十話 楽になれない気持ち

「ねぇ、お兄さん。早く話して、楽になりましょう? 苦しいでしょ? お兄さんが望むなら、私はなんでも──」


 そんな誘惑が耳朶じだをうつ。あまりにも魅力的なその提案は、思わず本当のことを告げてしまおうかと思うほどだった。

 けど、それはできない。

 今の俺が妹を裏切るなんてこと、してはいけない。自由を望むことは許されても、自由になることなんてできない。

 妹には俺の分まで背負わせて、それで自由になるなんて人として、兄として、俺にはできない。

 だから、彼女の甘い誘惑も、そのなにもかも聞かなかったことにして、こう言った。


「なに言ってるんですか? おにいさんなんて、知りません。私にいるのはお姉ちゃんだけですし、おにいさんって、誰のこと言ってるんですか?」


 それから、俺を抱きしめる力が強くなる。自ずと感じた感触に、今度はなんとも思わない。動揺一つしない。


「あくまでしらをきるつもりということですね。わかりました。そういうことにしておきますよ。貸し、ですよ?」


 そんなことを呟いた。その声に、その響きに、ドキッとさせられてしまったのは不覚だった。

 それから少しして、彼女は離れスルスルと布が擦れる音がする。スルスル、スルスルと。

 最初、それを聞いたとき、俺は服を着てるのだと思ってた。

 けど、そのあと聞こえたボサッという音で、服を着てるのではなく、脱いでるのだということに気がついた。

 服を脱いでる。服を脱いでる? 服を脱いでる!?

 途端に頭の中が混乱で支配されていく。

 だって、俺はここで振り向けば彼女のお着替え姿を、それどころか今そこには下着姿の彼女ががががが………。


「どうしたんです、伊乃里いのりちゃん? 伊乃里いのりちゃんがお兄さんじゃよかったですよ。だって、もしお兄さんだったら私、今ごろ襲われて大変なことに……」


 いや、そんなことしねぇーよ? いや、しない。しないです。たぶん、なにもしないです。

 どんどん意思が弱くなっていく俺の思考に、ああ俺は最低なんだと自覚する。

 けど、まさかそんな切り返しが待ってるとは思ってなかった。

 と、そこで、あのとき一着のドレスを彼女が手に持っていたことに気づく。なるほど、これも全て計画されていたこと、ということか。

 そうして、俺は事態を把握する。


「それに、よくよく考えれば伊乃里いのりちゃんがお兄さんなわけないですよね。だって、ドレスだって似合うほどかわいいわけですし。もし、伊乃里いのりちゃんがお兄さんだったら私、女としての自信失っちゃいますよー」


 普通に美少女の部類に入ることだろう彼女がそんなことを言うと、俺がどれだけのレベルなのかハッキリとわかる。

 いや、別にそんなこと知りたくもないけど……。

 でも、そう考えると化粧というものがどれだけの詐欺かがわかる。


「それよりー、伊乃里いのりちゃんさっきからどうしたんです? 後ろなんか向いちゃってー」


「えっ? あー、うん。だって、恥ずかしいし……」


「あっ? もしかして、私のこと気にしてくれてるんです? 大丈夫ですよー。私、そういうのあまり気にしないので」


 今にもクスクスと笑い声が聞こえてきそうだ。

 それにしても、なにがあまり気にしないので、だ。いっそのこと振り返ってやろうかなんて考えてしまう。

 まあ、そんなことをすれば、俺がお兄さんである証拠を持って警察に行かれそうなのでしないが。


「いえ、その。私が恥ずかしいので」


「そうなんですか? まあ、そういうことなら」


 それから、彼女はつまんないのー、なんて一人で呟いていた。

 と、程なくして、「夏織かおりちゃーん、伊乃里いのりちゃーん」と呼ぶ声が聞こえてくる。

 いつの間に着替えていたのか、その声を聞くなり夏織かおりは荷物をまとめ試着室を出ていた。

 そして、みのりの背後からこっそりと近づいて行き、ギュッと抱きつく。相変わらずだなー、なんて試着室を出ながら思う。


「えっえっえっ!? なになになに!?」


「せーんぱい、かわいいです!」


「えっ? あー、夏織かおりちゃん? って、どこから来たの?」


「それより、みのり先輩のその格好かわいいです!」


「えっ、あー、うん。ありがとう。夏織かおりちゃんのそのドレスも似合ってるよ」


 いつの間に着替えてたの? とでも言いたげな視線を向けながら、みのり夏織かおりのことを見ている。

 それから、なにかを探すようにキョロキョロしたかと思うと、俺を見るなり夏織かおりに抱きつかれたまま、こっちにやってくる。


「あー、えーっと、伊乃里いのりちゃん? その、どう? 似合ってる?」


「えっ、あーうん。似合ってるよ、みのりお姉ちゃん」


 いつもそんなことを聞かれても、いんじゃね? と、適当に返していたが、ゴスロリドレスに身を包んだ彼女は、思わず見惚れてしまうほど美しかった。

 最初、遠くから見たときはそうでもなかったが、こうして間近で見ると少し緊張してしまう。

 そして、何より妹の声はプロのそれなのだ。

 声、容姿と揃っては、緊張しない方が無理だ。

 俺の様子から何かを察したのか、妹の顔は嬉しそうに溶ける。


「あれー? おかしいです。私が褒めたときはそんな嬉しそうな顔してなかったのに、伊乃里いのりちゃんのときはとても嬉しそうに……。はっ! まさか、みのり先輩、小さい子を愛好する趣味が──」


「ないよ! もう、そんな趣味が私にあるわけないでしょ?」


「なら、みのり先輩、私のことが嫌いなんですね」


「違うから。ただ、子どもってほら、純粋でしょ? だから、純粋に褒められたと思うと嬉しくてついね」


「もう、私も純粋です。みのり先輩酷いです」


「はいはい」


 みのりはそんな感じで軽く流してる。

 それにしても、やはりみのりはかわいい。

 たしかに、夏織かおりも同じ美少女ではあるのだが、夏織かおりにはない決定的ななにかが、みのりにはあるのだ。

 そして、俺はそれに惹かれている。そんな気がする。


「そ、その、このあとはなにするんですか?」


 俺は、おずおずといった調子で聞いた。

 それから、それに答えたのは夏織かおりだった。


「もちろん、写真撮影です」

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