迎だ」


 そう言いながら、悪魔はディゼルの顎を掴んで上を向かせた。

 鼻先が触れそうなほど顔を近付けられ、ディゼルは頬を赤く褒める。高揚した頬に痣が浮かび上がり、彼女の気持ちが高ぶっていることが目に見えて分かってしまう。


「悪魔様……私はまだあなたに食べてもらえないのでしょうか?」

「そうだな……」


 悪魔はディゼルの服を脱がしながら、彼女の胸のあたりをジッと見る。

 正直、もう十分なほどディゼルの魂は熟している。だが、もっと絶望したらどうなるのか。もっと彼女が不幸になったらどうなるのか。それが見たい。だから食べずに待ち続けてしまう。


「…………まぁ、お前が最高に絶望させる方法はあるんだがな」

「え?」

「いや。それをすると俺がお前を食えなくなるからな……今はこうして味見する程度で十分だ」

「……あっ」


 ディゼルの首筋を舐め、床に押し倒した。

 悪魔が何を言おうとしていたのかディゼルには分からなかった。今はただ、悪魔から与えられる快楽に酔いしれるだけ。


 いつかは悪魔に食べてもらいたい。悪魔と本当の意味で一つになりたい。そう思うが、この時間が続くことも望んでいる。

 一生、悪魔を愛していたい。求められたい。それだけが彼女の願いだ。



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