第48話 歪んで見えない

『慌てなくていいですよ。ホールにいますね』


 彼がブンタの散歩に誘ってくれた。どうしよう、何を着よう。樹里は、適当に選んだワンピースを脱ぎ捨てた。時間がないのに、あれこれとワードローブを漁り引っ張り出す。明日着て行こうと出した服の上に、気付けばもう何枚も重ねていた。コンタクトも外してしまったし、眼鏡で行かなきゃいけない。髪のクルッと纏めてしまった。そこの公園まで行くだけだ。そのくらいは、目を瞑ろう。散歩に行くのだと、靴はスニーカーか。その色に合わせて、下から順に決めていく。黒のスキニーの上に、ゆったりしたオフホワイトのニット。ダウンを着て、ストールをぐるっと巻き付ける。うん、多分大丈夫。部屋を出て深呼吸をしながら、彼が待っているホールへ駆けた。

 ドキドキと煩かった胸が、増して大きな音になる。口から出て来そうなくらいに。


「すみません。折角お家に帰ったのに、お誘いして」

「いえいえ。寧ろ、ありがとうございます。最近ブンタに会えてなかったから、嬉しいですよ」


 何を澄ましているのだろう。誘ってもらえて、嬉しかったくせに。ちょっとそこまで行くだけなのに、部屋は今ぐちゃぐちゃになっている。なかなか彼を真っ直ぐには見られずに、ブンタをグルグル撫でまわす。嬉しそうに揺れた尻尾を見て、ふふふッと声が出た。ブンタは可愛い。ドキドキしているのも見透かされているようだ。行きましょうか、と彼が言えば、ブンタはキリッとした顔に戻る。二人の間を歩くブンタは、斎藤と樹里の顔を交互に見上げながら歩いた。


「眼鏡、なんですね」

「あ、そうなんですよね……コンタクト外した後だったので。ちょっとお恥ずかしいですが」

「そうです? 似合ってますよ」

「あ、ありがとう、ございます」


 ボッと顔が熱くなるのが分かった。恥ずかしくて仕方ない。今、どんな顔をしているだろう。「ブンタ。お散歩楽しい?」と話し掛け、わざと彼から逃げてしまった。冷たい空気にさらされているのに、なかなか頬の温かさは引きそうにない。


「遅くなっても、ちゃんとお散歩に連れて行ってくれるんだね。パパは、優しいねぇ」

「いや、優しいって言うか……やっぱり懇願されたんですよ。リードを咥えて来て、行くでしょ? みたいな圧を掛けられました」

「そうなの? ブンタ」


 ブンタの顔を覗き込む。ハッハッと息を荒くしただけで、感情は読み取れない。ただ、嬉しそうなのは表情で分かった。この間、ブンタと長く過ごして、何となくでも犬の感情を知った気でいる。飼っている人は、ちょっとした反応を上手に読み解きながら過ごすのだろう。それは飼い主本位かも知れないが、犬が幸せならいいのかと思う。寒いよね、と斎藤が肩を縮こませたら、自然と樹里も笑っていた。あぁ、公園はもうすぐそこだ。何だか少し物足りない。でも楽しそうなブンタを見ると、こっちも幸せな気持ちになった。

 ふと斎藤を見上げると、ブンタではなく樹里を見ていた。何故か、ニコニコと笑みを浮かべて。何だろう。そう思っていると、気分転換くらいになったかな、と言う。とても穏やかな声だった。


「あぁ……ありがとうございます。でも、意外とスッキリしてるんですよ。モヤモヤしてたものが、晴れた感じです」

「そっか。帰り道、ちょっと元気なさそうだったから」

「あぁ、それは……また。別の。うぅん、いや。そうですね。ちょっと無理したのかも知れないなぁ」


 斎藤さんのことで落ち込んだりしてました、とは言えない。へへへ、と下を向いて鼻を擦ったら、大樹みたいだなと思った。

 その時、温かい大きな手が樹里の頭を撫でた。頑張ったね、と優しい声と共に。胸がキュッと締め付けられる。驚いて彼を見るが、どうしてだろう、ゆらゆら歪んでよく見えない。「ごめん。嫌だったね」と、彼はサッと手を引いた。樹里は、フルフルと小刻みに頭を振ることしかできなかった。

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