天使になる方法

@pkls

1 この世は愛で満ちている

 天使がいたので、本村もとむら莞治かんじは立ちどまった。

 天使も立ちどまった。肩のところに、片目が黒ブチで覆われたうさぎがしがみついていた。

 天使はふわりと舞うように本村の方へ近づいた。それから、首からさげた小さなポーチから何かを取り出し、本村の手の中に閉じ込めた。

「あなたを見て、とっても幸せな気持ちになれました」

 天使は澄んだ瞳で、くすぐるように本村の風貌を観察した。

 ふわふわの、わたあめのような寝癖頭、雪だるまのようにふくらんだプリズムカラーのシャツ、毛羽立った白のスウェットパンツに、頑丈そうなバックルが装着されたスケルトンブーツと、胸に抱いた、栗色の髪の着せ替え人形。

 本村は手を開いた。Aの字が羽を広げたような絵柄が刻まれた、丸い金のチャームがあった。

「幸運のメダロワです」

 天使は言った。「あなたにも、幸せが訪れますように」

 天使は、本村の横をすり抜けて歩き出した。

 本村は振り返った。踊るように遠ざかる天使の背中には、白い羽が生えていた。

 本村は向き直って、手のひらの上の、小さな『メダロワ』を見つめた。

 本村は顔を上げた。

「え?」



「どうも————お世話になりました」

 緊張したようすで、二條にじょう理比人りひとは言った。

「こちらこそ」

 藍澤あいざわえるは柔く微笑んだ。「落ち着いたら、遊びに来てね」

 理比人は少しうつむきながら、こくこくと頷いた。

「他のみなさんには?」

 おっとりと、成願寺じょうがんじ星来せいらはたずねた。

四葉よつばさんには、昨日のうちに。矢弦ちかげさんと美羽音みうねさんも、おさんぽの前に声をかけてくださって、挨拶はもう済ませました」

「そうですか」

「またね」

 鈴掛すずかけ萌榴めるは言った。

「元気でね」

 鈴永すずなが萌苺もいは言った。

「み、みなさんもお元気で————」

 理比人ははらはらしたようすで、小さなトランクケースの持ち手を強く握りしめた。

「大丈夫?」

 そっと、理比人の顔色をうかがいながら、えるはささやいた。

「だ、だいじょぶです————」

「理比人さんなら、新しい町へ行ってもうまくやれるはずですわ」

 落ち着いた微笑みで、星来は言った。「それに、理比人さんにはわたくしたちがついています。どんなに遠く離れていても、わたくしたちは同じ空のもとで、理比人さんのご健闘を祈っていますわ」

「え、はい……そです……よね」

 思いつめたようすで理比人は言った。それから、はっとしてつけ足した。

「あの、もし、忘れ物があったら————」

「うん」

 えるが答えた。「連絡するよ。引っ越し先の住所送ってくれれば、そこに郵送するから」

「あ、ありがとございます」

 理比人はまた、トランクの持ち手を固く握った。

「それじゃ……」

 理比人は首を落として一礼すると、ぎこちなく後ずさってから、振り返って歩き出した。

 背中には、飾り気のない、シンプルな白のバックパックがあった。

 数歩歩いたところで、理比人は振り向いた。えるたちは、アーチ型の門の前で、穏やかに手を振っていた。

 理比人はその建物を仰いだ。

 九階建ての、純白のマンション。屋上にある〝天国〟を、理比人は知っている。

 理比人は歩き出した。

 えるは、理比人の心許ない背中を見つめていた。

 マンションの最上階の窓辺から、工藤くどう律子りつこは、天使たちの戯れを眺めていた。



 大好きな雛町ひなまち

 譜久村ふくむら美羽音みうねは地面から数センチ、宙に浮いたような気分で、雛町の住宅街を歩いていた。

 乙女チックでうっとりとするカフェ。宝石を閉じ込めたような、胸がときめく雑貨屋さん。おとぎ話の世界に迷い込んだような、上品で愛らしい町並み。それに————。

 美羽音は、胸がきゅんとなった。

 雛町商店街の、すてきな人たち————。


 はんこ屋の武夫たけおさんは、いつも明るく声をかけてくれる。

「美羽音ちゃん、今日もお散歩かい?」

 武夫さんは老舗はんこ屋、『翔印堂しょういんどう』の五代目主人で、商店街のことならなんでも知っている、朗らかなおじいさんだった。

 商店街の行事ごとはいつも武夫さんが取り仕切っているし、商店街の中で何か困ったことが起こると、みんな真っ先に、武夫さんのもとへ相談にかけつける。武夫さんは雛町商店街にはなくてはならない、とっても頼りになる存在なのだ。


 手芸屋のハツ江はつえさんは今日も優雅だった。

「あなた、この歳になるとね……」

 そう言いながら、ハツ江さんはビーズのチェーンがついたおしゃれなメガネをおもむろにはずして立ち上がる。

 お客さんを待つ間、ハツ江さんはカウンターの隅に座って、ミニチュアの十二単を制作しているのだ。

「あなた、うちの子なんて、それはそれは美人さんなのよ」

『うちの子』というのはハツ江さんのお子さんでもお孫さんでもなんでもなくて、ハツ江さんの自宅に飾ってあるという『立ち雛』のことだった。

 ハツ江さんは手作りの十二単を着せ替えながら、一年中、自宅で雛人形を楽しんでいるらしい。いつかわたしも見てみたい!


 ペーパーショップのルミさんは、最近お化粧を変えたようだった。

 赤いリップにベレー帽、シックな黒のオーバーオール。

 ルミさんはとってもおしゃれで、とっても気さくな店長さんだ。

 ペーパーショップ『luluルル』では、紙製品やラッピング用品の販売だけでなく、持ち込んだ品物のオーダーラッピングも受け付けている。

 ルミさんのラッピングは、丁寧でかわいらしいのはもちろんのこと、たくさんの愛情が込められているのがよく分かる。わたしも、あんな風にできたらなぁ……。


『天使の館』の島崎しまざきさんは、店の扉のところで、今日もわたしを手招きしていた。

「美羽音ちゃん、ちょっと休んでいったら?」

 お仕事の邪魔になるからと、わたしはいつも断るのだけれど、「美羽音ちゃんを見ると、みんな元気になれるから」と島崎さんは言う。

 それで、わたしはついついお言葉に甘えてしまって、お店の二階の、ラウンジのようなところで、おいしいお茶とケーキをごちそうになり、飾られた花や、絵画や、天使の像にうっとりしながら、ゆっくりと羽を伸ばしてしまうのだ。


 商店街を出たところで、知らない男の子と出逢った。

 ふわふわの髪、キラキラのシャツ、ボロボロのズボン、透明なシューズ、胸に抱いたお人形、それに、あの瞳————。

 あの子はきっと、気づきかけてるんじゃないかな?

 美羽音は、桃色に染まった夕空を見上げた。

 自分が、天使だってこと————。

 一匹の猫が飛び出してきて、美羽音は驚き、立ちどまった。

 猫は黄色い瞳で美羽音の方をじろりと見ると、すぐに飛び上がり、塀の向こうへ消えていってしまった。

「ね、まさゆきくん」

 美羽音は肩にしがみついたうさぎを見やった。「あの子、まさゆきくんとお友だちになりたかったんじゃないかな?」

 うさぎはしがみついていた。

「ふわぁ」

 美羽音は、猫がかけていった方角を見つめた。

「さちこちゃんていうんだ……」


 美羽音はすぐ近くの公園へ入った。

 まっすぐに、天使の像のある噴水のそばへ向かうと、きょろきょろと辺りを見回した。

「動くな」

 後頭部に、何かが当たる感触とともに声がして、美羽音はびくりとなった。

 だがすぐに、命令に逆らって振り向いた。

「ばぁん」

 大貫おおぬき矢弦ちかげはピストルを向けたまま呑気に言った。それから、ケラケラと笑った。

「矢弦ちゃぁん……」

「美羽音、遅い、遅刻」

「ごめんね」

「また天使の館に行ってたんだろ」

「な、なんで分かっちゃうの?」

「分かるよ。美羽音のことなんて」

「なんなの、これ」

 美羽音は、矢弦が手にしているピストルの銃口をつついた。

酉飾とりしかのおもちゃ屋で買った」

 矢弦は宙に向けて水鉄砲を放った。

「もう……。なんでそんな物騒な見た目のやつなの」

「だって美羽音がヘビとかビリビリはやめてって言うから」

「銃もなし」

「分かったよ」


 二人は、公園を出て歩き出した。

「理比人のやつ、もう行ったかな?」

 矢弦は言った。

「うん。多分」

「俺————」

 噛みしめるように、矢弦は言った。

「『やりたいようにやれ』とか、『理比人の人生』だとか言ったけど、ほんとは、やめないでほしかった」

「うん。知ってた」

 顔を向けずに、美羽音は言った。

「嘘」

 驚いて、矢弦は顔を向けた。

「ほんと。矢弦ちゃん、いつも笑ってるけど、本音がバレバレなんだもん」

「ほんと? やば。理比人にもバレたかな」

「どうかな」

「でも、理比人の気持ちを尊重したいっていうのも、ほんとだから」

「うん。分かってる」

 少し、顔を上げ、真剣な表情で、美羽音は言った。「みんな同じ気持ちだよ。私たちも、律子さんも」

「どうして、やめなくちゃならなかったんだろう」

「優しすぎるんだよ、理比人君は。配りたいものがありすぎるの。知らない街の、知らない人たちにも」

「それは、分かるけど……。だからってやめる必要はないだろ? 広く活動したいっていうなら、それこそ、うちにいたままの方が、もっといろんなことができるわけだし」

「退屈しちゃったのかも」

 美羽音はにっこりと笑った。

「今の活動に?」

「ううん。天使でいることに」

 矢弦は考え込むように押し黙った。美羽音は言った。

「矢弦ちゃんだってそうでしょ? 時々、人間のふりしてよそへ行って、怒られたとか、失敗したとか言って、笑いながら帰ってくるじゃない」

「それは————。そんなの、ほんの遊びみたいなもんだろ?」

「理比人君も、それくらいの気持ちなのかも」

「俺は心配なんだよ!」

 矢弦は立ちどまった。

 美羽音は、はっとして振り向いた。矢弦の顔はふるえていた。

「俺は、辛いことがあっても、理不尽なことを言われても笑い飛ばせるけど、あいつは——理比人は優しいから————」

「でも」

 まっすぐに、美羽音は言った。「理比人君は知ってるよ。この世は————」

「そう、思えなくなったら?」

「え?」

「だってそうだろ? みんな、みんな……」

 天使をやめたら忘れてしまう。



「知らない?」

 和室の隅に小さくなって、天藤てんどうはじめは言った。

「だって、他に学生なんていなかっただろ。え? そこはもう聞いたよ。うん、うん……。ナオちゃんとこもケンちゃんとこも聞いた。うん。だからあ、よっちゃんはとっくに社会人だって。そう。最初見たとき誰なのか全然分かんなくて。俺らの中じゃいつまでも子どものままだなって、あの時みんなで話してたろ。……それは姉さんが場もわきまえずべろべろに酔っ払ってたからで————え? ああ。えー……っとぉ……」

 はじめは重たげに立ち上がり、タンスの上を覗き込んだ。

「大文字で『A』って描いてあって、なんか、両側に羽みたいなのが……」

 はじめはタンスを背に、ずるずるとしゃがみ込んだ。

「うん。だろ? 頭文字が『あ』って、俺も全然ぴんと来ない。ああ……。それは……俺も思ったんだけど……」

 はじめは、ちらりと廊下の方を見やった。

美栄子みえこがさ、そういうのよくないって。ほら、今、こういうときだし。なんていうか……バチ当たり————みたいな」

 玄関のチャイムが鳴った。

「ちょ、ちょっとま——」

 はじめは畳に手をついて進み、廊下に顔を出した。

「おーい、美栄子ぉ。みえちゃあん」

 居間の方から、テレビの雑音だけが小さく響いていた。

 チャイムが鳴った。

「はあい! 今!」

 とっさにはじめは叫んだ。それから、スマホを耳に当てた。

「もしもし? ごめん、いったん切るから。うん。また今度、みんなで……。うん、うん。はいはいじゃあね」

 そっけなく言い、はじめは通話を切った。

 チャイムが鳴った。

「はいはいよぉー」

 しつこいな。

 思いながら、はじめは急ぎ足で玄関へ向かった。

 誰だよこんな夕食時に。

 戸を開けると、見知らぬ人間が二人、立っていた。

 一人は白のワンピースを着て、長い髪を二つ結びにし、肩にうさぎのぬいぐるみをくっつけている。

 もう一人は白のマウンテンパーカーに白のハーフパンツ。髪は毛先がはね上がったショートヘアだった。二人揃って、安穏とした表情を浮かべている。

「お忙しいところ申し訳ありません」

 二つ結びの方が言った。

「どちらさま?」

 呆気にとられながら、はじめはたずねた。

「僕たち、『マカロニ・エンジェル』というライフスタイルブランドの者です」

 パーカーの方が言った。

「少し、お時間よろしいでしょうか」



 酉飾町とりしかちょうにある老舗CDショップ『ドーナツ堂』の片隅で、池脇いけわき徹也てつやは待っていた。

 入店してきた二人組が、池脇の前を横切り、地下のライブハウス『ドーナツホール』へと続く、フライヤー塗れの階段を下りてゆく。

 池脇は、後ろの壁に張られたフライヤーの一枚を見やった。


  DEATH AND FIRE


   出演 June Trip Ⅲ

      scapula

      Bahnsteig

      FUJIMAKI

      LUWAZY


 なだれ込むように、店の扉から、大槻おおつきみやびと倉沢くらさわ穎悟えいごがやって来た。

 大槻はピンクと水色のツートンカラーのうさぎのぬいぐるみを振り回していた。「ゲーセンで取ったそ」

「なんだそれ」壁際からぴくりとも動かずに、池脇は言った。

「知らないの? 『そくばくうさぎ』。今流行ってんだよ? こう————」

 大槻はうさぎの前足を、自身の二の腕に巻きつけた。「腕に巻いたり肩に乗せたりできんの。束縛されたい人向け」

「本村は?」

 憂げな瞳でさりげなく店内を見回して、倉沢はたずねた。

「知らね」池脇は言った。

「ライブもう始まっちゃうよ?」

 うさぎを首に巻きつけながら、大槻は手近にあった陳列棚を物色しはじめた。「うっひあ。8センチシングルかわよ」

 灰緑色のスクールバッグを気怠げに背負った倉沢も、ふらりとその場を離れ、店内をうろつきはじめた。

 池脇はため息を吐いた。

「何してんだよ」



 蓄音機から、ゆったりとしたオールディーズが流れていた。

 部屋の隅に、ひなぎく柄のソファが置いてある。

 手前にあるローテーブルの上にはティーセットが。傍らのラックには、新作のタイトスカートやギンガムチェックワンピースが掛けられていた。人気のボックス型ショルダーバッグは、残り一点だった。

 小林こばやしアリスは着せ替え人形を抱きながら、寝癖頭で飛び込んできた客のようすをうかがっていた。

 変なの。

 この人、全然うちのイメージじゃないし。

 じゃあ何って言われると、困るんだけど。

 ゆめかわ? グランジ? サイバーパンク?

 とにかく、なんで入ってきたんだろ。

 試着したいって言うから、良かれと思って、持ってた人形、預かっちゃったけど。

 そもそもなんで人形持ってたの?

 それも込みでファッションなの?

『ドーリー』ってそういうことじゃないと思うんだけど。

 まあ、うちの服、気に入ってくれるなら、なんでもいいや。

 どう? うちの服。

 かわいいでしょ? 内装込みでかわいいでしょ?

 そりゃあね、いろいろとこだわっちゃってるもん。

 インテリアから、BGMから、香り、接客、包装まで。

 うちの店に来たら、みんなが、お嬢様気分に浸れるように、細部まで整えてあるんだから。

 今時、かわいい服なんて、掃いて捨てるほどあるでしょ?

 でも、どうしてうちが求められるかっていうと、そこに確固たるブランドイメージがあるからなのよ。

 商品のデザインやディティールはもちろん、うちの商品を取り入れて過ごす生活、そのものが、一つの商品なの。

 そして、店舗は、正規のブランドイメージを体感できる特別な場所。

 だからショップ店員は、ブランドイメージをしっかりと把握して、ブランドが作り上げる世界の住人に、徹していなきゃだめなのよ。

 って店長が言ってた。

「いかがですか?」

 控えめに、そして愛らしく、アリスは聞いた。

 マカロニ柄の深緑のスーツに身を包んだ本村は、姿見の前で両手を広げた。

「めっちゃマカロニ」

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