枢軸特急トルマリン=ソジャーナー 異世界逗留者のインクライン

水原麻以

昭和発

 時に、昭和六十三年三月。太平洋岸の地方都市。


 藤野祥子の死刑執行日が四月九日に迫っていた。気の早い女友達は届いたばかりのセーラー服で登校したり進学先の校則に従って髪を切っていたが祥子はとても迎合できなかった。


 性同一性障害の社会的認知に程遠い昭和六十三年の世界において彼女の主張は我儘に他ならない。六年生の三学期も半ばを過ぎると、飛び石の登校日は行事の予行演習や諸手続きに費やされた。


「士別れて三日なれば刮目して相待すべし」の格言どおり、周囲の男子生徒は日に日に変貌を遂げていた。公立中学では男子は丸刈り、女子はおかっぱ頭と規定されていた。青々と剃り落とした頭を得意げに触らせる者もいれば、丸坊主強制への抵抗感からか憂鬱になったり神仏への取引を模索する者もいた。恵まれた家庭の子供は私立への入学が決まり憎悪と羨望を集めていた。


 祥子は後者の部類に属しており、どうしてもスカート着用を回避したかった。小学生の間は体操着とポリエステル繊維の短パンで性差を糊塗できるが中学ではそうもいかない。服装で性別を固定されることは祥子にとって死を意味した。


自分は男だ。周囲の無理解に彼女は遂に裁ちバサミを持ち出した。自分も男子と同じハゲ頭になれば両親も諦めるだろう。母親が異変に気づいて涙ながらに止められた。女はしおらしく生きて嫁に行け。いい旦那を捕まえて子づくりに励め。髄まで染まった母親の敗北主義を祥子は軽蔑した。


「祥子、一回ぐらい制服に袖を通しなさい」

「お父さんにもセーラー服姿を見せてくれ」


 両親は娘の苦悩など微塵にも感じず親バカという名のエゴを振りかざす。

 同調圧力が氷壁となって彼女に迫ってくる。そこで祥子は天変地異の到来を願った。世界大戦勃発でもいい。四月九日までに義務教育が瓦解して欲しい。希望がかなわない場合、彼女は自ら命を絶つ覚悟を決めた。


 死んでやる。一刻も早く女の身体から解放されたい。祥子は肌が裂けるような寒空の下で外敵の襲来を待ちわびた。

 住家は急行が止まる駅から三つ離れた駅前徒歩二十五分の辺境地で水田から蛙の大合唱が聞こえてくる。二階の廊下を突き当たると急峻な屋根を昇る階段に出る。その先に祥子の秘密基地があった。朽ちかけたベランダは野鳥の休憩所と化している。


 祥子は満天の星を振り仰いで外患誘致に励んだ。ペントラペントラ宇宙の友よ、我らの前に姿を現し給え。心の中で三度唱えれば人知を超えた光が乱舞する。

 そのようなことを矢追純一の特番で学んだ。


 ちょうどいま、一階の茶の間から父親が忌み嫌う超常現象の体験談が漏れ聞こえる。彼女の母親は正反対の性格でオカルト番組に目がない。今夜のゲストは著名な元日本人レーサーで富士サーキット廃止騒動の煽りを受けて引退し、生活苦から臨死体験を切り売りしている。



彼は競技中にハンドル操作を誤りヘアピンカーブで転倒事故に遭った。緊急手術で九死に一生を得たものの一時は心停止に陥った。そこで彼はあの世らしからぬ未来都市に踏み入れたというのだ。


 ほんの一瞬の出来事で冥界の主らしき女神に追い返されたという。それは彼の故郷である台湾の高美湿地が銀河を湛える景色と瓜二つだそうだ。最後にレーサーは神の居城は旧態依然とした神殿でなく精巧な摩天楼であり、そこに神智学と科学が歩み寄る余地を見いだせる、と締めくくった。


 町営図書館の司書である父は番組を科学研究の荒廃だと一蹴し、迷信家たる母は人間の驕りを戒めた。それを機に夫婦間の緊張が一気に高まった。父は形勢不利と見るやいつも愛娘に応援を求めてくる。祥子は身勝手な懇願を無視して双眼鏡を覗き込む。


 建設中の宇宙ステーション・ミールに思いをはせる祥子の浪漫と、長女を生物学的な性別の型にはめようとする父親の思惑の間に百億光年の隔たりがあった。


 屋根の下で夫婦喧嘩が臨界点に達した。後ろ手にポケットラジオをつけて、父の懇願を打ち消す。日本向けのモスクワ放送。いつも通りのニュースがソユーズ飛行士を讃えていた。


「祥子ー。そこにいるのか!」


 階段を駆け上がる音が迫る。祥子は右手を腰に伸ばした。ジャージをおろして下に重ね履きしている体操ズボン姿になるとラジオを置き去りにして屋根を滑り降りた。そよぐ夜風が肩に髪を撫でつける。

 親は切るなと煩いが男子のようにさっぱりと丸坊主にしたい。裏庭から土手を上がれば天井川だ。


 着地の瞬間、祥子は法面(のりめん)に彗星を見た。それがトラックのヘッドライトだと知ったのは蘇生した後の事だ。指定暴力団溝口組の運転手はハンドル操作を誤った。対立する事務所から少し離れた藤野家に時速百キロで突っ込んだ。


 百聞は一見に如かずを身をもって体験した。


祥子の体は回転灯が照らす倒壊家屋から担架に移された。救急隊員が泥だらけの短パンをパンティーごと鋏で裂き、電動バリカンの唸りが頭蓋骨に響いた。青々と剃りあがった祥子の頭部に看護婦がマジックで円を描く。ガチャガチャと輸血瓶を鳴らしてベッドが搬送された。医学ドラマでよく見る無影灯がパッと輝いた。彼女はいきさつの全てを第三者視点で眺めていた。

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