第6話 なまえ 其の五 中編
「おいっ、新人。また今日も契約できなかっ
たのか。向いてないよ、お前」
初めて会った彼は、そう言われて肩を落としていた。廊下の壁際で、俯いていた彼が気になり、私は思わず声をかけてしまった。
「大丈夫ですか?」
彼はビクッとしてから、私の方を向いて言った。
「どなたか存じませんが、私を心配していた
だき、ありがとうございます。私は大丈夫です。少々落ち込むことがあり、このような姿
ですが、気分が悪いというわけではないですから」
背が高くガッチリとした体つきをしているのに、どことなくおどおどした雰囲気があり縮こまっているせいか、彼は小さく見えた。
私の彼の第一印象は、白馬の王子様のどころか、王子様の馬を引く気の優しい従者みたいだなという感じだった。
それから、彼とは廊下ですれ違う度に、挨拶と少しの会話をするようになった。
私は彼の優しさには時折ホッとする事があった。
そんな日々を送る中、彼から突然のプロポーズを受けた。
その日の事は今でも鮮明に覚えている。
いつものように廊下で会った時、彼はとても嬉しそうに話しかけてきた。
「一橋さん、聞いてください。ついに、大口
の契約に成功したんですよ」
彼が足繁く通う高校で、国語の教科書を採用してくれたとの事だ。私も嬉しくなり、自然と顔も
「本当によかったですね。田中さんの努力が
報われて、私も嬉しいです」
その直後、彼の表情から急に笑顔が消えたのだ。彼は深妙な面持ちで私を見た。
そして、言ったのだ。
「一橋さん、僕はあなたのことが好きです。 結婚してください。一生を懸けてあなたを守っていきますから」
私は予期せぬプロポーズに困惑した。そして、断る理由を探し始めた。頭の中をたくさんの言葉が駆け巡る。
『まだ、私は大学生ですから結婚など考えてもいません』
『まだお付き合いもしていないのに』
『こんな所で突然言われても』
『本当にあなたは私の事が好きなのですか?』
『私はあなたの事を何とも思っていませ
ん』
何とも思っていない?本当に?
私は田中さんと話をしていると楽しくて温かい気持ちになれる。
私はあなたとずっと一緒にいたい。
そう思うと、私は、胸の奥から湧き上がってくる熱い気持ちに気付いた。
この胸の高鳴りに、私は嘘をつく事などできないと思った。
しばらく俯いたままの私に、彼は黙って、ただ返事を待っていた。ふと彼に目を向けると、彼の緊張した姿からその場の張り詰めた空気が十分に伝わった。彼は勇気を出したのだ。なら、私もそれに応えよう。
「私はあなたと出会える事をずっと待ち望んでいたかもしれません。あなたといると笑顔になれる。この気持ちは言葉では足りないくらい。わたしもあなたのことが大好きです。
どうか私と結婚してください」
私は彼の目を見てそう伝えた。彼は嬉しそうに私の手を握り「ありがとう」と言って涙を流していた。
私は彼に恋をしていたことを実感した。
初めて私の家に来た彼は、開いた口が塞がらないほどの驚きようだった。私が有名な和菓子の老舗の経営者の娘だと知り、さらに口は大きく開いた。
結婚の承諾のため、両親に挨拶がしたいと言い出したのは彼だった。私はあまり気が乗らなかった。父に認めてもらうことなどできないと確信していたからだ。それでも、彼は誠意を示したいと言ってきかなかった。
案の定、父は猛反対だった。私の味方についてくれると思っていた母も、予想に反して父の味方だった。
彼は、ほとんど話すら聞いてもらえずに、私の思った通り、敢え無く玉砕したのだ。
その日以来、私は何度も父と言い争いになった。時には母が仲裁に入るほど私の物言いは生意気で、父の怒りを
そのうち、母は私の話を聞いてくれるようになったが、相変わらず結婚には反対していた。
ついに、父との大喧嘩が勃発して、私はその勢いのままに家を飛び出した。
他に行く当てのない私は彼の住むアパートを訪ねた。インターフォンを押したとき、急に、さっきまでの熱が下がり、恥ずかしさで一杯になった。私を見た彼は少し驚いたみたいだが、優しい言葉をかけてくれた。
私の話を聞いてくれた彼は、父に謝り家に戻った方がいいと言ったが、私は絶対に帰りたくないと言ってきかなかった。
彼と私の同棲生活はそんな成り行きみたいな形で始まった。
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