清澄の旅路

ま行

序章

 たどり着いた時に感じたのは目に染みるような青い空の色だった。夏の日差しがじりじりと肌を焼くのもお構い無しに光を浴びて限界まで息を吸い込む、空気は草木にまじって土の匂いもした。

 電車とバスに揺られて長い時間を過ごし、固まった間接を手足をぐんと伸ばしてほどく、何回かぱきぱきと乾いた音を鳴らした。

 地面に置いていたリュックサックを手に歩き始める。目的地には着いた。目的を果たすだけだ。

 ただ一つの目的は自殺することだった。


 源田 藤吾(げんだ とうご)は26歳の青年。家庭の都合で高校卒業してから小さな工場に就職し工員として働いてきた。

 父子家庭で貧しく、父親は仕事こそしていたもののギャンブルを止められなかった。手にいれた泡銭は次のギャンブルで文字通り泡と消え、敗けが込めば明日のご飯にも困る次第であった。

 そんな父親でも高校までは藤吾を通わせた。どこからお金を作ったのか藤吾には分からなかったが、自らもアルバイトを掛け持ち僅ながら家計の支えとした。

 父親のギャンブル癖は止まず、ただでさえ火の車な家計を何とかやりくりする生活では、大学進学など選択肢にもなかった。バイト先の店長が知り合いの社長を紹介してくれた縁で就職してから、やっと自分のためにお金を使えると思った矢先に父親が肺癌に侵された。

 それからというもの父親は今まで以上にギャンブルにのめり込み、酒やタバコもたがが外れたように溺れていった。父親の体は悪くなり続けて仕事もできず、藤吾は決して多くない給金を医療費と家計、ギャンブルと嗜好品代に回さなくてはならなかった。

 それでも藤吾は父親を見捨てることはできなかった。母親は幼い藤吾を残して別の男と蒸発した。残された父親は身寄りがなかった。幼い頃捨てられて施設で育ち、親族と呼べる人を知らず、一人のまま社会に出たため助けを求める術を知らなかった。

 幼い子供を男手一つで育ててくれた恩義に、藤吾は背を向ける事ができなかった。それが刷り込まれた恩義であっても、それを否定しうる価値観を持ち合わせていなかった。

 仕事をこなしながら父親のケア、その上家事のすべてを行い家を支える過労に藤吾の精神は擦りきれていった。

 自殺を決意させた出来事は父親の死であった。酒もタバコもギャンブルも好き放題やって、突然崖から崩れ落ちるように具合が悪くなった。動けなくなった父親はたった二日で死んでしまった。病床に就き、震える手で藤吾の手を掴んだ父親からは信じられない言葉が出た。

「お前なんて産まれなければよかった」

 それだけ言い残して目を覚ます事はなかった。藤吾は目の前が真っ暗になって倒れて、目を覚ました時には言葉を上手に発することが出来なくなっていた。

 単純に言葉が出ないこともあれば、出ても声量が全然なかったり酷い乞音であったりと、およそ言葉に関して自由がきかないようになった。

 仕事に復帰しても症状が良くなるどころか、これまでどうやって会話していたかも失念してしまうこともあり、基本的なコミュニケーションも取れない酷い状態に陥った。社長は藤吾を心配して病院に連れていき、最終的に精神的なストレスによって引き起こされたものだと診断された。

 休息をとるように社長に勧められたが、藤吾の心はボロボロに傷ついてままならなかった。迷惑をかけたくないと職を辞めて、世話になった人々や友人達の前から姿を消した。


 一人になって過去を振り返り、自分のために生きるためにはどうすれば良いか考えていると、いかに自分が虚であるかに絶望していった。それは不自由な人生や使い込まれた金、最後にかけられた非情な言葉と積み重なった心の澱が藤吾の心から生きる気力を奪った証左であった。

 そうして自然と思い付いた事は自殺であった。最後まで世界に迷惑をかけるのも憚られたが、もう思い付いたことがその一つだけであった。最後くらい我が儘に物事を決めてもいいのではないかと、藤吾は行動を開始した。

 いつでも動けるように頑丈なリュックサックを用意した。場所はどこか遠くがいいと、用意できた金額で行けるところまで行くことにした。方法は何でもいいが、海の藻屑と消えたり山の土に還ったり自然の塵になれたらといいと考えた。

 そうして旅の果てにたどり着いたのが、見たことも聞いたこともない山奥の小さな村だった。

 リュックの中には数日分の着替えと持てるだけの現金のみ、身の回りの物の処分はすべて済ませてしまったので、帰るところはもうない、何もかもを失って降り立った地は眩すぎるほど美しかった。

 ここで人生を終えられる事に藤吾は少し期待感をもった。村の人になるべく迷惑をかけないために、目につかないように森のなかへ入った。

 木々を掻き分け草木に足をとられながら歩みを進める。こうした経験は初めてだった。木の根や岩でぼこぼことした地面を踏みしめると足裏がずきずきする。それでも何か子供の頃に感じた高揚感が歩みを進めるほどに覚えた。

 少し開けた場所に出た。小さな川が流れて水がキラキラと輝いている。写真や絵で切り取られるような美しい場所だった。

 直感的にここがいいと感じた。リュックをその辺に投げて川に頭を突っ込んだ。冷たい水で顔と頭を洗って砂利の上に寝転ぶと何故だか笑いが込み上げてきた。ここでは何も分からない、水はあっても何が食べられるのか知らない、野に生きる動物に食まれてしまうかも知れない、何も出来ず自らの無力さを味わいながら朽ちて乾いていくと思うと笑えてしかたがない。

 笑えて笑えて、青くすみきった空の下で大の字で寝転がって大笑いした。そうしたら今度は目から大粒の涙が零れてきた。止めたくて手のひらで押さえても止まらなかった。そのうち嗚咽も漏れてきてしゃくりあげて子供のように大泣きした。

 何故自分が、何故自殺なんて、何故誰にも知られず、何故こんな何故何故、どうしてこんな事にと思いが溢れて止まらなかった。

「お、お、お、俺はう、う、産まれないほ、方がよかったのか、かなあ?」

 すごくすごく久しぶりに口から出た言葉は、あの日返せなかった父親の呪詛への返事だった。

「何言ってんの?」

 いつの間にか藤吾の顔の上に誰か知らない顔が覗き込んでいた。驚いて飛び起きて後ずさる、声をかけてきた人は女性だった。

 栗毛色した長い髪の美人で、眉目秀麗とはこのことかと思うほどだった。ラフな格好をしているがこの場所に似つかわしくない雰囲気を纏っている。この川の女神様だろうかと馬鹿な考えが頭をよぎる。

「ここ私の秘密の場所なの、お兄さんここで何してるの?」

 まさか人が居るとは思っていなかった藤吾は、どうにか取り繕うために喋ろうとするが声が出なかった。なんとか身振り手振りを使って声が出ないことを伝えた。

「まさか声が出ないの?さっきは何か言ってたのに、まあいいやちょっと待ってて」

 彼女はそう言うと自分の肩から提げていた鞄から、ノートとシャーペンを取り出して筆談を促した。

『実は上手く声が出せません』

「ふーん、そういう病気とかなんか?」

 藤吾はこくこくと頷いた。

「そっか、それでここで何してたの?村では見たことないけど」

 その言葉に激しく動揺する。誤魔化そうにも藤吾には上手い説明は思い付かなかった。ペンを握りしめて固まっている藤吾を怪訝な顔で女性は見る。

「ちょっと!大丈夫?」

 大汗をかいて顔を真っ青にする藤吾に驚いて、女性はとっさにハンカチを取り出して汗を拭いた。

「そんなに言いたくないなら無理しなくていいよ」

 藤吾の心は限界に到達した。大汗は大粒の涙に変わり、ノートに一言書きなぐり女性へ返すと膝を抱えて号泣し始めた。

『死にに来ました』

 ぐしゃぐしゃにのたうつ文字の線は藤吾の心の叫びだった。泣き声も思うまま上げられない、ボロボロに傷つけられた精神が出した悲しい答えだった。

 痛々しく体を小さく折り曲げて泣く藤吾の背中を、女性は優しく優しくあやすように撫でた。どれだけ涙を流して体を震わしても、青く広がる夏空に響くのはけたたましい蝉の鳴き声だけだった。

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