第50話

 推測の漏れ。そも、自分の無計画さによって破滅しようとしている私達にはわからない、それ。それが何かと、私が目を合わせると、地楡はほんの数ミリグラムの空気を喉に通した後、静かに唇を動かした。


「推測、というよりも、技術と理論に対する私の考慮不足、と言った方がよろしいかしら」


 彼女はそう言って、唇に手を当てた。トントンとリズムを取る。その数秒で、地楡は言葉を選んでいるようだった。


「想定外は幾つかあったわ。まず、私の妹が、見ず知らずの男に襲われる程、強いフェロモンを有した一種の突然変異体だったこと。それと同時に、夢蟲を無意識で生み出してしまう程、精神が揺れ動く個体だったこと」

「今までの花鍬樹は違ったのか?」

「違うとまでは言いませんよ。けど、ここまで尖った特性ではなかった筈。だって、そうじゃなきゃ、もっと早くに別の……人と共存を考えている怪異達が、危険視して根絶やしにしているでしょう」


 地楡の目線が、韮井先生と重なる。「かもな」と言う先生は、きっと、その根絶やしにする側なのだろう。冷徹さに獣性を秘めた彼の瞳が、私を写す。再び地楡へと戻る時、彼の視線は少しだけ悲哀を含んでいた気がした。


「二つ目は、私の飼っていた蟲が、不安定すぎたこと。焼かれて途切れ途切れだった母の記憶だとかを、加工して乗せるために、ある意味で『空っぽ』にしていたのがいけなかった。その空虚に、赤の他人の精神が勝手に乗ることを、軽視しすぎていたのよ」


 私が悪いのよ。と、彼女は僅かに口角を上げた。


「その二つが合わさって、一部の蟲が花鍬を襲ったのか」


 一人で納得している先生が、そう言葉を置いた。私も少しだけ理解はしていた。蟲を使って母と私を混ぜたのだとして、その蟲は通常の蚕蛾とは比べ物にならない程、純度の低いものだろう。それをどうにか繋ぎ合わせてより純度の高い蟲を作るとすれば、『空っぽ』の蟲も沢山出来たはずだ。それらの全てを処分していたとしても、それでも「母」で完全に満たされた蟲が作れる訳がない。地楡の言う理論と技術に対する考慮不足は、『隙間』を作ったのだ。その隙間に乗るのは、他人の感情。私が自分で集めた、私への嫉妬と悪意。

 目を瞑る。阿良ヶ衣達の蔑む表情が、瞼の裏に焼き付いていた。


「悪い、ねえ」


 唐突に、ボソリとそんな言葉が聞こえた。少女である地楡の可愛らしい声ではない。変声期を乗り越えた青年の声だ。先生では無いことは、近くにいる私が保証できた。地楡の背後、顔の見えない二人を見る。どろけた蛇と蛭に塗れる識君と、蝶が群がる溝隠君の口元は、全くわからなかった。だが、その口のどちらかが、小さく嘲笑したのは確かだった。


「そしてもう一つ、まだ不確かだけれど、懸念すべき材料がある」


 私が感じた違和感を差し置いて、地楡は続けた。不可解さの上乗せに、喉が詰まる。


「菖蒲綴という夢蟲が、妹が男に襲われた約十ヶ月後に生まれていること」


 地楡は、指で唇を撫でた。視線が下がる。何か、考えているような素振りだった。先生が足を組み直す。一瞬、凍りついたような空気感が、部屋に漂った。先に口を開いたのは先生だった。


「時系列の確保を」

「男に襲われたのが六年前。祖母が亡くなったのは五年前。一年の差のように思えますが、実際には違う年に起こったというだけ。九ヶ月というのが本当の差。菖蒲綴を私が初めて観測したのは、祖母の死の一ヶ月後」

「お祖母様の葬儀に出席したのは花鍬だけか」

「祖母の死を見たのも、死体を見たのも妹だけです。花鍬樹の溶解合成は死体から発生する蚕蛾から行われます。その蚕蛾は先代までの花鍬樹そのもの、意思もある。自分の足で、新しい体に入ることだって、可能ではありません」


 それだけ言って、彼女は喉を引っ掻き、息を整えた。「けれど」と反証を置いて、地楡は再び議論を唱える。


「妹は祖母の葬式に関して一切の記憶がありませんでした。あるのは祖母の死の瞬間だけ。そして、葬儀に関して記憶していたのは、菖蒲綴の方」


 悪い予感がした。その先の言葉を、聞きたくないと思ってしまった。ここにいない綴に対して、これ以上不安を突きつけてほしくなかった。綴の――「娘」が手元にいないことが、酷くもどかしかった。


「妹が祖母と混ざっていないこと、暴行から十ヶ月後に菖蒲綴が生まれたこと、妹が赤子を産んでいないこと……記憶の共有という点において、夢蟲と蚕蛾が似通っていて、その全ては怪異という不安定で変異しやすい存在であること」


 地楡は唱えていく。揃えていく。条件と材料が、並べられていく。冬馬は既について来る事が出来なくなっている。最初から、彼は要素の一つでしかなかった。主として存在を誇張するのは、私と、母と、祖母。そして、菖蒲綴という私の娘であり、夢蟲であり、怪異。


「ねえ、菖蒲綴は、今何処にいるんです?」


 先生に向かって、地楡は言い放った。彼女を「菖蒲綴の実家」に送ったのは、彼らだ。


「菖蒲は自宅にいるはずだ。私達が考えていた姿の彼女であれば」


 先生がそうやって、祈りのような推測を言葉にした瞬間、スマホの着信音が鳴った。識君がズボンのポケットに手を入れる。同時に、地楡の肩を持ちながら、溝隠君が一歩、前に出た。


「先生、ちょっと車借りていいですか」

「何をするつもりだ」

「擦ったら弁償はしますので」


 何も聞くなと言うように、彼はただ真っ直ぐ先生を見つめていた。彼が何をしようとしているのか、理解も予測も出来なかった。私にも、きっと先生にも、彼の顔は見えていない。その言葉にどんな感情があるのか、わからなかった。


「免許」


 先生の言葉に、溝隠君は脊髄反射で免許証を提示する。まるで全て考えついていたようだった。先生も無言で、鍵の束を放り投げた。


「ありがとうございます」

「失くすなよ」

「失くしませんよ、鍵は」


 少しだけ吊り上がった口角が見えた。先生が「ちょっと待て」と声をかける前に、溝隠君は、地楡を連れて病院の廊下を走っていた。


「叔父さん」


 青ざめた識君が、スマホから耳を離した。彼は今すぐにこの場を離れようというのか、足元が浮ついていた。


「大学で蟲が湧いて、人を襲ってるって、狗榧さんから」


 小さく、悲鳴のような声が耳に届いた。窓を開ける。自発的な行動だった。より鮮明に、数人の狼狽える声が聞こえた。


「綴」


 無意識に、私は窓から飛び降りていた。地面に体を打ち付ける痛みは、然程重要ではなかった。

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