第32話 彼はジェントルマン

「樹里さん、何か気合入ってますね」

「まぁ、ちょっと。実は、羽根のご主人。少しだけ知ってるの」

「え、そうなんですか。なら、そう言ってくれたら良かったのに」

「でも、そういう情報は評価に邪魔になるから。あくまで平等にしてもらいたかったのよ」


 金曜日の午後二時過ぎ、大樹と一緒に戸越に降りた。課長も部長も、『喫茶店のカレー』という着眼点を褒め、すぐに進めるよう背を押してくれた。チームメンバーを商品化へ割り振りし直し、次の大きなステップは店の同意を得ること。それは当然、樹里が担当する仕事だった。

 斎藤とは、あれ以来まだ会っていない。残業が続き、ブンタの散歩の時間に合うこともなかった。母親の骨折は、大丈夫だろうか。気掛かりではあるが、今日はそういう話をしに来たわけではない。ブンタがいる時のように、穏やかに話ができれば一番いいが、これは仕事だ。線引きはきちんとしておきたい。


「樹里さん、ここですよ」


 大樹の声に顔を上げる。深く息を吐き、強張っていた頬を緩めた。大樹が指す先を追い、見つけた喫茶店。レンガ張りの、昭和感漂う懐古的な店構えだ。人通りの多い道から少し入った所にあり、静かに過ごせるだろうな、と想像した。通りから奥まった扉の脇に、小さな昔ながらのショーケースが置かれている。ナポリタンやクリームソーダの食品サンプルが飾られ、それもまたレトロな雰囲気を醸し出していた。

 よし行こう、と一歩踏み出すと、時計がメッセージの受信を知らせる。邪魔された気になり、少しイラっとして見る画面には、朱莉の名が表示された。


『そろそろ着いた?』

『緊張すると思うけど、いつも通りにしたら大丈夫だよ、きっと』

『何の保証もないけど』


 そう樹里を力付けるようなメッセージだった。斎藤の店へ行く時間を伝えていたのだ。タイミングが良くて当然か。朱莉ごめん、と思いつつ、画面に目を細めた。何の保証がなくとも、背を押されるのは悪くない。あの日、病院へ向かう斎藤に樹里も同じように言ったが、どう受け止められただろう。同じように、少しでも心の安寧に繋がっていたならいいけれど。


「よし、行こう」

「緊張しますね。今まで客として来てたのに、仕事ですもんね」

「そうね。私も緊張してる。交渉に、責任者として出るの初めてなんだよね」

「あぁそうですよね。でも、大丈夫です。僕、何回か来ましたけど。店長さん凄く穏やかで、優しいジェントルマンですから……って知ってるか」


 ふふっと笑うに留めた。そう知ってるわよ、とは言わない。言いたかったけれど、言わない。


「行くよ」


 少し緊張が和らいだ樹里は、スロープをゆっくり上った。重たそうな扉が近づくたびに、心臓の音が煩くなる気がする。大丈夫、そう言い聞かせて、その扉を押した。まだ儚く揺れている心には、がっちりと蓋をして。

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