第19話 いいわけ

「ありがとうございました。じゃあ、おやすみなさい」

「おやすみなさい。ブンタ、またね」


 マンションに入り、彼らとは自然と別れた。彼は良い人だと思うが、名前すら知らない人には違いない。何となく部屋を知られるのは抵抗があったのだ。樹里は、ポストの方へ道を逸れた。彼らはそのまま、エレベーターのある奥の方へ歩いて行く。それを見届けると、樹里はフゥと壁に背を凭れた。さっき二人で月を見上げた時から、僅かな高揚を感じている。あの時、確かに胸が小さく鳴った。ときめいたとかではなく、私もそう思っていたの、という共感だ。久しぶりに、誰かと気持ちを分け合えた喜び。今も、ちょっとだけ嬉しい。


「独身だったかぁ」


 ボソッと声が出てから、慌てて辺りを見渡し、誰もいないことに安堵する。既婚者だと思っていた彼。初めて会った時から、温かな家庭がある感じしかなかった。幸せは、結婚の隣にしかないわけじゃない。分かっていたくせに、樹里のどこかに『幸せ=結婚』の構図があるのだと痛感する。これじゃ部長と同じじゃん。小さく呟きながら、樹里はゆっくりと部屋の方へ足を向けた。ホールから、廊下を通って、すぐに辿り着く一階の自分の部屋。あまり人に会わずに済むのが気に入っているのだが、今日は人の気配を感じる。毎日そう上手くもいかないか。そちらに視線を向けた樹里は、すぐに「あれ?」と間抜けな声を出した。


「え? あっ。僕の部屋、ここなんです」


 そう言ったのは、さっきまで一緒にいた彼。抱きかかえられたブンタは、尻尾をプンプン振っている。驚いた顔で彼が指差す先は、樹里の隣の部屋――一〇二号室。フッと小さく声を漏らして、「私、その隣です」と樹里は一〇一号室を指差した。


「まさか、お隣だったとは知らずに。ブンタ、煩くないですか」

「大丈夫です。大丈夫です。ワンちゃんの声聞こえても、まさかお隣からだとは思ったことがなかったくらいです」

「そうでしたか。良かった」


 樹里は、夜しか家にいないようなものだ。きっとブンタが鳴くような時間に、家にいなかっただけなのだろう。休日に聞こえてくることはあったが、あまり気にしたことはない。公園の近くのマンション。散歩で歩いている犬は沢山いるからだ。 


「あ、改めまして。僕、斎藤サイトウといいます」

「松村です」


 玄関扉の前で、深々と頭を下げ合う二人。不思議そうにこちらを見るブンタの鼻息が、フンフンとだけ聞こえる静かな空間。それが可笑しくて笑ったら、彼も同じように吹き出した。よろしくお願いします、と言いながらも、まだ互いに笑いの余韻から離れなれない。それから視線がもう一度合わされば、もう止まらなくなって、二人共しばらく笑っていた。

 これは運命だなんて、決して思ってはいない。こんな年になってまで、そんな夢物語など見るわけがない。ただちょっと、知り合いが増えた喜びがあるだけ。感覚が合うかもしれない人に知り合えた喜び。樹里は何だか、自分に言い訳をしている。

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