外聞 識

第53話

 スニーカーを履かない日常に慣れてしまったことを、最近はよく後悔している気がする。怪異という不安定な存在と生きていく僕に、革靴は早かったらしい。叔父のようにすぐ諦めをつけて、最悪の結果を受け入れることが、僕には出来なかった。

 今し方踏みつけている黒い蜘蛛の体液が、人の血であることは明らかだった。菖蒲綴がその存在を飽和させて、溢れているということも、感覚的にわかった。恐らく彼女は今、崩壊に進んでいる。その認識が揺れすぎた怪異の終わりを、僕はまだ見たことがない。けれど、まるで蠱毒の壺に入れられたようなこの状況が、花鍬樹という怪異の終わりに続いていることは、理解できた。

 怪異とは認識の副産物だ。その認識が揺らげば、変容していく。その変容を受け入れて続いていく怪異が、一種の信仰で、恐らくは神と呼ぶべきものだ。けれど菖蒲綴は、その中に入り込んだ花鍬樹はそんな神にはなれなかった、なり損ないに近しい。永遠に続いていくことを望むということは、変容を受け入れないということだ。花鍬さんの「母親」が、花鍬さん自身が、あの中で疎外されたのは、あまりにも花鍬樹として異なっていたからだろう。その花鍬さんが産んだものは、きっと、より一層の変異の中にあったはずだ。見た目も性格も、名前も違う菖蒲綴に、無理に入り込んだ花鍬樹は、混ざる過程で崩壊が始まっていた筈だ。

 そんなことも肌で理解出来なかった僕が、直感も、経験も無い僕が、菖蒲綴を見つけることなど、あわよくば救おうとなど、考えても仕方がない。それは、わかっている。理解している。僕が花鍬さんを追って走り出した時、叔父は一瞬、僕を止めようとしていた。何も出来ないのだからと言おうとしているのも、諭そうとしているのも、耳には届いていたし、認識していた。けれど、それを認めるかどうかは僕の意志の問題だった。自分でも理解が出来ない程の愚考が、僕の中心には存在していたらしい。


 そうやって後悔しながら走る中、周囲の建物が小さな蜘蛛と蛾の混じりに覆われる頃。後ろから、車の走行音が聞こえた。聞き覚えのあるリズムが隣を走る。叔父の乗る古びた国産車だった。だが、その運転席に乗るのは、叔父ではない。


「溝隠!」


 叔父から鍵を騙し取った彼は、助手席に地楡さんを乗せて、アクセルを踏んでいた。僕の存在には気がついていただろう。蝶を隔てた彼と僕の視線は合っていた。けれど、彼は僕を見るや否や、加速してその場を去った。蜘蛛も、蛾も、百足も、全てを蹴散らして進んでいく。きっとその中に人が倒れていようが、踏みつけてしまうだろうと思えるほど、彼には躊躇がなかった。

 嫌な予感がする。溝隠の指の一本一本に至るまでの動きは、人の道義を超えたような、機械のような冷たさに満たされていた。彼が向かった先にいるだろう菖蒲綴や花鍬さん以上に、隣に乗せられていた地楡さんの体が心配だった。このまま彼が何処かに車ごと突っ込んだ時、溝隠が死ぬならまだ自業自得だとしても、彼女が道連れにされる道理はない。彼女の独白を共に聞いた仲である筈なのに、溝隠の行動は妙に思えた。考えてみれば、彼の行動には一貫して情がない。口の軽薄さが少しの人間性を見せているだけで、節々に独特な冷徹さがある。それが、どうしても、叔父や七竈さんに似ていて、僕には理解出来なかった。

 相容れない感情を、唾と共に飲み込む。視界には既に、人はいない。車が通った痕を、どうにか探して進んだ。音は少しずつ近づいている。人間が走る速度と車両の進行速度は比べものにならないが、入り組んだ大学構内を進んでいる車は、何度も止まっているのだろう。時々、急ブレーキの音と痕跡が存在していた。


「溝隠! 止まれ!」


 乾いた喉を絞って、声を上げる。車両のバックドアに指を掠める。僕の存在に気づいた地楡さんが、一瞬、こっちを見た。


「前向いてて。首が折れる」


 ふと、開いていた車窓から、溝隠の芯の通った声が聞こえた。彼の言葉に、地楡さんが顔を青くしながら、前を向いた。二人の影の間、フロントガラスの向こうに、知った顔を見た。


 花鍬樹は、大切そうに、まるで自分の娘を抱く母親のように、黒い塊を撫でて、微笑んでいた。その黒い塊が、腐った蛹の中身が、菖蒲綴だということに気付いたのは、車両が壁に追突する衝撃が僕の皮膚を震わせた後だった。

 二つの肉を挟んで、二つの肉を乗せた鉄の塊が、壁にめり込んでいく。というよりも、肉と血を巻き込みながら、車の先が潰れていくというのが正しいか。腰部と腹を潰されて、口と鼻から血とそれ以外の体液が噴き出す。そんな花鍬さんを確認すると、溝隠は窓から顔を出した。


「韮井君、危ないからちょっと下がって」


 唖然としている僕を無視して、彼は車をバックさせる。ずるりと音を立てて、痙攣する女二人が地面に伏した。凹んだ胴体と、タイヤに巻き込まれたスカートと脹脛の肉。散った血肉が目に焼き付いたのを見計らって、溝隠は再度、アクセルを踏んだ。バックする時の警戒音はしない。

 車が前に戻る。しっかりと前輪が花鍬樹の顔を踏みつける。ミチミチミチミチと音がする。時々、ポテトチップスでも食べる時のようなパリパリという音がして、頭蓋骨が粉になっていく。連鎖的に起きている事象に、脳の処理が追いつかない。怪異とはいえ人の形をしていたものが、挽肉にされている。人の形をしていない人の死体を見るのは、初めての経験だった。それでもなおピクピクと動く花鍬樹の四肢は、反射か、それとも、窓から飛び降りた時に見せたような、自己再生の始まりか。どちらかはわからなかったが、人としての反応では無いことは理解出来た。


 そうやって丁寧に肉をなめらかにすること数分。ついに、車のエンジンが止まった。ボンネットは大破して、熱を帯びていた。黙って座っているだけの溝隠の前から、ボンッと何かが破裂する音が聞こえた。


「何やってんだあの馬鹿は」


 飛んでいた理性が元に戻る。少し遠くで見ていた僕は、そのまま助手席の扉を開けた。未だ呆けている地楡さんを引き摺り出す。扉が開いたことが衝撃になったのか、溝隠は一人で運転席のドアを蹴破り、外に出ていた。漏れた油が肉を焼く。軽すぎる十八歳の少女の体を持って、出来るだけ遠くへ走る。数秒後、背後では叔父の車が燃えていた。ふと、古い火傷の痕を、地楡さんは自分で撫でていた。炎が見えないように、彼女の頭を胸元に当てた。


「地楡」


 蟲の消えた道を、白衣の男が走る。彼は娘の名を呼んで、酷く安心しきった表情を浮かべていた。その後ろでは、藤馬を連れた叔父が、誰か――恐らくは警察の立花さんか葦屋さんに、連絡を取っていた。僕の隣でフッと小さく笑う溝隠に、少しだけ、殺意が湧いた。

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