第54話 まるで少女のように

 八月四日。今日、斎藤のカレーがついに発売された。初めは彼も交えた打ち上げを企画したが、お店があるので、と断られている。あの店は、代打がきかない。店を継いだ以上、親を簡単に頼りたくない彼の気持ちも分かった。上司は来て欲しかったようだが、そこをうまく丸め込むのも樹里の仕事だ。チームメンバーだけで小さく打ち上げをして、これから彼と待ち合わせるところである。いつもは仕事に着ないような、薄いブルーのシャツを着て。大樹が物珍し気にニヤニヤしたのを一喝し、自分にも言い訳をしながらここへ来た。今日は仕事の締めだからだ、と。

 待ち合せは、スーパーの前。デートではなく、これは仕事の延長だ。それでも、朱莉には相談をした。この服をチョイスすることになったのも、彼女の意見である。今日も定時に、樹里の部署へ駆けて来たくれた朱莉。メイクのチェックをして、大丈夫だよ、と笑ってくれた。だからきっと、何事もなくを終えられる気がしている。


「松村さん、ごめん。待たせちゃったかな」

「いえいえ、全然。大丈夫ですよ」

「そう? 良かった。お疲れ様」


 爽やかな顔をしてやって来た斎藤に照れ、お疲れ様です、と言いながら目を逸らした。大丈夫かな。変な格好していないよな。ちゃんと鏡を見て来たというのに、些細な事が心配になる。少しでも綺麗な自分で会いたい。もう仕事の関わりがなくなるからか、そんなことを思った。


「何だか緊張して来ました」

「だよね、分かる。ふぅ……よし。行こう」


 斎藤の掛け声にコクンと頷き、樹里は彼に続く。ちょっとだけぎこちない表情に、彼の緊張を感じている。ここは、二人とも来慣れたスーパーだ。何がどこに置かれているのか、無意識に体が動くように知っている。だから、足は迷うことなくレトルト商品の棚の位置へ向かった。斎藤はその手前で止まると、クルッと振り返り「行くよ」と強張った顔で言う。釣られた樹里もぎこちなく頷き、二人はそこを曲がった。


「あ、あった……」

「ありましたね。何だか、感慨深いです」

「わぁ、わぁ。どうしよう。買って帰ろうかな」

「自分で作れるのに? 記念にですか」

「そう。笑っちゃうけど」

「じゃあ、私も買って帰ろう。斎藤さんのカレーが食べたくなったら、これでいつでも食べられますもんね」


 二人でそこに手を伸ばす。『新発売』のポップがユラユラと揺れ、パッケージであの不細工な象が笑っていた。実家にも送ろう。いや、すぐに盆休みだ。私が担当した商品だよ、と持って行けばいい。あんなに憂鬱だった帰省も、少しだけ楽しみに思える。隣で斎藤は、嬉しそうなニヤ付きを浮かべたままその棚を見ていた。今沸き起こっている感覚は、樹里とはまた違うのだろう。プロジェクトのコンセプトに合っていた彼のカレー。それを勧める自信はあったし、彼の料理をもっと知って欲しいと思っていた。もしかしたら、これがヒロミとの結婚の後押しをしてしまうかも知れない。だとしても、樹里は良いと思っている。それくらい真剣に向き合って、時間を費やした。自信を持って世に送り出した商品なのだ。後悔などない。

 会計を済ませてエコバッグに入れたそれを、すぐに覗き込んだ。そして急に実感が沸く。あぁ終わったんだ、と。今、樹里の中には二つの大きな感情がある。一つは、プロジェクトが終わったことへの安堵。もう一つは、純粋に彼と会う機会が減るという寂しさだった。押さえ付けていた淡い心が動く。好きだと言ってしまえばいいのに。悪魔もそう囁いた。


「松村さん。本当にありがとう。貴重な体験をさせてもらいました」

「いえ、こちらこそお世話になりました。この味をいろんな人に知って欲しいなって、斎藤さんのカレーを推したんです。私の身勝手な思いもあったと思います。快く引き受けてくださって、ありがとうございました」


 深々とお辞儀をすると、斎藤が微笑んでいた。何かいつもこうしてペコペコし合ってるよね、と。そういえば、そんなことが沢山あった。不安定な心を誤魔化すためにそうしたこともある。出会ってから、そんなことばかりだ。彼への気持ちは、仕事に忙殺されれば、薄れて消えるのだろうと思っていた。でも結局、今も樹里は斎藤のことが好きだ。


「ここでさ、お辞儀し合っても。僕たち同じマンションに帰るよ?」

「あぁ、本当だ」

「じゃあ、帰ろう。お腹空いてない? 何か作ろうか」

「えぇ……あ、でも。きっと先に、ブンタが散歩アピールしますよ?」

「そうだった……じゃあ、一緒に散歩に行きませんか」


 自然な流れだった。何もおかしなところなどなかった。行きます、と答えた樹里の声が上擦っただけだ。仕事も終わり、完全にプライベートで誘われた。そう勝手に心が跳ねたのだ。まるで少女のように。

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