15:内緒のやり取り

 長谷部瑠夏は中学一年の冬に沙良が通っていた中学校に転入してきた。

 とにかくとんでもない美少女だという噂は違うクラスの沙良の耳にも届いていた。


 同じクラスになったのは中学二年のとき。

 濡れ羽色の髪を腰まで伸ばした瑠夏は噂に違わぬ美少女だったが、氷のような冷たい目で己に近づく全てを拒絶していた。


「転校の理由は父親の転勤だと説明したけど。本当はいじめが原因なのよ」


 知り合って三年以上が経過し、現在高校二年生になった瑠夏は沙良の右隣に座り、背中を丸めて両膝を抱えた。


「スクールカーストの上位にいた神谷って女が、意中の男子と仲良くしてるあたしに嫉妬したの。その男、佐藤は学校一のイケメンとか言われてて、ファンも多かった。あたしは佐藤と仲良くするつもりなんてなかった。ただ、隣の席だったから無視するわけにもいかず、適当に相手をしてただけ。それなのに、佐藤は『この俺に振り向かない女なんて初めてだ。オモシレー女』とか言って、しつこく絡んできたの。それが神谷の気に障った」


 膝を抱える瑠夏の両腕に力がこもる。

 まるでそこに憎い仇でもいるかのように、瑠夏は床の一点を強く睨んでいた。


「頼みもしないのにベタベタ引っ付いてくるのは向こうだ、あたしは迷惑してると抗議しても、ただの自慢にしか聞こえなかったらしいわよ。何を言っても火に油を注ぐだけで、どうしようもなかった。後はもうわかるでしょう。神谷は佐藤のファンをまとめ上げて、寄ってたかって――ほんと、クソみたいな目に遭わせてくれた。事なかれ主義の担任は何もしてくれないし、生き地獄だったわよ」

 瑠夏は自分の左腕に右手をかけ、白磁のような肌に爪を立てた。


「止めて」

 見かねた沙良は瑠夏の右手首を掴んだ。

 瑠夏は振り払おうとしたが、沙良はがっちりと彼女の細い手を掴んで離さなかった。


「離しなさいよ」

 煩わしそうに瑠夏が言う。

 怒りで火を噴きそうな目を向けられたが、沙良は怯まずその目を見返した。


「嫌。離さない。私の親友を傷つける人はたとえ瑠夏本人だろうと許さないわ」

「…………」

 瑠夏は目を大きくし、毒気を抜かれたように抵抗を止めた。


「もう自傷行為はしないって約束して。でないと私はこの手を離さないわよ。どこまでも付きまとってやる。よく知ってるでしょう。私はしつこいの」


 自分の殻に閉じこもり、いつも教室の端に独りでいる瑠夏を放っておけなくて、沙良は毎日彼女に話しかけた。

 それこそ彼女が根負けするまで、何か月も。


「……そうね。沙良は本当にしつこかった。あたしがどんな酷い言葉を言ってもめげず、どこに逃げても追いかけてきた」

 瑠夏は遠い目をして、その口元に淡い笑みを浮かべた。


「あんたがいなきゃあたしはいまでも全てを憎んでたでしょう。あんたのおかげで、あたしは世界の破滅を願うことを止められた。感謝してるのよ。だから、その……」

 瑠夏は口ごもって目を伏せ、また視線を上げ、それから頭を下げた。


「……さっきは取り乱して、八つ当たりみたいなこと言って、ごめん」


「いいよ」

 沙良は彼女の手首を掴んでいた手を離し、改めてその手を握り、上機嫌で振った。


「これは何?」

「仲直りの握手」

「……。ほんと、あんたには敵わないわ」

 瑠夏は頬を緩めて沙良の手を握り返してきた。


(良かった。これでわだかまりは完全に消えたわよね)

 握手を終えて心からほっとしていると。


「良かったね」

 秀司が全く同じ感想を口にしたため、沙良はそちらに注意を向けた。


 秀司は穏やかに笑っている。

 大和も同じ表情だった。


「長谷部さん、辛い過去を話してくれてありがとう。お礼になるかどうかはわからないけど、俺も自分の過去を話そうかな。興味があれば」

「ある」

 瑠夏より先に沙良が言った。


 秀司は瑠夏に対して質問したのであって、自分が答えるのは違うとわかっていたが、それでも秀司のことならなんでも知りたくて、考えるより先に言葉が出ていた。


 秀司はこちらを見て意外そうな顔をし、微かに笑って語り始めた。


「美人の長谷部さんが男子にモテるように、俺は昔から女子にモテた。誰かに好きだって言ってもらえるのは純粋に嬉しいし、アイドル扱いされるのも悪くないと思ってたよ。でも、盗撮やストーカーは当たり前、好意が免罪符になると思ってる人の相手をするのは疲れたな。世の中には常識や話が通用しない人種がいるんだよね、悲しいことに」


「自分が良ければそれで良し。自分こそが正義でルールって思い込んでる馬鹿はどこにでもいるものよ」

 並外れた美少女であるが故、幼少の頃から痴漢やストーカー被害に遭い、これまで大変な苦労を強いられてきた瑠夏がしみじみと呟く。


「決定的な出来事が起きたのは中三のときだ。俺はある女子に告白されて断った。後で知ったんだけど、その子にはそもそも彼氏がいた。それも、相当厄介な類の男だ。俺はその男に『俺の女に手を出した』って非難されて殴られた。手を出すも何も、こっちは本当に何もしてないのにね。問題のその子は『思わせぶりな態度を取った俺が悪い、私は被害者、なんて可哀想な私』ってな感じで泣くんだよ。いや、俺は皆の求める理想のアイドル像を演じてただけで、勝手に惚れたのはそっちですけどっていう。それまでストレスに耐えてアイドルを演じてたけど、全部が馬鹿馬鹿しくなって、俺はその日を境に愛想を振りまくのを止めた」


(ああ……それで秀司は入学当時、あんなに冷たかったのね)


 人間不信に陥った瑠夏と似たような目をしていた理由がようやくわかった。


 トップ入学を果たしておきながら入学式での新入生代表挨拶を断ったのも、目立って女子に騒がれることを厭ったからだろう。


「たった一日で別人みたく変わったよな、秀司」

 大和は立てた片膝に腕をかけ、苦笑している。


「まあな。なんていうか、自分の中の何かがぶちっと切れた。多分、とっくに限界だったんだろうな。アイドルは俺には向いてないってことがよくわかった。人間、無理せず思うままに生きるのが一番だよ」

 秀司は座ったまま姿勢を低くし、膝を抱えて俯いている瑠夏の顔を横から覗き込んだ。


「長谷部さんも、もう少し肩の力を抜いて生きてみたら? 休憩時間中に本ばかり読んでないで、沙良以外の他の女子とも積極的に絡んでみなよ。個人的には石田さんのグループとかお勧め。見た目はちょっと派手だけど、みんないい人たちだよ」


「……わかってるわよ。善人じゃなきゃ、沙良の髪を毎朝まとめてあげたりしないでしょう」

 瑠夏は沙良のポニーテイルを見た。


 ポニーテイルの根元にはピンク色のリボンが結ばれている。

 今朝このリボンを結んでくれたのは里帆だ。


「なら明日、自分から石田さんたちに話しかけてみなよ。世界が広がるかもしれないよ?」

「……そうね。そうしてみよう、かしら」

 瑠夏は小さく頷いた。


「うんうん。頑張れ」

 秀司はにこにこしながら瑠夏の頭を撫でた。


 ぴく、と沙良の頬が引き攣ったが、秀司はそれに気づかない。


 そもそも彼は瑠夏のほうを向いているため、沙良の微妙な表情変化に気づくはずもなかった。


「ふふ」

 瑠夏は体育座りを止めて膝を倒し、珍しく笑い声を上げた。


「不破くんがモテる理由が少しだけわかったような気がするわ。あたしが中学で出会ってしまった男は外見しか取柄がないナルシストなクソ野郎だったけど、不破くんは中身もイケメンね。あたしに過去を話すよう促したのも、沙良との間に生じたわだかまりを早く解消して欲しかったからでしょう。有耶無耶にしてしまうと長く引きずるからね。全く、沙良が惚れるわけだわ」

「ほ、惚れてないし!! 全然ちっとも惚れてないし!!」

 ぶんぶん首を振る。


「あんたねえ。カップルになったくせに、まだそんなこと言うの? あんまりそっけない態度を取ってると、不破くんの心も離れるわよ?」

 瑠夏は呆れ果てたような顔をしている。


「う……」

(いや、だから、私は偽彼女なんだって……)


「あたしが不破くんに触る度に嫌そうな顔するくせに。本当に素直じゃないんだから」

「い、嫌そうな顔なんてしてないわよ! 演技指導のためだってちゃんとわかってるもの!」

「なら、あたしはこれからも遠慮なく不破くんに触るけど、いいのね?」

 確認するように瑠夏は沙良の目を見つめた。


「もちろんいいわよ。演技指導のためだもの」

 頷く。と。


「……ふうん?」

 瑠夏は悪だくみを思いついた子どものように怪しく笑い、立ち上がった。


 何をするのかと思えば、瑠夏は秀司の傍に座り、彼の腕にぴとっとくっついた。


「――!! ちょっと!? いまは演技指導の時間じゃないでしょ!? 何くっついてるの!?」

 泡を食って叫ぶ。


「ねえ不破くん、もう一回あたしの頭を撫でてくれる?」

「いいよ」

 秀司はあっさり言って瑠夏の頭を撫でた。


「ああああ!! 一度ならず二度までも!!」


 瑠夏が気持ち良さそうに目を細めるものだから、堪らず沙良は立ち上がった。


「秀司もリクエストされたからってなんで撫でるのよ!? わた、私の時はシュシュを軽く指先で撫でただけだったのに! 私が彼女なのに!! この浮気者!!」

 涙目になって叫ぶ。


「沙良は不破くんに惚れてないんでしょ? ならあたしが引っ付いても良くない? いますぐ破局して良くない?」

 瑠夏は秀司の腕に自分の腕を絡め、さらに密着して首を傾げ、勝ち誇ったように笑った。


(なにその笑顔!? なんで秀司は瑠夏を拒まないのよ!? まんざらでもないってことなの!?)


「良くないぃっ!! いまは私が秀司の彼女なのお!! 瑠夏がライバルになるなんて洒落にならないわよ!! 私に勝ち目なんかないじゃない!!」


「あら、自信がないのね? じゃあ本気で落としちゃおうかしら……」


「嫌ああああああ!!?」


 瑠夏が秀司の頬に手を添え、見せつけるようにことさらゆっくりと顔を近づけたため、沙良は盛大な悲鳴を上げた。


「何する気なのよ秀司に触らないで!! 離れて!! 離れてって言ってるでしょ!?」


 泣きながら沙良は瑠夏を引き剥がし、空いたスペースに自分の身体を割り込ませ、全力で秀司を抱きしめた。


 秀司を力いっぱい抱きしめるなど通常では考えられないことだが、いまは緊急事態だ。

 恥ずかしいだのなんだの言っていられない。


 毛を逆立てた猫のように、ふーふーと荒い息を吐いて沙良は瑠夏を威嚇した。


 瑠夏は秀司に「これでちょっとはお礼になったかしら?」という視線を向け、秀司はこっそり親指を立てた。


 とにかく秀司を守ろうと必死な沙良は二人のやり取りに気づかず、大和だけが肩を震わせていたのだった。

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