第6話 小さな拍手

「千裕。先月の同期会、箱根って言ったっけ」


 素知らぬ顔をして、そう言った。樹里はもう、この恋の終わりを見ている。それでも、おどおどして情けない千裕を見るのは、ちょっと悲しかった。


「そうだよ。写真も送ったじゃん」

「うん、貰ったね。あれって何ていう旅館だった?」

「え? あ、あぁ。何だったっけな。俺、幹事じゃなかったから」

「先月行ったのに、忘れる? もう。素敵なところだったら、連れて行ってもらおうと思ったのに」

「おぉ、行こう。今度ちゃんと調べておくよ」


 普通のことを言われ、切り抜けた。そう思っているのだろうか。千裕は安堵の表情を浮かべ、少し身を乗り出す。じゃあ今度温泉に行こう、と。


「そうだね。温泉、行きたいなぁ。あれ、何人で行った? 全員いなかったよね」

「あ、えぇと。何人だったかな」


 そう簡単には、終わらせない。容易く逃げさせたりしない。千裕のしでかしたことは、それほどに大きいことだ。懸命に指を折りながら、アイツはいたよな、と言う彼が少し憐れだった。


「あれ、先月のいつだったっけ」

「樹里の誕生日の前の日。二十二の金曜に泊まって、次の日解散」

「それは、覚えてるんだ」

「え? だって、日曜は樹里の誕生日だから。俺だけバタバタしてたんだ。よく覚えてるよ」

「へぇ。でもさ、最近同期会してないって話じゃない」

「へ? いや、そんなことないよ。いや、いやいやいや……」


 彼の額から、汗がタラリと落ちる。樹里はそれを白い目で見ていた。そんなにあの子が良かったのなら、早く言ってくれれば良かったのに。そんなに、あの子が良かったのならば。


「そうそう。千裕、今度お父さんになるんだってね」

「は? いや、え?」

「おめでとう。六年の終わりなんて呆気ないもんねぇ。ホント。千裕の気持ちに気付いてあげられなくて、ごめんね」

「いやいや、樹里。何か勘違いしてないか。何を言ってるんだよ」


 その必死さは、二人の関係を維持しようとしているようには見えた。ただそれは、樹里を苛立たせるには十分だった。大事に思っているなら、どうしてこんなことになったのか。それに、相手が悪い。もう最悪だ。


「自分でしたことの責任は取りなさいよ。いい年して、逃げて終わりにしようだなんて思わないことね」

「樹里……違うんだ。本当に何も、何もないんだ」

「へぇ? 誰と、何もないって?」


 意地悪だな、と思った。でも、嫌味の一つや二つ言ったって、咎められる筋合いはない。きちんと自分のしたことを認めて、責任は取るべきだ。香澄のことは好きでもないが、同い年の女として同情している。よりによって自分の彼氏が相手というのは、泣きたいしムカつくけれど。

 千裕は下を向き、言い淀んでいる。


「小笠原さんと寝たのね」


 もう面倒臭い。ズドンと核心を突いてやった。こんな言葉発したくなかったけれど、誤魔化されるのはごめんだ。顔を上げた千裕は、大きく目を見開く。何を思っているのだろう。ただ間違いなく彼の瞳に映っているのは、ひどく怒り、自分を蔑む樹里の顔である。


「千裕。私は、これをくれたの本当に嬉しかったよ。指輪の話だって、疑わなかった。でも、これ小笠原さんと見に行ったのよね? どうせ、樹里にあげたいけど分からないからとか言ったんでしょ。違う?」

「ちが、う……よ」

「本当ね? 信じていいのね? あの子にも確認するよ」

「あ、それは……」

「それは?」

「止めてください」


 ガクンと肩を落とした。千裕はもう観念したのだろう。今度指輪を買いに行こう、と言われひと月も経たずに、こんなことになるとは思いもしなかった。好きだと言う感情は、もう起こりそうにない。こんな男、香澄にくれてやる。


「千裕。あなたのしでかしたことは、大きな問題。もう後戻りもできない。私たちの関係も戻らない」

「違うんだ。本当に。ネックレスのことは……確かに言う通りだ。一人じゃ分かんなくって悩んでたら、小笠原が一緒に行ってあげるよって。私なら樹里のこともよく知ってるしって」


 へぇ、とひどく低い声が出た。他の女が選んだネックレス。そんなものに喜んでいたのか。あぁ……だから香澄は、樹里の首元を見て笑っていたんだ。つまりはあの女は、樹里のことを嘲笑っていたのか。ネックレスを外し、静かにそれを千裕に返す。本当は、投げつけてやりたかった。でもそうしなかったのは、自分がより惨めになる気がしたからだ。泣きたくもないのに、徐々に涙が溜まっていくのが分かる。奥歯を食いしばり、千裕を睨んだ。


「小笠原さんに会ったのは、いつ」

「二十三日、だけ。だよ」

「じゃあ、二十二日の金曜日は何してたの。私に、だいぶ前から言ってたわよね? 金曜から泊りで同期会だって。そんな嘘を吐いて、本当は何をしてたの」


 千裕は下を向いて黙り込む。そういうことか、と溜息を吐いた。香澄との関係は、一夜限りではない。それを誤魔化すために、あれこれ嘘をついたのだろう。


「関係は、いつからなの」

「いや、本当に……本当に何もなくて」

「そういうのは、もういらない。千裕、正直に答えて」


 ギロッと睨みつけてから、涼しい顔をしてコーヒーを飲んでやった。沸々と腹の中は煮えたぎっているが、今はそれを出さない。上品で流れるように問い掛けた。


「少なくとも一年前からは関係があるわよね」

「え? いや、そんな」

「体のって話じゃない。二人でコソコソ会ってたわよね」

「あ、えっと」


 千裕は口籠ったが、もう確認は取れている。さっきの真面目な同期が教えてくれたのだ。箱根に行ったのは、三年前。それ以降は飲みに行く程度だったが、それぞれが忙しくなって、この一年は飲み会すら開けていない。そう教えてくれた。つまりこの一年、千裕が同期会と言っていたのは全て嘘だったということ。全て香澄と会っていた訳では無いかもしれないが、樹里に嘘をついていたのは確定している。呆れてもう、ものも言えない。

 香澄は、二人の関係を同期から聞いて知ったと言った。真実は分からないが、全て分かった上で関係を持ったのだ。随分と長くスクロールして、出て来た写真を思い出す。それなりの時間は続いていたということか。あの子は、どんな気持ちでネックレスを見に行ったのだろう。ただでさえ、香澄は樹里のことを目の敵にして来たのだ。きっと敵対心しかなかっただろう。そもそも、こうして二人を終わらせることが、そもそもの香澄の計画なのだろうか。


「とにかく、関係は認めるわね」

「あ、えっと。本当に」

「セックスしたんでしょう」

「え……」


 もうやけくそだった。香澄のためではない。あの小さな命のために、樹里は自分が惨めになることを選んだ。子供には何の罪もない。生まれる前から存在を否定されることなど、あってはならないのだ。


「関係があったのは、もういつだっていいわ。したわよね?」


 とても冷めた目をしているだろう。千裕は青褪めたように見えた。彼の隣の席の女が、こちらを気にしているのが視界に映る。そちらへチラッと目をやると、慌てて目を逸らされてしまった。面白がったって、何も出て来やしない。ただ惨めな女と情けない男が出来上がるだけだ。


「確かに二人で何度か会った。けど、そういうことはしてないんだ。本当に」

「そう。でも、私に嘘を吐いていた。その時点で、疚しい気持ちがあるってことじゃないの? もう私たちの関係は終わり。今後会うこともありません」

「樹里。それは、それは嫌だ」

「嫌だ? 縋ってくるくらいなら、嘘なんか吐くな。実際にどうだったかは知らない。でもね、嫌だって言う資格、千裕にある? 小笠原さんは、苦しんでるんじゃないの? 私だって苦しい」


 悔しいよ。そう続けた言葉が、小さくなった。ギュッと唇を噛みしめる。そう思うのは、他の女に取られたからじゃない。今までの幸せな時間が全て、嘘になってしまう気がしたからだ。


「樹里……」

「そんな顔したって許される話じゃない。自分のしたことに責任を持て。ちゃんと向き合いなさいよ。もしもセックスしたのなら、簡単に子供を堕ろせなんて言うもんじゃない。それが、どれだけ女を苦しめてると思ってんの……ふざけんな」


 樹里は伝票を持って、勢いよく席を立った。最後に奢られるのはごめんだ。千裕は項垂れたまま、こちらを見ない。仮に子供のことが作り話だったとしても、千裕は嘘をついて別の女と会っていた。それも、何度も。それだけで、別離は決まったようなものだ。簡単に嘘をつくような男と、結婚をしなくて良かった。今はその安堵が、心を埋め尽くしている。

 最後に千裕を見た時、隣から好奇の目で見ていた女と目が合った。もう睨み付けない樹里へ、彼女は小さく拍手をして見せる。何だかそれが嬉しくて、ニヤリと笑みを見せ、ガッツポーズをして前を向く。昨日の朱莉みたいだな、と思って、また笑みが零れた。

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