第三章 吉村朱里

第11話

 とある金曜日、昼休みの食後休憩中のこと。


「なあ。なあなあなあ!」


 菊市きくいち執拗しつようなラブコールに根負こんまけして俺は後ろに振り返った。

 どんなしょうもない話題が飛び出すかと思ったが、想像以上にしょうもない話だった。


「デリケートゾーンってさ、『誰々の』ってつけると、すごくイヤラシイ言葉になるよな」


 菊市の輝いた目が俺に共感を求めている。うろこが出てきたかのようなキラリキラリと輝く目。その目で、こいつはなんと言った?


 デリケートゾーン。


 俺が最初にそのワードを聞いたのは、たしか生理用品のCMだった気がする。

 卑猥ひわいになりがちなそういう部分を表す語としては究極に卑猥さを排除した表現で、デリケートゾーンとはよく考えたものだと感心した覚えがある。


「例えば、彩芽あやめさんのデリケートゾーンって言葉を実際に想像してみて」


 デリケートゾーン。


 それはパーツの名称ではなく、エリアの名称であり、想像するとなると、象徴的パーツを含む広範囲を思い描くことになる。

 俺の脳内から抽出して具体的な説明をするならば、下腹部から脚のつけ根より少し下までの領域のことである。

 パーツ単品では想像しても一般化されたモノトーンなものに収まるが、エリアだとある程度その人の体型まで考慮しなければならない。太っている人、痩せている人、くびれている人、十人十色で一般化しづらいからだ。

 そうすると、そのパーツもエリアも一般化されたものではなく、個人のものとして想像しなければならなくなる。「誰の」が効いてくるわけだ。


「やめんか、バカ! 想像すんな! 想像させんな!」


「いいじゃないか。デリケートな話だから、ちょっと本命から逸れた人の例を出しているんだよ。本当は隼人の……」


 ゴフッ。

 これは擬音語。

 ギャフンを期待したのに、菊市は無言だった。

 菊市の腹は机に隠れて殴れないから、代わりに胸の辺りを殴っておいた。


「その先を言ったら、おまえをナマクラにしてやる」


「わりぃ、わりぃ。方向を修正しよう。それにしても、デリケートゾーンってすごいよな。比較的どうでもいい女子でも、ブスでさえなければ、そのワードで想像すると一気にエロくなっちまう」


 コイツもしつこい奴だな……。


 ん? 待てよ……。

 それはべつにデリケートゾーンだからではなく、卑猥な部分を想像するから卑猥なだけなんじゃ……。

 いやいや、待て、待て。

 そんな下らないこと、本気で考察したら負けの気がする。


「デリケートだからさ、かゆいときはかいたり我慢したり、どっちにしろエロイよな」


「いい加減にしろ、バカ!」


 もういい。もう満腹だ。

 おまえの戯言たわごとには付き合いきれん。


 菊市きくいち文汰ぶんた。第何章になっても、おまえの名前は章題にはしないからな。


「そ、そこまで言わんでも……。俺ってば案外デリケートなんだぞ」


「知っている。おまえの存在自体が卑猥だもんな」


 俺は意識的にジトーっとした視線を送る。

 それは予想に反して効果テキメンだった。


「だぁーっ、それは違う! 卑猥なのはデリケートじゃなくてゾーンだ!」


 菊市が頭を両手でかきむしりながら、悔しさに声を震わせる。

 オーバーリアクションだ。しかも言っていることが意味不明だ。


 あれっ? こいつ、涙目になってる⁉


「あ……」


 そのとき、一組の方からツカツカツカとやってきて、躊躇ちゅうちょなく二組の教室に入ってきて、そしてツカツカツカと俺の前にやってきた女子がいた。

 吉村さんである。


 いや、俺を通りすぎた。

 菊市の前で止まった。


 菊市はまだ涙で眼前がかすんでいるようで、目をしばたたかせ、眼前に立つ女子の顔を舐め回すように見上げた。

 吉村さんの顔は無表情だが、金髪の下の鋭い眼光と、キュッと結んだ口元は、どこか怒っているようにも見える。


 菊市、何をしたんだ?


 心の中で菊市にたずねるが、返事があるわけがない。


 もしかして、これから修羅場か?

 菊市には悪いが、なんだかワクワクしてきた。修羅場の舞台が真後ろなのはちょっと近すぎる気もするが、特等席には変わりない。


 さあ、二人の間に何が起こる⁉


 吉村さん、動いた!


 吉村さんの両手が菊市の両腕をバッとつかむ。


 その腕を引く!


「おまえ、邪魔!」


 あれ? 吉村さん、菊市をどけて菊市の席に座ったぞ……。


 あ、また吉村さんが動いた!


 吉村さんの両手が俺の両耳をガシッと掴む。


「え、俺っ⁉」


 ガツッ!


「あいったっ!」


 …………。


 …………。


 …………。


 え、いま、何が起こった?


 クラスがざわめきたっている。

 皆が目を丸くし、ある者は立ち上がり、ある者は棒のように硬直し、ある者は小さな悲鳴をあげた。

 菊市は口をあんぐり開けて硬直している。


「ふふん。おまえのファーストキスは、私が奪ってやったからね!」


 どうやら俺は吉村さんに接吻せっぷんされたらしい。

 そうは言っても、吉村さんの顔の接近が急すぎて俺は頭突きをされたのだと思ったし、吉村さんの顔が離れた後に残った感覚は、前歯と上唇の痛みだけで、柔らかい感触なんか微塵みじんも残っていなかった。


 それでも吉村さんの言葉でクラス中が沸き立っていた。沸騰している。悲鳴がヤカンみたくピーピーうるさい。

 さすがに吉村さんも周囲の反応が気になったのか、もう用は済んだとばかりにすっくと立ち上がった。


「あの……、ファーストじゃないけど」


「え……」


 顔を赤らめて勝ち誇った顔で俺を見下ろしていた吉村さんは、ほおの赤味をサーッと引かせ、ストンと椅子に座って俺と向かい合った。


「うそ……。ファーストじゃないなんて! 私はファーストなのに⁉」


 知らんがな!


「ねぇ、何の話をしているの? ファーストって?」


 あ、あずさちゃんが食事から戻ってきた。

 ヤバイ。

 キスのことがバレたら怒られる。

 油断していたことを怒られる。


 そもそも俺って本当に貞操ていそうを狙われていたのか?

 俺は梓ちゃんがおかしな娘なのだと思っていたが、本当は梓ちゃんが正しくて、俺が頓馬とんまだったのか?


「ああ、野球の話だよ」


 咄嗟とっさに誤魔化す俺。しかし……。


「違う! キスの話よ」


 こらっ、吉村! 激情に任せて本当のことを言うな!

 おまえは梓ちゃんに弱みを握られているだろうが。梓ちゃんを刺激しても自分で自分を追い込むだけだぞ。


「ファースト? キス? ファーストキス⁉」


 梓ちゃんの目が大きく見開かれた。これが次の瞬間にはきっと、顔を真っ赤にして俺を怒鳴どなりつけるんだ。

 うわさでいずれは梓ちゃんの耳に入るのだろうが、でもこの衆目の中で彼女の激昂げきこうさらされるのは勘弁してほしい。

 こんなの、姉対策で自分をきたえるとか、そういう次元の話ではない。


「そう! ファーストは木須きす選手に任せるのが一番だねって話だよ。梓ちゃんはファーストといえば誰だと思う?」


「え、あの、ごめんなさい。野球はあんまり詳しくなくて……」


 だろうね。ノリノリで乗っかられても困るしね。

 梓ちゃんは顔を赤らめたまま、視線を俺から逸らすように泳がせている。


「だから違うっつってんでしょ! いまね、私と染紅しぐれ隼人はやとはね、キスを……」


「だぁーっ! 吉村さん! 君は空振り三振。アウトだよ!」


「アウトなら退場しなさいよ。よく知りもしないのに見栄を張っちゃって」


 さては梓ちゃん、吉村さんが知ったかぶりをして、俺の野球話に口を出したのだと考えたな?

 よしよし、それでいい。


 しかも、梓ちゃんが吉村さんの耳元でとっておきをささやく。


「さっさと退場しないと、あなたが隼人君の股間を揉みしだいた変態だってこと、皆にバラすわよ」


 俺は聞き耳を立てる菊市の足の甲を踏みつけ、注意を逸らしておいた。

 梓ちゃん、躊躇ためらいなくあの奥の手を出すなんて恐ろしい娘だ。

 そのとっておきの武器には、俺に対する諸刃もろはも付いているということに梓ちゃんは気づいているのだろうか。あまり多用してほしくないのだが。

 それと「揉みしだいた」は言いすぎだ。


「キィーッ!」


 吉村さんは「ぎゃふん」にも匹敵する悔しい悲鳴をともなって勢いよく立ち上がり、椅子を後ろにある机へ激しくぶつけた。

 まるで床に振動を与えようとでもしているかのようにドシドシとガニ股で教室を出ていった。

 クラス内のガヤが衰えることはなかったが、俺に注がれる視線自体は少しずつ減っていった。


 菊市は俺に踏まれた足が痛いから、と保健室へ行った。


「ねぇ、隼人君」


 梓ちゃんがニコッとして、不意に俺に顔を近づける。

 さっきの吉村さんがあってのコレは、さすがに驚いて背筋が反り返った。

 しかし、あんな非常識なことを梓ちゃんがするわけがなかった。

 ただ、美人の笑顔が怖いという俺の本能が、今日は空振りではなかった。


「念のためにくけど、隼人君のファーストキスは誰? 吉村さんじゃないよね?」


 やっぱり薄々は感づいていたようだ。

 だいたい何の念押しなのだろう、などと考えながら、俺はファーストキスの相手を梓ちゃんだけに明かす。


「お姉ちゃんだよ。キスって言うか、実験だったけど」


「お姉様かぁ。まあ、それなら仕方ないか……。実験って?」


 梓ちゃんは納得したような、あきらめたような、複雑な表情を浮かべていた。

 話が長くなると考えたのか、菊市の席に腰を下ろし、俺の目をじっと見て無言で回答の催促を投げてくる。


「唇と舌、どちらを噛まれたほうが痛いのか、そういう実験だよ。とてもキスと呼べる代物じゃないね」


 これをキスに含まないのなら、いまの吉村さんのあれもキスには含まれないだろう。

 痛みは姉のほうが鮮烈かつ強烈だったが、唇に何か柔らかいものが触れたという感触が残っているのも姉のほうだ。

 相思相愛のみをカウントするのなら、俺はまだファーストキスを経験していないということになるが、相思相愛に限らないのであれば、俺のファーストキスの相手は姉の染紅しぐれ華絵かえである。


 この日、俺は菊市と下校のをともにしたが、彼は執拗に同じことばかりを訊いてきた。


「なあ。なあなあなあ!」


「あーっ、もう! だから感触はなかったって言ってんだろーが。歯が痛かっただけだって」


「でもその歯と吉村の歯の間におまえと吉村の唇があって、それが触れたから歯が痛いわけだろ? だったら一瞬でも吉村の唇の感触があるはずだろ? どうだったんだよ。教えろよ。吉村の唇、柔らかかったか? 味は? 味はするのか?」


「だぁーかぁーらぁあ!」


「あーあ、いいなぁ。うらやましいなぁ。俺もキスしてぇ。吉村とチューってしてみてぇ。あ、オメー、吉村のファーストキス奪ったんだろ? くぅー、羨ましぃーっ!」


 駄目だ、こいつ。救えねぇ……。

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