第4話 このままじゃいられない

 朱莉とどれくらい一緒にいただろう。それがはっきり思い出せないほどに、見せられたあの画面のダメージは大きかった。 どんな顔をしていたのだろうか。電車の扉が閉まっても、ホームで彼女が苦しそうな顔をしていた。最寄り駅で降りて、ぼんやりと歩く。まるで抜け殻のようだった。



『樹里さん、このことは誰にも言いませんから』

『私のことも、内緒にしておいてくださいね』



さっき朱莉から送られてきたメッセージ。あの子は優しい子だ。事実を受け止め切れなかった樹里に寄り添い、隣にいてくれた。妊娠したって泣くくせに、アイスコーヒーなんか飲まないよ。代わりになって、そう怒ってくれた。それからこうして、まだ優しさをくれる。そのありがたさを感じれば感じるだけ、虚しくて悔しかった。

 でも、絶対に泣いたりはしない。樹里は空を見上げる。今夜は少し、雲が多い。



『ありがとう』

『明日会ってみようと思います』



 戯ける余裕などなかった。苦しくて、逃げてしまいたい。でもこれは、樹里が一人で乗り越えなければいけないことだ。よそ行きの顔を貼り付けられているうちに、千裕にメッセージを送ってしまおう。気持ちが、揺らがないうちに。緊張が高まり、携帯を握る手が汗ばんだ。それを何度もハンカチで拭って、何とか操作する。いつもならスムーズに動く指が、今はやたらと鈍かった。



『千裕、明日会える?』



 たったそれだけの文章を打つのに、とてつもない時間がかかった気がする。送信をタップしようとする指が震えていた。これを触れば、もう事態は進んでしまうのだ。後戻りは出来ない。ゴクリと唾を飲み込む音が、樹里の中に響いた。明日は、いつも通り会うだけ。いつもよりもちょっとだけ、彼を観察する。朱莉じゃないけれど、はぐらかされるわけにはいかないから。もう時間はない。千裕との六年が消えたっていい。きっとそう思っていなければ、大事なことは見えないのだろう。

 樹里は覚悟を決めて、送信をタップした。大きく深呼吸をしてみる。意味などない。ただ内に籠もった黒いものを吐き出せるような気がしたからだ。鞄にしまおうとした携帯が震える。心が、ピリリと信号を鳴らした。



『本当?』

『明日で仕事は大丈夫?』



いつものようにこちらを気遣うメッセージ。千裕らしいと思うのに、胸が酷く疼いた。彼が嘘を吐いていないのならば、明日は何てことない一日になるだけだ。ケラケラ笑いながら、楽しく指輪の話でもすればいい。それだけじゃないか。



『大丈夫だよ』

『心配してくれて、ありがとうね』

『今夜会えなかったから、早い方がいいなって』

『明日だと忙しい?』



勝負は今じゃない。明日だ。今、この段階で、怪しまれるわけにはいかない。



『大丈夫』

『じゃあ、昼過ぎ』

『いつもの公園で待ち合わせしようか』



 分かった、と返し、樹里は携帯バッグにスッと落とした。さっきよりも、視線が上がっている。朱莉に感化されたのだろうか。ほんの少しだけ、心の中に獲物を捕らえるような気持ちがあることに気付く。でもきっと、このくらいの気持ちでいい。

 マンションの入口を潜ると、犬の散歩に出て来た男性と出くわした。表情は多少強張っているかも知れないが、軽く会釈をしてやり過ごそう。どうせ知らない人だ。今日はもう、何も考えたくないのだ。ゆっくり風呂に入って、寝よう。そう思った時――ワン、と吠えた犬が急にじゃれるように、樹里へ前足を持ち上げた。思わず、キャア、と声が出る。犬の方をよく見てなかった。何かぶつかってしまったかもしれない。おずおずと犬を見たが、威嚇はされていないようだ。


「ご、ごめんなさい。お洋服、汚れてませんか」

「あ、いえ。こちらこそ、すみません。ぼぅっとしていて、ワンちゃんの気に障るようなことを」


 互いにペコペコと頭を下げ合っていた。四十代後半、五十代くらいだろうか。白髪交じりのふわりとした髪が揺れる。


「あ、いえ。多分、違います……もしかしたら、お姉さんに撫でられたいのかも」

「へ?」

「本当にすみません」


 また申し訳なさそうに頭を下げる飼い主に対し、犬の方は確かにルンルンと尻尾を振っている。柴犬だろうか。確かに、撫でて欲しいと言っているように見えた。


「あの、撫でても大丈夫ですか」

「えっ、あ。いいんですか。わぁ。ありがとうございます。ブンタ、良かったな」


 飼い主の問い掛けに、ブンタは嬉しそうに尻尾を振った。それがまた可愛らしくて、縮こまった心が僅かに解けた気がした。ブンタに目を合わせ、しゃがみ込む。見つめ返すクリクリとした瞳は、嬉しそうに輝いた。


「ブンタっていうのね。いいお名前ね」


 顎の下へ、そっと手を伸す。ブンタは嬉しそうに大きく尻尾を振った。それが可愛くて、何だかホッとして、涙が出そうだった。こんな締め付けられた心を、この子は分かっているのかも知れない。撫でている手を体に伸ばすと、また一段と気持ち良さそうな顔をする。感じる温もり。それが今夜は、本当に身に染みる。


「お疲れのところに、本当にすみません。ありがとうございました。さぁブンタ、お散歩行くよ」


 飼い主の言葉に応じるように、ワン、と元気に返事をしたブンタ。歩き出した彼らの背に、樹里は小さく手を振る。それは、逃げ出したい自分の心に、別れを告げるようでもあった。香澄が嘘を言っていたとしても、千裕にはきちんと聞かなければいけない。彼女と本当は何があったのか。ブンタに触れて、落ち着きを取り戻した心。このままじゃいられない。気付けば、そう呟いていた。

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