第11話

 朝、藤吾は洗面所で顔を洗っていた。冷たい水を顔にかけると、ぼんやりとした心まですっきりと目覚める。タオルで顔を拭いていると琥珀の大声が響いてきた。

「何でそんなことおいちゃんが勝手に決めるの!?」

 藤吾は驚き急いで琥珀達のもとへ向かうと、肩を震わせて怒る琥珀と、目を閉じて腕組みをして黙っている老田がいた。

「ど、どうしたんですか?」

 うろたえる藤吾が声をかける。それに気が付いた琥珀は「なんでもない」と一言だけ言って台所へ行く。

「お、老田さん、いったい何が」

「気にすんな、驚かせて悪かったな」

 そう言って老田も「少し出てくる」と言って、外へ出ていった。藤吾は琥珀の様子を見に行くが、後ろから見ても怒っているのが分かって声をかけられなかった。結局朝ごはんの時間でも老田は戻ってこず、会話もないまま二人で朝食を済ませると、琥珀は手早く準備をして登校して行った。

 藤吾は二人の喧嘩を見た事がない、初めて見た喧嘩が激しいものだったので驚いていた。老田が戻ってこないので、藤吾はどうしていいか分からず、暫し途方に暮れていた。仕方がないので、いつも通り片付けや掃除をすることにした。

 藤吾は朝、掃除を行っている。廊下の雑巾がけ、はたきをかけ、掃き掃除、ごみをまとめておく、こうした作業が藤吾は好きだった。一度老田に掃除機を使えばいいと言われたこともあるが、掃除機が家になかったので、こうして手でやる掃除の方が慣れていた。

 それにこうした作業は考え事をするのに適していた。作業は手が覚えている。体はそれに任せて、頭は考え事にさく、藤吾は玄関を箒で掃きながら琥珀達の喧嘩について考えた。

 老田と琥珀は本当の親子より強い情で結ばれている。しかし喧嘩もよくする。むしろ繋がりが強いからこそ感情的になるのかも知れない、父親と喧嘩した事がない藤吾はそう思った。それでも琥珀があそこまで大声を張り上げていたのを見たのは初めてだった。どんなやり取りがあったのか、聞いていなかった藤吾には分からない、しかし二人の間に流れる剣呑な空気はただ事ではなかった。藤吾が知らないだけで、二人の喧嘩が怒気が帯びたもので珍しくないのかも知れないが、藤吾はそうは思わなかった。琥珀は怒った声や顔の奥に悲しさがあるように感じて、老田はいつもの鋭い眼光が余計に厳しさを思わせるものだった。そのような喧嘩がそう何度もあるとは藤吾には思えなかった。

 どんな事があったにせよ二人には仲直りしてほしい、藤吾はそう思った。しかし自分に何かできることがあるだろうかという考えには、中々妙案が思いつかない、せめて琥珀の話をしっかり聞いてあげよう、そう決めて掃除用具を片づけていると、玄関に一台見慣れない車が停まった。

 車から降りてきた人物に藤吾は見覚えがあった。文化祭の時に老田に話しかけていた琥珀の担任の教師だ。教師も藤吾に気が付いたようで近づいていく。

「こ、こんにちは」

「こんにちは、老田志郎さんはご在宅ですか?」

 教師の言葉に藤吾は焦る。老田はまだ戻ってきていなかった。

「す、す、すみません、老田は今朝方家を出て戻っておりませんでます」

 慌てて訳の分からないことを言う藤吾に、教師は苦笑いをする。

「落ち着いて、老田さんから私が来ることは聞いてないですか?」

「き、聞いてないです」

「そうですか、約束してたのですが」

 藤吾はそれを聞いて驚いた。老田はきっちりとした人で、そう簡単に約束をたがえるような人ではない。

「あ、あのちょっといいですか?」

「はい?」

「じ、実は今朝、琥珀さんと老田さんが大喧嘩したんです。そ、それで老田さんは出て行ってしまって」

 関係あるか分かりませんがと藤吾が付け加えると、教師は合点がいった顔をした。

「もしかしたら喧嘩の原因は私のせいかもしれません。時間はまだ余裕がありますので、老田さんが帰って来るまで待たせていただいても構いませんか?」

 藤吾は「勿論です」と言って教師を家へ招き入れた。


 お茶を用意して教師の前に置き、藤吾も座る。

「改めまして、私は琥珀さんの学級担任の木谷と申します」

 そう言って木谷は礼をする。藤吾も慌てて礼を返した。

「失礼ですが、お名前は」

「あ、げ、源田藤吾と言います」

「重ね重ね失礼ですが、どういったご関係でしょうか?」

 藤吾はぎくりとして体を固める。どう答えるのがいいか迷い、文化祭で老田が使った言葉を思い出した。

「あ、あの従兄です。じ、事情があって居候させてもらってて」

 嘘をつくのも心苦しかったが、説明が難しいのも事実だ。藤吾は申し訳ないとは思いつつ、そう説明した。

「なるほど、そういう事でしたか。立ち入った事を聞きまして、申し訳ありません」

 木谷の謝罪に藤吾は余計申し訳なさがこみ上げる。しかし藤吾はここで引く気にはなれなかった。木谷が言った喧嘩の原因というのが藤吾には気になっていた。それを聞くためなら多少の罪悪感は厭わなかった。

「そ、それで、喧嘩の原因とはどういうこと何でしょうか?」

 藤吾は思い切って聞いてみた。

「そうですね、源田さんは高校は出られましたか?」

「は、はい、卒業しました」

「進路は?」

「しゅ、就職です。卒業してすぐに」

「準備はどうです?どれくらいから始まりました?」

 藤吾は少し時間を使って思い返す。バイト先の店長の紹介ではあったが、所掌の手続きは丁度始まっているころかも知れない、あまり労なく就職まで漕ぎつけたので、記憶はそこまで定かではなかったが間違いないと思った。

「い、今くらいだったかと」

 木谷は頷いて話を進める。

「程度の差はありますが、そうです。人や学校によって違いますから一概には言えませんがね」

 中々話が見えてこなかったが、順立てて説明するのが木谷の性格なのだろう。

「琥珀さんはとても成績優秀です。進学ならどこでも太鼓判を押せます」

 教師がそれだけ断言するのを藤吾は初めて聞いた。学校で成績優秀な生徒はいても皆どこは行けるがどこはダメだと話していたし、教師は生徒を引き締めるためか、あまり甘いことを口にしなかった。

「でも、そ、それがどうして喧嘩に繋がるのですか?」

「琥珀さんはまだ進路希望調査票に何も書けていません」

 藤吾は思わず「えっ」と声を出して驚いた。話の流れから進学先について口論したものと思ったからだ。

「な、何もって、本当に何も書いていないんですか?」

「そうです。本人とも面談を重ねたのですが、話が決着することがありませんでした」

 琥珀にそんな事情があった事を藤吾は知らなかった。そう考えると琥珀は家で学校についての話を殆どしない、文化祭の時に初めて学校での様子を少しだけ聞いただけだった。

「それで老田さんにその事を相談させてもらいました。文化祭の時には概要だけ伝えて、今日改めてお話させていただこうと思っていたんです」

 藤吾にもようやく合点がいった。恐らくではあるが、老田が琥珀の進路について何か切り出して、それが琥珀を怒らせたのではないか、そして木谷が言う「原因」はこの事が切っ掛けになっていると考えているのだろうと藤吾は思った。

「時期的に生徒たちは繊細で多感です。普段は怒らないことにも反応していまったり、必要以上に態度に出してしまったり、その結果としてご家族との関係悪化を招いたりもします。もしかしたら私の言葉が老田さんを焦らせてしまったのかもしれません」

 木谷は話を進める程首が下に向いた。責任感の強い人なのだろう、琥珀だけでなく老田についても心配しているように藤吾は感じた。

「あ、あの先生、ちょっと話からそれるのですが、聞いてもいいですか?」

「あ、はい大丈夫ですよ」

 藤吾は重い空気を変えるためにも、少し気になっていたことを聞いてみた。

「こ、こ、こ、琥珀、は学校で親しい友人のような関係性の生徒はいないのでしょうか?」

 木谷の手前琥珀を呼び捨てにするのに若干詰まりながら、文化祭で出会った女子生徒たちに言われて気になっていた事を聞いた。琥珀が周りから一線引いているようだと聞いていたが、普段の様子や一緒に暮らしてきて、誰とでも仲が良くする姿しか見たことがない、それゆえ不信に思っていた。

「そうですね、社交的ではありますが、友人はいないと思います」

 木谷の言葉に藤吾はまた驚いた。

「ああ、孤立しているとかではないですよ。むしろ琥珀さんは自ら離れているように見えます」

「あ、あのそれは、一年のブランクがあったからですか?」

「いえ違うと思います。前の担任の先生からも同じことを聞きましたから」

 二人の教師が証人となると、話の信ぴょう性も増す。藤吾が何か思いつく理由はあるかと聞こうとしたその時、玄関が開く音と大きな声が聞こえてきた。

「藤吾ちゃん!いるか!?来てくれ!志郎が倒れてる!!」

 玄関に居たのは相田だった。いつもの血色のいい顔色が真っ青になっている。事態の深刻さを予感して藤吾は相田と共に飛び出した。

「老田さん!!」

 老田は家からすぐ近くで倒れていた。藤吾は老田に駆け寄って意識を確認する。脂汗を額ににじませ低く唸っている。呼びかけに首を振って応えているが、呼吸も荒くなっている。

「かっちゃん救急に連絡してください!」

「今私が連絡しました!」

 木谷が駆けつけた。手早く連絡まで済ませたようだ。

「呼吸はありますが、AEDを探しましょう」

「それなら役所にあるのを見たことがある!俺が行くから藤吾ちゃんは志郎を頼む」

 相田や木谷が迅速に行動し、救急車もすぐに到着した。老田はすぐに救急車に乗せられて、それを相田に車を出してもらって藤吾も追った。

 いつも大きく見える老田の姿が、ストレッチャーに乗せられていると酷く小さく力なく見えて、藤吾はひたすらに老田の無事を祈った。

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