第51話 あの不細工な象を

「本当に行くの?」

「行くよ。どこ?」

「えぇ」


 朱莉は、計画を曲げることはしない。アフタヌーンティーへ行き、土産を探して、焼き肉を食べたのが昨日のこと。今日はゆったり目に待ち合わせて箱根へ行き、観光などはせずのんびり温泉に浸かってきたところである。肌の水弾きの差を感じたが、そんなことはすぐにどうでも良くなったくらいに、とても気持ちが良かった。こういう時間の使い方って贅沢よね、と笑いながら帰路についたはずだった。電車の待ち時間、朱莉が言い出したことに樹里は納得がいっていない。

 二人が降り立ったのは、戸越。つまりは樹里の最寄り駅だ。晩ご飯に斎藤のカレーが食べたい、と言い出した朱莉に、こうして手を引かれている。納得しているわけではなく、気乗りしてもいない。ただ引き連れられているだけである。千裕のことがあって、斎藤と散歩に行ったのは一昨日のこと。嬉しかったし、やっぱり好きだと思った。でも、わざわざ会いに行くようなことはしたくない。当然そう言って反論はしたのだが、こういう時の朱莉は本当に話を聞かない。土産の饅頭を買わされ、何ならメイクも直された。鼻歌を歌う朱莉は、どっち? と上機嫌で問い掛ける。


「いいよ、平野くんにでも聞こう。私、連絡先知ってるの。あぁネットで調べても出て来るか」


 もうこうなった彼女は、頑として意見を曲げない。分かったよ、と樹里が折れるのも想定内なのだろう。こっち、と不満気に指差すと、更に朱莉は上機嫌になった。反して樹里は、斎藤の店に近づき足が重くなる。彼に会いたい気持ちはあるが、ヒロミがいたらどうしようと小さく怯えていた。

 見慣れてきた店の前に立ち、いつもの少し重たい扉を開ける。キィッと音を立て中に入ると、ふわりとコーヒーのいい香りが届いた。


「こんばんは」

「あれ、松村さん。こんばんは、いらっしゃい。今日は、どうしたの」

「あぁ、すみません。朱莉が、どうしても斎藤さんのカレーを食べたいってきかなくて」

「へへへ。こんばんは。一昨日はご協力いただいて、ありがとうございました」


 樹里の後ろから顔を出した朱莉。調子がいいんだから、とヤキモキしても、結局は可愛い後輩だ。それに、彼女はこの恋の全てを知っている。冷やかしに来たわけではないだろうし、おかしな方向に進めようとすることもないだろう。それだけは信用している。


「いらっしゃい。朱莉ちゃんは、カレーでいい? 松村さんはどうする? 材料があれば、なんでもいいよ。メニューに載ってなくても」

「あ、えっと……お土産です」


 注文を聞かれたのに、おずおずと饅頭を差し出した。「箱根に行ったんだ。ありがとう」と受け取ってくれた斎藤。ニヤニヤしている朱莉を一瞬睨んで、カレーを二つお願いします、と告げた。


「はい。じゃあ、ちょっと待っててね」


 爽やかに去って行く斎藤を目で追っていた。朱莉のことは、『朱莉ちゃん』と呼ぶんだ。そんな女々しいことが引っ掛かっている。一昨日の流れもあるし、そもそも斎藤は彼女の名字を知らない。仕方ない、仕方ないのに、ほんのちょっと羨ましかった。


「落ち着いて見たらさ、そんなにおじさんって感じじゃないね」

「こら、そんなこと言わないで」

「ごめん、ごめん。でも、あの元カレよりずっと似合ってると思うよ」

「あぁいや、ほら。ね、これは一方通行だから」

「あぁそうだった」


 店内には男の人が一人。今日はクリスマスだ。喫茶店でのんびりする人も少ないのだろう。今更メニューを覗いた朱莉は、ナポリタンも美味しそう、と目を輝かせる。彼女のこういう少女のようなところは、いつ見ても可愛らしいと思った。

 その時だった。あのジングルベルが流れ始めたのだ。体が無意識に反応して固まる。もう千裕のことは終わったこと。今更苦しむ必要などない。そう思っているのにどうしてか、千裕とのことを考えてしまっている。悔しかったのだろうか。何もなければ幸せは続いていたと思っているのか。呼吸が少し乱れた。千裕は嘘をついていた。それは、分かっている。でも、忘れられない。二人で見た月。二人で食べたもの。二人で聴いた音楽。幸せだった記憶だけが、胸の中に蘇っていた。


「樹里ちゃん、大丈夫? あ、あぁ。これか」

「え、あっ、ごめん。大丈夫。嫌ねぇ、終わったことなのに」

「でも、仕方ないんじゃない?」


 仕方ない、仕方ない。でも、それでいいのかという疑問が残る。何故千裕は、この曲を聞き続けたのか。毎年新しいクリスマスソングをかけたくせに、これだけは残り続けた。その疑問が、未だにモヤモヤしているのかも知れない。


「お待たせしました。キーマカレーです」

「わぁ。やった。樹里ちゃん、おいしそう」

「あ、うん。そうだね」


 ようやく終わりが見えてきた曲に、幸せだった時間がまだグルグルと回っている。それと、釣られるように顔を出した裏切られた痛み。笑って話をしていても、それがしこりのように鎮座している。


「斎藤さん。パッケージとか決めたんですか」

「朱莉、流石に早い。パッケージまで行くのはまだ先よ」

「あぁ、そうなんだ。私、部署が全然違うのでよく分かってなくて。すみません」

「いえいえ。僕もちっとも分かってないですよ。松村さんの誘導に乗って、選んでるくらいで。意見を言うのは味だけです」

「まぁ樹里ちゃんは、そういうところは、ちゃんとしてるから。きっと大丈夫です。あぁでも、あの象を描いたらいい気がしますけどねぇ。ほら、ちょっとブサ可愛いっていうか。私も印象に残ってましたし」


 ブサ可愛いって、と呆れるように繰り返した時、カウンターに座った客がプッと吹き出した。チラチラとそちらを気にしたが、その人はこちらを見なかった。すると斎藤は、あれはなぁ、と零す。とても気不味そうな顔をして。樹里はそれを見て思い出していた。前に彼が、『ヒロ』と言い掛けたことを。きっとあれは、ヒロミが描いたものなのだ。


「どなたかが描かれたのなら、その方の許可を取れれば問題ないですよ」

「あ、ホント? 分かった。じゃあ……今度聞いて、みるか。でも、あの象そんなに良かった?」

「そうですね。ちょっとこう……印象強かったのは確かです。ガネーシャかと思ったけど、よく見たら普通の象でしたし。でも、あれなんですよね。そうすると、このお店のマスコットみたくなるので、ご両親にも相談された方がいいかもです」


 それは嫌だな、と彼はぼやいた。彼女が描いた物を、大々的に店のマスコットに仕立てるのは憚られるのか。複雑な思いはしたが、それでもあのイラストは目を引くだろう。ヒロミが描いたのだとしても、樹里はデザインが良ければ推すつもりでいる。あの不細工な象を。

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