第十二話 約束


 六つの頃から宮の外の出たこともない人だ。

 知らない里で一人にしたらどうなるか。


 薬草畑を抜け、大通りに出る前の小道で、あっさりとランは捕まった。


「待って!」


 肩を掴んで振り向かせれば、睨むような視線が返ってくる。

 怯みそうになるのを抑えて、きっ、と視線を合わせた。


「一人で行ってしまわないでください」

「お前は此処に残るんだろう?」


 藍が淡々と言う。

 だから、皓皓コウコウを置いて一人で行ってしまおうとしたのか。


「その話は断ってきました」

「何故?」

「何故って……」

「籠の中で無意味な対のごっこ遊びをやらされるより、此処で医師の真似事をしている方がまだ役に立つ」


 こちらの気持を逆撫でしようとする物言いに、あおられているのだとわかっていても、腹が立った。

 皓皓がどれだけ鷺学ロガクの手を握り返したかったか、知りもしないくせに。


「僕がいなかったら、貴方、一人じゃ何処にも行けないでしょう?」


 藍の顔からすっと表情が消えた。

 失言だった。

 思った時にはもう遅い。


「……その通りだ」


 仮面を被ったような無表情。出会った時と同じ。

 そういえば、藍はこんな顔をしていた。

 少しの間で随分と当たりを和らげてくれるようになっていたのだと、今になって気が付いた。


「所詮、一人では何も出来ない片羽かたはね忌子いみこだ」

「ご、ごめんなさい。そんなつもりじゃ」

「これ以上俺に関わるな」


 本当に感情が高ぶった時、それを隠して表情を殺す。

 皮肉な物言も、情動的な言葉を抑えるための癖。

 自分も同じだから、皓皓には藍がそうする理由が理解出来る。

 もっとも、皓皓の場合は藍ほどわかりやすくあからさまなものではない。

 無愛想にする代わりに笑って見せて、毒を吐く代わりに謙虚に振る舞う。

 それが皓皓なりの、他人との距離の取り方だった。


 怖いのだ。人と関わることが。

 人と関わることで、自分だけが一人であることを再認識させられるのが、怖い。


 里の皆は優しい。

 養父母は心の底からいつくしんでくれた。

 鷺学がどれだけ皓皓のために心を砕いてくれているかも知っている。

 それでも、彼らには彼らの半身がいて、その絆は他のどんな線でも書き替えられない。皆が己の半身よりも強く皓皓を想うことは、決してないのだ。


 この先一生、自分が誰かにとっての一番大切な存在になることはない。


 その事実は皓皓の心の底に、いつまでも塞がることのない穴を開け、薄ら寒い風を吹かせている。

 藍の中にも同じ風が吹いているのを、皓皓は感じ取っていたはずなのに。

 何が彼を一番傷付けるか、わかっていたはずなのに。


 きびすを返そうとする藍の袖を、反射的に掴んでいた。


「行かないで!」


 人目もはばからずに叫ぶ。憚らずとも人目のない場所なのが幸いだった。


「貴方が傷付いていることを、僕は知ってる。貴方が優しい人だということも、僕は知っているんだ」

「俺の、何処が」

「そうじゃなかったら、自分に関係ない流行病の研究なんてするもんか」


 宮の書庫に積まれていた膨大な量の医学書と報告書。庭を飾るには華やかさの足りない薬草たち。手慰てなぐさみに扱うには厄介過ぎる問題。闇しか見えない夜の露台。

 藍は閉じ込められた宮の中で、目も手も届かない所で苦しむ、見ず知らずの誰かのために、何かをしようと模索していた。


「僕は貴方の力になると決めたんだ。今、決めた。里で診療所を手伝うより、その方がきっと皆を救うためになる。

 藍だって言っていたじゃないか。『対処療法じゃ駄目だ』『根本から解決しなきゃならない』って」

「……俺には何も出来ない」


 背を向けたまま、藍は苦い物を吐き出すように言った。


「専門家でもない。あの宮から出ることさえままならない。それで、何が出来ると言うんだ?」

「僕が手伝う。貴方が望むなら、僕がいつだって連れ出してあげる。君の力になる」

「俺は、」


 幾重いくえにも重なる殻の中。そこに蹲る本心は、雛鳥よりか弱く震えている。

 今の藍の背中が震えているように。


「俺は、俺に関わった誰かを、不幸にしたくない」

「ならないよ」


 我ながら驚くほど躊躇いなく力強く、言い放つ。


「『忌子』なんて嘘だ」


 心の片隅でずっと同じ負い目を抱えてきた皓皓が、決して自分には掛けてやることの出来なかった言葉を。


「もし、神様が力を与えてくれなかったせいで生まれた片羽が災いを呼ぶ忌子なら、そんな運命を背負わされたのが藍なのだとしたら……

 そんな神様、僕は認めない」


 短く息を吸い込んだ後、藍は、それを深く長い溜息として吐き出した。

 ようやく振り返ってくれた彼の目は、明るい空の下でまるで藍色あいいろの宝玉のようだった。


「お前一人に認めてもらえなかったところで、神様とやらは痛くも痒くもないだろうな」


 またそうやって皮肉を言って隠した藍の感情は、どんな色をしているのか。


「……帰る。いい加減抜け出したのがばれるかもしれない」

「藍」

「責任を取って連れて帰れ。俺は、一人では何処にも行けないんだからな」

「……うん」


 それが、答えだ。


「ところで、さっきからお前、随分な口のきき方をしてくれているな」

「え? あ、も、申し訳ございません!」


 勢いに任せてぶちまけてしまった言葉の一つ一つを思い返し、どっと冷や汗が溢れた。

 忘れていたわけではないが、藍は我が国の皇子様なのだ。そんな相手にして、なんという不敬な態度を。

 真っ青になった皓皓を横目で見て、藍は「別に、いい」とぶっきらぼうに応える。


へつらった態度を取られる方がしゃくさわる。そのままで構わん」

「でも、」

「そっちが本音だとわかった今更、また取り繕い直せるのか?」


 意地の悪い言い方に、青い顔が一瞬で赤く染まり変わる。


「……わかったよ。藍」


 敬称を省いて唇に乗せたその名前は、とても綺麗な音を持って響いた。




 二人が宮に戻る頃には日は中天ちゅうてんを過ぎ、こっそり抜け出してから半日以上が経っていた。

 露台の上に降り立った皓皓は藍を背中から降ろし、変化を解く。

 室内へ繋がる扉は出て来た時のまま開きっ放しだ。


 藍と皓皓が忽然と姿を消したことに使用人たちは大騒ぎ――ということもなく、宮の中は普段と何も変わらない静謐さを保っていた。


「本当に誰も気付いてないの?」

「そんなものだ」


 どうやって宮を抜け出したのかと問い詰められたらどう言い逃れしようかと、そればかり考えていた皓皓は拍子抜けする。

 慣れない外出に疲れたと言って、藍がさっさと自分の部屋に引き上げてしまったので、皓皓も釈然としない気持ちのまま充てがわれた部屋に戻った。

 自分の家に戻った時からそのままだった襤褸着ぼろぎを、与えられている着物に着替え終わった丁度その頃合いに、小翡しょうひ小翠しょうすいが果物やら菓子やら、小腹を満たせそうな物を盆に載せて運んで来た。


「夕食の支度にはもうしばらく掛かりますから」


 皓皓が朝から此処での食事に手を付けていないことを承知しているとしか思えない配慮に、


「ねぇ、僕たちが……」


 と尋ねようとして、止めた。

 尋ねられてしまえば、二人は正直に答えるしかなくなる。どちらにせよ、墓穴を掘るだけだ。


 皓皓が藍を連れて宮を抜け出したことも、皓皓が相手を持たずとも一人で飛べることも。

 皓皓が突然藍への言葉遣いを気安いものに改めた理由も、二人だけの秘密ということにしておけばいい。


 窓から見える空は今日も青かった。

 籠鳥ろうちょう雲をう、と藍は言ったけれど、どうせ憧れるなら雲より晴れ渡った青い空の方がいい。

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