第56話 逃走

 三河重工本社ビル一階ロビーは、いつもと変わらぬ人の往来があった。


 今は昼時。昼食時間帯はエレベーターが混雑する。駆け降りてきた時間を考えるに、まだ美冬たちは降りてはきていないはずだ。


 エレベーターホールに滞留している人間たちに注意を促し、付近をあけさせる。イソギンチャクのように俺に粘着してくる桜井はうっとおしかったが、彼が警察手帳を出してくれたおかげで、現場の人払いがスムーズに運んだのには感謝しなければならない。


 だが、完全に人が捌ける前に、例の人物は現れた。


 左から二番目の重厚なエレベーターの扉がゆっくりと開く。徐々に広がっていくドアの隙間から、山崎の緊迫した表情が覗いた。

 美冬の首にきつく腕を絡ませたまま、彼女を引きずるようにしながらエレベーターから出てくる。


「みなさん、エレベーターホールから離れて!」


 そう俺が叫んだ瞬間、群れた羊のようにゆっくりと移動をしていた人々が、動きを止める。刃物を目にした女性が悲鳴をあげ、集団はパニックに陥った。逃げ惑う人々は荷物を撒き散らし、我先に人質犯の間合いから遠ざかろうとする。


 嫌な既視感のある風景だ。


 美冬の喉元に突きつけられた刃物は、彼女の首の薄皮の上を滑り、真っ赤な血がゆっくりとこぼれだした。


「それ以上近づいたら、殺します」


 目を瞑り、体を強ばらせる彼女の姿を見て、俺は唇を噛んだ。

 全身の血が煮えたぎるようだった。


 入り口には、応援の警察官たちが到着していた。完全に包囲された形ではあるが、山崎は薄い笑みを浮かべたまま、こちらを侮蔑の表情で睨む。


「逃走車を用意してください」


「その必要はないね。だって、山崎、君はすぐに捕まるわけだから」


 警察手帳をヒラヒラさせながら、だらしない格好のまま、斜に構えた桜井は山崎に言葉を返した。


 いやいや、本当に警察官かよ。挑発するにも程度ってもんがあるだろ。


 そんな俺の心の内などどこ吹く風といった感じで、桜井は挑発を続ける。


「山崎、お前はなんで産業スパイなんて馬鹿な真似をしたんだよ。アルカディアだっけ? そんなところに行ったって、簡単に人生うまくいくわけないよ?」


「桜井さん、あなたも警察官だったんですね。しつこく絡んでくるから、怪しいと思っていたんです」


「広報部管理のホームページへのマルウェア、あれは山崎の仕業だね? 広報部員のパソコンに、山並さんのパソコンに仕掛けられたのと同じキーロガーが仕込まれてたよ。それで、管理ページのパスワードを盗んで、三河重工のホームページをいじった。そうだね?」


「はいそうですって、答えるバカがどこにいるんですか」


「そりゃそうだ」


 吐き捨てるようにそう言った桜井は、素早く拳銃を構えた。


「細かいことは取調室で聞くことにするよ。さあ、山崎、観念しなよ」


 桜井は撃鉄を引き、トリガーに指をかける。構えた先は、山崎の手元。

 山崎は一瞬怯み、無表情になったが、美冬を抱えた状態で、ポケットに手を入れる。


 その小さな機械の塊は––––爆弾の起爆装置だった。


 爆弾なんて聞いてねえぞ。

 抗議の視線を桜井に送る。しかし相手は、薄い笑いを浮かべていた。


「人質をとって逃走を試みるなんて成功率の低いこと、なんの準備もなしに僕がやると思いますか? アルカディアは実力主義なんです。そういう国で上に上がるには、これくらいの覚悟は必要なんですよ」


 桜井は、革靴の踵で床をコツコツ、と二回鳴らした。

 俺はそれに答えるように、同じように床を鳴らす。

 冷や汗が首元を伝い、俺は手のひらを無意識に握りしめていた。

 全神経を拳銃に集中させる。見逃してはならない。瞬きの一瞬でさえも。


 そこからは目の前で流れる映像が、コマ送りのように脳に流れ込んできた。


 山崎の指が起爆装置にのる。

 状況がわからず困惑しながらも、山崎にナイフを突きつけられたまま、恐怖に耐える美冬。

 桜井は躊躇いなくトリガーを握りしめ、銃口が火を吹いた。


 まるで飛行機雲が描かれる過程のように、弾道の筋道が網膜に映る。

 山崎が咄嗟に動けば、美冬に当たる可能性もある軌道だった。


 クソが、もうちょっと上手に撃てよ。


 そう悪態をつきながらも、視線を銃弾に合わせる。

 山崎の手元に向けて、力を加えていく。

 あと二度、いや、三度。

 眉間に皺がよる。元の軌道からずれていく弾道を確認しつつ、俺は最後の調整を終えた。


 集中を解いた瞬間、山崎が銃弾の衝撃で床に転がった。

 山崎が転がると同時に床を蹴る。俺は一緒に床に倒された美冬に駆け寄り、桜井は山崎に飛びかかり、抑え込んでいた。


「山崎、確保だ。残念だったな」


 そう声をかける桜井だったが、山崎は、言葉を失っていた。まさか人質を抱えた状態で、警官が自分を撃つとは思っていなかったんだろう。

 放心状態のままの山崎に手錠をかけ、駆け寄ってきた警察官に山崎を任せた桜井は、俺の方に向かってきた。


「杉原君お疲れ。やあ、さすがだね。助かったよ。俺、射撃あんまり得意じゃなくてさ」


「もうちょっと練習してくださいよ。あなたが上手かったら、俺の力はいらなかったんじゃないですか」


「おや、共に姫様を守り抜いた相棒にそういうこと言う?」


「姫様って。つーか、あんなに犯人挑発して、爆破が起きてたらどうするつもりだったんですか」


「……ああ、爆弾ね」


 桜井は床に視線を落とし、起爆装置を拾った。

 するとあろうことか、俺の目の前にそれを突き出し、その場でスイッチを押した。


「うおおおおい! って、あれ」


 爆発音が聞こえない。壊れてたってことか?


「なんで俺が、山崎が山並さんを人質をとる瞬間に居合わせられなかったと思う? 山崎の尾行が俺の担当だったのに。あいつが社内のあちこちに爆弾を仕掛け回っていたから、それの処理にてんやわんやだったからだよ。俺だってね、遊んでるわけじゃないの。こう見えて仕事してんのよ」


「びっくりさせないでくださいよ……」


 ほっと胸を撫で下ろす俺に、桜井は追い立てるように言葉を続けた。


「それより杉原君。受け渡しの時刻まで四十分切ってるよ。俺の担当は山崎だから、一緒には行けないけど。……頼んだよ」



 

 

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