月は願う

第4話

 憤怒、憎悪、苛立ち、そして焦り

 様々なモノが意味をなし、形をなし、「力」となり渦を巻いて襲いかかる。


 紫色の瞳が閃く。

 荒れ狂う「力」はその度に力を失い、意味を失い、無化されて定常状態へと戻っていく。

 しなやかに影が動く。フワリと舞う長い髪。暗闇の中で淡い光が揺らめく度、「無」より生じた歪みが意味を成し、形を成し、文字通り無形の刃となって化け物を切り刻んでいく。

 

 それは不思議な光景だった。

 

 さっきまであたしを追い詰めていたあいつが、逆に追い詰められていく。

 

 人外のものを翻弄する力。それもまた人外のものに他ならなかった。淡い輝きを放つ紫色の瞳が閃く度、生まれてくる力。それは巨大な意志の力だ。とても強靭な魂の煌めき。それが見えない刃となって異形の化け物を切り刻んでいく。

 

 敵わないと感じたのか、ついに化け物は逃走を開始した。


「ち」


 軽く舌打ちし、深く息を吐く。爆発する意志。一際大きな力がその体を包み込んだ。


「あ~、はいはい。全く有希子ゆきこは人使い荒いんだから……」


 とぼけた口調で神無。チラリとあたしを見て意味ありげに微笑んだ。その姿がボヤけ、ひとつの形となっていく。収束していく力。それは文字通り光り輝くひと振りの剣となって、その手におさまった。


 そして一閃。

 

 解き放たれた力は、異形の化け物を粉々に粉砕し、虚空に消えた。

 

 シンと静まり返った夜の田舎道。思い出したように聞こえてきた虫の声……

 ふー、と息を吐くと、その人は振り返り、

 

 そこであたしと目が合った。


「………」

「………」


 暫くそのまま見つめ合う。固まった時間。言葉が見つからない。


「いや、その、何だ。これはだな……」


 先に沈黙を破ったのは向こうだった。その瞳からはいつの間にかあの不思議な紫色の光は消えている。髪の色と同じ漆黒の瞳。何故かその瞳を居心地が悪そうに泳がせながら、その人が言う。


「そ、そうそう。素振りの練習だ。私はこれでも昔剣道部とかに所属していてな、こういう星が奇麗な夜には無性に練習がしたくなるんだ」


 などと言いながら、ブンブンと腕を振る。はぁ、そうですか。


「いや、でも、アヤシイひとじゃないぞ。私は極めて健全な精神の持ち主だ。うん。安心するがいい。だからまぁその……」

「………」


 沈黙に耐えられなくなったのか、突然、「じゃあな」と踵を返した。


 あ、ちょっと待って。


「ねぇ、あんた。神無が見えるの?」


 あたしの声にピタリとその足が止まった。


「……なに?」


「ひかり!」


 その時、聞き慣れた声と共に複数の足音が後ろから聞こえてきた。


「おい、大丈夫か!?一体何があった?」

「なにって……?」


 あたしを揺り動かす宏樹の腕。あたしはそこで初めて自分がペタンと情けなく地面に腰をおろしていることに気づいた。腰が抜けてしまったのか、足に力が入らない。

 宏樹を見る。何だか久しぶりにその顔を見たような気がする。

 ああ、本当にちゃんと戻ってこれたんだな。そう思ったとき、途端に視界がゆがんだ。


 込み上げてくる感情。あ、だめだこりゃ……


「ひ、ひかり?」


 皆が唖然と見つめる中で、やはり呆然とする宏樹の腕の中で、


 あたしは本当に久しぶりに、大きな声を出して泣いた。


 怖かった。本当に、怖かった。


 悪い夢を見ているようだった。本当に、もう勘弁してほしい。

 





「信じられんな。こんな何もない場所でこれほどの物理破壊を伴うなど、あり得るのか?」


 荒れ果てた部屋を見回しながら、独り言のような声を漏らしたのは、霧崎有希子きりさきゆきこさん。あたしを助けてくれたあの女の人だ。


 本人は「通りすがりの高校教師だ」なんて言ってたが、そんなありふれた言葉で表現できる人でない事はあたしがよく知っている。


「ねぇ、ひー坊、あの人誰なの?」


 とちひろが耳打ちしてきたが、あたしだってよくわからない。


 まるで夢の中を彷徨っているような気分だった。今だにどこまでが現実で、どこまでがそうでないのかすらわからない。だけど、それが現実に起きたことだということは、この部屋の惨状が物語っている。


 リビングの中はひどい状態だった。あちこちにモノが散乱し、食器や戸棚のガラスなどはところどころ割れてしまっていて手がつけられない。扉もほとんど全壊状態で、まるで強盗にでもあったような有様だ。後片付けも大変だが、おばさんへの説明をどうしようかと考えると正直言って頭が痛い。


「さて、何があったのか詳しく教えてもらおうか」


 変わり果てたリビングを後にし、台所に移動した後、あたしは、自分が経験した事、そして見たことをなるべく詳しく話すことにした。


「チャットか。それは興味深いな」


 話している間、有希子さんがそうやって適度に相槌を打ってくれることは大変有難かった。ただ、やはりと言えばそうなんだけど、他はみんな、一様に怪訝な顔をして聞いているのが辛い。


 無理もない。あたしですら、未だにあれは夢だったんじゃないのかとすら思えるような状況なのだ。恐らくあの部屋の状態を知らなければ、こんなこと誰も信じやしないだろう。


 「見たもの」と「体験した事」の不整合。それが存在しないのは、この中では恐らくあたしと有希子さんの二人だけだ。


 案の定、あたしが話し終えた後、ちひろが真っ先に疑問を口にした。


「要するに、パソコンから化け物が出てきて、ひー坊を追いかけ回した上、お姉さんがそれを追い払ったってこと?」

「そう」

「それがHiro?」

「それは……わからない」

「うーん、なんかちょっと実感がわかないな。だって何もいなかったよ?ひー坊、夢でも見てたんじゃない?」


 まぁ、それが常識的な見解というものだろう。ただ、こいつに言われると少しだけムカつく。こいつ、普段あんな風なのにこういうところは割と常識人なんだな。


「確かに、にわかには信じがたい話ですが……」

「いや、俺は信じるぞ」


 そう言いだしたのは意外にも我がクラスの良識派のひとり、我らがクラス委員長様だった。


「こいつがああいった形で泣くのは今まで見たことがない。俺はこいつが嘘をつくやつじゃないことを知っている。なりは小さいが、筋は通った奴だ。だからこいつがそう言うならそうなんだろう」

「……」


 ……こ、こらこら宏樹。あまり真顔で恥ずかしいことを言うんじゃない。

 

 柄にも無く赤面するのを感じる。さっきまであいつの腕の中で泣き叫んでいたかと思うと尚更だ。


 その……まぁ、そう言ってくれるのは有難いけどさ……ホ、ホラ美月が見てるじゃないか。


「だけどさ~、私には何も見えなかったよ。そりゃ私もひー坊を信頼してるし、変だとは思うけどさ。現にあんな風になってるわけだし……」


 と、リビングの方に目をやるちひろ。

 そして何故かうんうんと満足げに頷く霧崎有希子さん。


「なるほど、目の前で得体の知れない現象が起こっていることは認めるが、そこに何者かの意志が介在することは認めないと?いい感覚だ。その判断が科学を進歩させる。なかなか有望だぞ君は」

「そ、そう?」


 えへへと照れたように笑うちひろ。どうも褒められることには慣れていないらしい。


「では、その考えにアンチテーゼを提供しよう。思想や科学は常に反証にさらされてこそ発展するものだ。ついてくるがいい」


 そう言って有希子さんは歩き出した。向かう先はリビングだ。


「そうそう、君、ひかりちゃん……と言ったかな?眼鏡を外してこれから起こることを見ること。そして感じたありのままを伝えろ。いいな?」

「へ?」

「これは命令だ。君には後で聞きたいことがある。だが、その前に少しだけ実験をさせてもらおうと思っている。とにかくまずはその邪魔な遮蔽物を外してありのままを感じろ。プラセボか何かはわからないがそれは実に無意味だ」


 有無を言わさぬ口調。


 ぷらせぼ……って何だろう?まぁいいか。あたしが眼鏡を外すと、それでいい、と満足そうに頷き、有希子さんはリビングの扉の前まで移動した。そして「うん。条件はそろっているな」と言いながら、壊れた扉に軽く手を添えると、再びあたしたちの方を振り返った。


「さて、ここで問題だ。ここで何らかの異常現象が起こり、部屋を破壊したとする。それは確かに珍しい現象だが、ごく普通の自然現象なのかも知れない。極めて稀なケースだが、ありえない話ではない。そこでだ」


 とちひろのほうを向き、


「この壊れた部屋が、同じようにことはあるだろうか?」

「へ?そ、それは無理なんじゃない?」

「いいから目を閉じて考えろ。ひょっとして、破壊された部屋なんてものは実は存在しないのではないか?きっと気のせいだろう。そうは思わないか?」


 そう言った途端、世界がまた反転した。


 淡く紫色に輝く瞳。その体から生まれる「力」があたりを満たしていく。空間に刻まれた表象――それは過去の記憶。そして様々な記憶。張り巡らされた数多の経路。その無限とも言える選択肢の中から、をからめ取ると、編み物のように繊細に、そして大胆にそれを結び付けていく。

 時間にして数秒、だがあたしにとっては永遠に近い時間が過ぎたとき、不意にまた世界が反転した。そして――


「あ、あれ?」


 扉は元通り。扉を開けて中を確かめてみると、部屋はまるで何もなかったかのように整然とした姿を取り戻していた。


「さて、このように壊れた部屋が元に戻ることもあれば、たまたま壊れることもあるだろう。実に自然な現象だ」


 言いつつ呆気にとられる周りを見回す。


「だが、それがたまたまではなく何者かの意志が介在しているとすればどうする?例えばこの部屋を破壊した者が居るとすれば――」


 そしてあたしを見ながら、


「それは誰だ?」





「とにかく、谷口のことをもっとよく調べてみる必要があるだろうな」

「私もお兄様に何かご存じでないかお聞きしてみようかと思います」

「わ、私もちょっと色んな子に聞いてみるよ」


 いや、常識が覆される瞬間というのはこういうものかも知れない。もはや誰もあたしの話を疑わなかった。ホント、びっくりだ。


「何が見えた?」

「ええと、確かみんながイメージした瞬間……」


 何だろう。うまく言葉で表すことが出来ない。「考えろ」と言われた途端、様々な部屋のイメージが浮かんだ。その中で共通項を照らし合わせ、最もありえそうなものを選択し、空間の記憶のようなものと組み合わせていく。そんなイメージだ。


 身振り手振りを交えて説明するのをじっと聞きながら有希子さんは何度も頷く。


「その通りだ。どうやら本当に君には見えているらしいな。ひとは論理整合性の欠如したものについては、様々な憶測を巡らせる。現実とはより期待値の高い願望のようなものだ。不可解な現象と目の前の現実の間には、放置されたままの曖昧な状態が数多存在する。その中からこの場所に残る記憶と照合し、再構築しなおす。私が行ったのはそれだけのことだ」


 いや、「それだけ」って言われましてもねぇ


「でも私、カンゲキですよお姉さん。初めて本物の超能力者と言うものを見ました。後でサインしてもらってもいいですか?」


 まさに有頂天と言った様子のちひろ。だが何故かギロリと睨まれる。


「超能力者だと?」

「え?あ、あの私何か気に障るようなこと言いました?」

「ああ気に障ったとも」


 と、それはもう不機嫌そうに、


「理解不能なことを超能力として片付けるのは知の怠慢だ。いいか、この世に証明不可能なものはない。この能力もそうだ。私が視覚イメージとして認識しているものを普通の人が認識しないのは、それが網膜を刺激する光の波長とは無関係だということを意味する。つまりこれは一種の共感覚だ。通常では見えないものをあたかも見えるかのように視覚イメージとして脳が認識しているに過ぎない。そこまではいい。問題はそれが何なのかということだ。未知の波動か、あるいは暗黒物質と呼ばれるものなのか――と、そうそう忘れていた」


 と今度はあたしの方に向き直り、


「ひかりちゃん。君は言ったな?こいつが見えるのかと?」


 指さす先には、とぼけた顔で宙に浮かぶ小悪魔……


「う、うん。やっぱり有希子さんにも見えるの?」

「もう一度聞く。この悪魔が」


 やたらとそこだけを強調する。あたしがもう一度頷くと、有希子さんはガックリとうなだれ深くため息をついた。そしてジト目になってあたしを睨む。


「何故平気な顔をしていられる?」

「え?だって、見えるものは仕方がないじゃん」

「仕方がないわけがあるか!妖精だぞ!悪魔だぞ!こいつが見えるようになったとき、私は我が目を疑ったぞ。全く馬鹿げてる。これがシャルル・ボネ症候群って奴かと思った。いや、それはそれでいい。それだけなら主観的な問題に過ぎない。どうとでもなる」


「だから僕を無視したんだよ。酷いよね~」と神無。


 いや、わからなくもないけど……


「だが、他に観測者が居るとなると全く事情は異なる。馬鹿げてる。これがどれだけ馬鹿げているかわかるか?そうだな。例えば、君たちが何らかの数式を解いていることを考えるがいい。どんな数式でもいい。難解な数式を解いている最中のことだ。あれこれと解法を考えていると、突然その数式が立ち上がり、タップダンスを踊りながらこう言うのさ。『そんなことより僕と遊ばないかい?』どうだ?悪夢だろう?ああ悪夢だとも。全く馬鹿げてる」


 いや、それは悪夢というより……


「よくわかんないけどさ、メッチャ楽しそうだよね?それ」


 うん。あたしもそう思う。


 と、ちひろの言葉に頷いたとき、ゴチンと一発殴られた。痛い!何で?


「お前が言うな」


 アハハと笑う悪魔が一匹。世の中は理不尽です。





 時刻は12時を過ぎていた。もう寝る時間だ。


「ひとつだけ聞きたいことがあるんですけど……」


 それまでずっと押し黙っていたしぃちゃんが突然そんなことを言い出した。


「さっき、部屋を直したみたいに、その……死んだ人を生き返らせることも出来るんでしょうか?」


 とても真剣な顔で有希子さんを見つめる目。その視線を受け止めながら有希子さんは静かに眼を閉じた。じっと思考を張り巡らせているようだ。


 暫くして、


「理論的には可能かも知れんな」


 厳かにそう言った。


「だが、少なくとも私には無理だ。その概念がない。そうだな。説明のために、少し補助線を引こう。あのぬいぐるみを見るがいい」


 と、指さす先には可愛らしい熊のぬいぐるみが机の上に乗っている。


「例えば、何かの拍子にあのぬいぐるみがバラバラになってしまったとする。とても大事なぬいぐるみだ。だから修理屋へ持って行って直してもらうことにした。一週間後、完全に元に戻ったぬいぐるみが元の通りその机の上に乗っている。そこに何の不自然さもない。完全に元通りだ」


 次にこめかみ辺りを指差し、


「では考えるがいい。例えば君たちの友人がバラバラ死体となって見つかったとする。とても大事な友人だ、だからへ持って行って直してもらうことにした。一週間後、完全に元に戻った友人がいつもの生活をし始める。そこに何の不自然さもない。完全に元通りだ。だが果たしてそうだろうか?それは本当に元通りか?」


 その場面を想像する。少しゾッとした。


「私にはそれがとても禍々しいものに思える。それが答えだ」


 しぃちゃんはもう何も言わなかった。


「さぁ、子供はもう寝る時間だ。今夜は安心して眠るがいい。夢は創造力の源泉だ。人は夢を見ることで世界に彩りを与える。よく眠ること。それも君たち子供に与えられた大事な役目だ」


 その言葉を最後にして、夜の講義は終了し、こうして慌ただしくも不思議な一日は過ぎて行った。


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