第45話 ニヤリ、とした笑みを添えて

「小笠原さん。こんな男に時間かけるなんて勿体ないよ。私はね、友人とは言えないかもしれないけど……小笠原さんにちゃんと幸せになって欲しいと思ってる」


 これは本心だった。香澄のことを見ていてくれる人は、必ずいる。そして、それは千裕じゃない。樹里を陥れるためだけに、自分の人生を棒に振るようなことは決してしないと思うが、それをきちんと言葉で伝えておきたかった。ポカンとしたまま香澄が佇む。そのうちに笑いを堪えたようにえくぼを作り、ふふふっと声を漏らした。


「はぁぁ。そっかぁ。うん、そうよね。樹里、今幸せなのね」

「え、そう?」


 自分のことのように怒ってくれた朱莉。まだ心配そうにこちらを見ている大樹。巻き込まれた斎藤は、ホッとしたように微笑んでいる。確かに幸せだな、と思った。幸せだと判断する方法は人それぞれだ。こうして心配をしてくれて、寄り添ってくれる人がいる。樹里はそれでいいと思った。


「あの、俺。俺は? どういうことよ」

「そういうことよ。あのさ、千裕。彼女の愚痴なんて、あまり他人に言うことじゃないわよ。しかも、男のプライドが、なんて。私は、ちゃんと分かったよ? 樹里が転職をした理由も」

「はぁ? お前だって一緒になって」

「だから。調ってことよ。私は……ね、樹里。新しい場所に行きたくても、そうする勇気がなかった。だから、余計に悔しかったのかもしれない」


 香澄の気持ちを初めて知った。「樹里ともっと話してたら良かったのかなぁ」とさえ言う彼女に驚く。思わず朱莉と目を合わせて、フフッと微笑み合った。あれだけ強張っていた二人の頬は、いつの間にか緩んでいる。


「どうだろう? 小笠原さんが意地張らないで聞いてくれたら、良かったかもねぇ」

「あ、そういうこと言う?」

「言うでしょ」


 ようやく隔たりなく笑い合えた。出会ってから、もう十年以上。初めてのことだった。丸く収まって和んだ場に、千裕だけが取り残される。オロオロして、おかしいなぁ、と小首を傾げているのだ。


「なぁ、俺の話はどうなった? 小笠原と何もなかったことは、分かっただろう? なら誤解は解けたんだから」

「いや、だからね。そもそもが、私はあなたに嘘をつかれていたことが許せなかった。小笠原さんと過ちがあったかどうかが問題ではないの。それにね、もう戻るつもりはないよ。だって私、今幸せだから」


 樹里の脇で、朱莉が満面の笑みを浮かべる。そして大樹もその脇で、鼻息を荒くして何度も頷いた。樹里は思わず苦笑したが、まぁそういうことだ。斎藤も、ニコニコと笑っていてくれる。あぁ、やっぱり幸せだ。


「さて、帰るわ。樹里、今度どこかで会ったらさぁ、お茶くらいしようよ」

「そうだね。気を付けて。またね」

「さ、千裕も帰るわよ」

「え、いや。俺まだ話が」

「終わったでしょうよ。今、完全にフラれたじゃない。アンタ。しつこい男は嫌われるわよ」


 そう言って香澄は、千裕の頭をペシッと叩いた。「樹里、今までごめんね」と頭を下げたのは驚きだ。それから朱莉へも、ありがとうね、と微笑んだ。色々吹っ切れたようにスッキリした彼女は、千裕を引き摺り連れて行く。思い切ったことをした割に、彼は情けない顔をして消えて行った。

 その場に静寂が戻り、わざとらしく大きく息を吐いて、三人の方へ居直ると、深く深く頭を下げた。


「さて、皆さま。いろいろとすみませんでした。でも、ありがとう。本当にありがとう」


 誰にも見られたくないような、プライベートな小競り合いだった。こんな年になってまでやることではないが、結果的に全て終わったのだ。心は晴れ晴れとしている。 香澄はもう、誰かを邪魔することはしないと思う。千裕がどうなるかは分からないけれど、それは知ったこっちゃない。でも彼は、誰かに甘えながら生きていくだろう。そういうのは上手い男だ。


「いえいえ。樹里ちゃん、ホント大変だったねぇ」

「まぁね」

「でもあの人。小笠原さん? 多分、彼氏いるでしょ」

「あぁやっぱり? いないとしても、好きな人はいると思う。あの男じゃなくてね」


 朱莉がそう言うと、樹里に思い浮かんでいたことも確信に変わる。頷き納得し合う女二人に対して、大樹と斎藤は目を丸めた。香澄が、樹里の邪魔をすることだけに男と縁を切るはずがない。絶対に上手いことやっている。それが香澄という女だ。あの場で言わなかったのは、流石に千裕に同情心があったからである。


「そう言えば、なんで三人はここに?」


 疑問に思っていたことを問い掛ける。斎藤が去ったのを確認して、樹里はここまで来たはずだ。大樹がどうしてたのかは確認していなかったが、朱莉までいる。どうして皆が揃っているのか分からなかったのだ。「あぁ、それは平野くんが」と口を開いたのは、斎藤だった。


「松村さんと別れた後に、僕のところに走って来てね。二人を追ってくれって」

「え、追ってくれ?」

「あぁえっと……実はあの人。この間も来てたんです。ほら、樹里さんが斎藤さんのところへ行くって時です。月曜日かな。その時に、前に会った人だって思い出して。さっきもいたから、嫌な予感がしちゃって。でも僕は、あの人が誰だか分からない。とりあえず朱莉さんを呼びに行こうと思って、斎藤さんに僕の携帯を渡して追って貰ったんです」


 グッジョブだったよねぇ、と朱莉は大樹の頭を撫でた。それは、まるで飼い犬のように。

 それを眺めながら、あぁあの時か、と樹里はすぐに思い出す。斎藤の店へ行こうと会社を出る時だ。頻りにキョロキョロしては、落ち着きがなかった大樹。クリスマスは朱莉と二人か、なんて聞いてきたのだ。正直に言えなかったのは、千裕がどんな存在か判断しきれなかったのだろう。樹里は大樹へ、ありがとうね、と感謝を告げる。彼が朱莉を連れて来なかったら、香澄があんな風に素直に話を聞いてくれたのかは分からない。へへッと鼻を擦った大樹は、照れたようだった。


「で、私が呼ばれたの。でもさ、ここに来るまでは何のことだか分かんなくて。ただ、平野くんが急いで来てくれって必死だったから」

「そうだったんだ。仕事は大丈夫だった? 朱莉まで、ごめんね」

「そんなのどうだっていいよ。週明けにやればいいことだし。何もなくて良かったよ」


 朱莉がいつものように明るく笑ってくれる。彼女がそうしてくれると、樹里もいつからかホッとするようになった。冷たい冬の風をようやく感じる。吸い込む息が体にしみ込んでいく。張り詰めた心が、解けていくようだった。


「さぁてと、帰ろう。樹里ちゃん、明日大丈夫?」

「大丈夫、大丈夫」

「良かった。じゃあ、また明日ね」

「え? 一緒に帰ろうよ。朱莉も浅草線じゃない」

「ごめん。今日、用事があって。ほら、行くよ。平野くん」

「あ、え? はい」


 キョトンとした大樹を引き連れ、朱莉が手を振って去って行く。ニヤリ、とした笑みを添えて。ハッと樹里は、彼女の意図に気付く。あぁ、はめられた。気不味い顔をして、おずおずと斎藤を見つめると、目を合わせた彼の口元が優しく微笑んだ。

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