第27話 この気持ちはきっと恋だった

「松村さん。ごめんなさい。実は、気付いてたんです。前に僕が出してたカレー屋に、お友達と一緒に来てくれましたよね。ブンタを撫でて貰った後です。でも、僕は声が掛けられなかった。あの時」


 話を続けようとした斎藤を遮り、いいんです、と強めに言った。できるだけ笑顔を作ったつもりだが、ぎこちないだろう。樹里だって、ブリキのように硬い頬に違和感を感じている。今、心の中にあるのは、あのカレー屋が見つかった喜びだろうか。それとも、あの日見られた恥ずかしさか。いや、違う。つまり、斎藤はあのカレー屋の主人ということ。ならば、ヒロミという名の彼女がいる。あのプリンを持ってきてくれた可愛らしい女の子。それに気付いてしまったのだ。

 独身だと彼は言った。その言葉だけを鵜呑みにしていたが、どうして気付けなかったのか。未婚で彼女がいる。そんな当たり前のことを想像すらしていなかった。久しぶりの淡い感情に浮かれていたのだろうか。樹里は大盛にスプーンに乗せ、口へ運んだ。


「あぁ……カルダモン。そっかぁ。あのお店の方だったんですね」

「ごめんなさい。黙っているつもりじゃなかったんだけど。言い出しにくくなっちゃって。ほら……あの時」

「あぁ、あはは。みっともないところをお見せして。こちらの方こそ、すみませんでした」


 気持ちは重苦しい。思い出されたくないことを掘り返されている。あの時泣いていたから、と彼は言おうとしたのだろう。心配そうに眉尻を落として。樹里は何とか笑みを浮かべるが、そこに心などなかった。

 ふと、思い出す。これまで、何度か感じてた違和感。彼はきっと、あの店の主人だと気付かれまいとしてくれたのではないか。あの日のことを思い出させないように。たびたび会話に起こる微妙な間。それから、カレーやプリンを出すことへの躊躇い。それは全て、斎藤の優しさなのだろうと思った。


「松村さんよりも長く生きてるから、今度困った時は、助けてあげられるかなぁ。あぁでも、悲しそうな若い女の子にスマートに声を掛けられなかったんだ。ちょっと信用ないかぁ」


 ごめんね、と斎藤は戯けた。いや、戯けてくれた。あの日のカレー屋だとバレてしまった今、せめて気を遣わせまいとしてくれているのだ。あぁ、その優しさが苦しい。 


「あの時は、まぁあんなでしたけど。でも、本当に美味しかったでんす。良かった、また食べられて」

「本当? 嬉しいなぁ。あ、そうだ。前に僕の店を探してたよね」

「え? あぁ、えっと。そうなんですよ。また食べたいなぁって思ってたのと、プリンのお礼に行きたくて」


 仕事で、とは言えなかった。その感情を今入れるのは難しい。とてもじゃないけれど、仕事の頭には切り替わらなそうだった。


「これでよかったら、いつでも作るよ。いつでも言って」

「本当ですか? やった。ありがとうございます」


 無意識に、子供っぽく振舞っていた。自分らしくないな、と微かに頬がピクリと動く。それでも、面を貼り付けたように表情を崩さなかった。湧き出ていた感情を、何一つ気付かれたくない。何も知られたくなかったのだ。

 「あの。今はお店やられてないんですか」とおずおずと尋ねる。これは、仕事というよりも興味だった。こんなに美味しいカレーを作れて、シェアレストランまでやったのだ。別のところで店を出しているに違いないと思った。そういえば、そもそも樹里は斎藤の職業を知らない。会社で部下に慕われている姿は想像出来たが、そんな話をするほど親しくはなかった。


「あぁ実はね、色々あって。あの後すぐに、実家を継いだんだ。昔からある喫茶店なんだけどね。元々は小料理屋で働いてて、自分の店を持ちたくなって。いろいろ考えて、カレー屋を出そうって決めた時だったの、あの時は。そうしたら、親が年取ったから店を閉めようかって言い出して。それならってさ」

「へぇ、そうだったんですね。とっても美味しいのに、最近出てないって聞いてたので。勿体ないなぁって思ってて」

「うわぁ、嬉しい。シェアレストラン、やってみて良かったな」


 斎藤の表情が、一気に明るくなる。その綻んだ顔を見るだけで、樹里もまた嬉しくなった。


「良かったですよ。だって私は、また食べたかったですもん。ただ、お店の名前が思い出せなくて。友人が、タケシだったかタケルだったかって。ちょうど思い出したところでした」

「タケシ? タケシでもタケルでもないよ」


 斎藤がハハハッと笑った。店の名前はマサシだよ、と。そうして彼は、ジャズ喫茶『羽根』と書かれたカードに『マサシ』と書いて、僕の名前なんだよね、と言う。斎藤匡、それが彼の名前。一つ知りたかったことを知り、胸がポワンと温かくなる。今更こんな気持ちになったって、どうにもならないというのに。


「マサシでしたかぁ。ちょっと惜しかったですね。私に至っては、あの個性的な象しか記憶になくて」

「象ね。あぁ、ヒロ……落書きみたいなもんだったよね。でも、ちゃんと看板になってたなら良かった。カレーもそこで出してるよ」


 斎藤はそう笑った。言い掛けた『ヒロ』が、樹里の胸を締め付ける。あの時、彼女に運ばせたプリン。知り合いへの慰みにくれたのだろう。シュンと折れた心が、どんな顔をしたらいいのだろうと悩み始めた。彼には、ヒロミという名の彼女がいる。これは、自分の目と耳で確認していた事実だ。それなのに、それを素直に受け止められない自分がいた。そして、その事実に樹里は困惑している。

 次に会った時に分かるんじゃないか。朱莉はそう言った。斎藤と笑いながら、ゆっくりと自分の内側を見る。純粋で素直な樹里の気持ちを。そして、悟った。あぁ、この気持ちはきっと恋だったのだ、と。

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