第46話

 情報の波に酔うのは、車酔いにも似ていた。胃酸が逆転しているのに、吐き気は薄い。酸っぱさと痛みが、腐敗臭にも似た自分の中身と溶け合って、喉奥で遊ぶ。


「少し抽象的過ぎたな。一つ一つ、話そう」


 こめかみに髪をかけながら、冬馬は口角を上げた。微笑んでいるのか、それとも馬鹿にしているのか、彼はそっと小さく息を吐くと、両手を机の上で組んで見せた。


「かつて、夜咲という血族があった。彼らは怪異という現象を通じて、神を編み上げようとしていた」


 丁寧に、それでいてざっくばらんに、彼は言葉を吐いていく。単調な音声が、人から発せられているようには思えなかった。けれどそのリズム感が、何処か心地よかった。


「夜咲の言う神とは、人の姿をして、人の理を外れた者。故に、夜咲の人間の多くは、自ら神となるために、自身を怪異に落としたんだ。ただ、一部には一から『人の皮を被った人ならざる者』を作り上げようとした者達がいた。それらの試作過程で、『蟲』に『人の姿』を与える法があった」


 蟲と言われて、自分達を指していることはわかった。人の皮を被った蟲。まず初めに思い起こしたのは綴のこと、そして、七竈の『蟲を産むのは蟲』という言葉。


「具体的に何をどうしたかは、創造主でない私達にはわからない。ただ、一つ言えるのは、その方法で編まれたのが、神ではなく、神の親となる混沌とした化け物だったということ」


 そう言って、冬馬は頬を掻いた。その指と皮膚の隙間から、白い何かが噴き出す。それは、蛹の中身のような、細胞と体液の混じった粘液だった。少しずつ、端正な彼の顔が崩れていく。私の喉に、胃酸が上り切った頃、冬馬の顔はスッと幻のように元に戻った。


「ただ、親は揃っていたのにも関わらず、子は生まれなかったらしい。神、怪異の誕生というものは、過程が重要だ。よって、創造主は私達を野に放った。蛾とは、フェロモンを追って、番うものだ。だから、雌をこの地に、雄をずっと遠く、ここよりずっと北の地に、放り出したんだ」


 ――――そこからが、数百年の『神生み』だった。

 ふと、そんな言葉が、私の頭に過った。目の前の冬馬も、同じことを言ったのかもしれない。けれどそれは、何故だか、私は知っているような気がした。それから先の言葉を、私は予測出来てしまった。


「――――そして、貴方は数百年の歳月をかけて、この地まで辿り着いた。人間の胎から何度も生まれては、次を産ませて、死んで、そうやって、桑実という男を何度も繰り返して」


 無意識では無い。私の口は、確かに私の意志で動いていた。その事実が心底気持ち悪い。私はこんなことを話したくはなかった。これは私の言葉ではない。私、否、私ではあるが、今の私ではない。網膜の奥、頭蓋骨の裏側、私は、私に「花鍬樹」と名を刻んだ老女――祖母を睨んだ。


「私達はずっとここで待っていた。何度も自分を産み直して、貴方が来てくれるのを、ずっと」


 縋るように出た言葉は、自分でも甘ったるさを感じた。視界の隅では、ずっと私達を観察していた先生が、苦虫を潰したような顔で私を睨んでいた。わかっている。先生から見て、今の私の姿は、彼が望んでいるような、人間性の高いそれではない。韮井ミツキが望む人間性に縋り付く怪異の姿ではない。私は、数百年の私に塗り潰されようとする私は、どう見たって、羽化途中で止まった、奇形の蛾だ。


「私、待ってたのよ……永い時間、ずっと」


 絞った声を、理性で否定する。先生が動くより前に、冬馬が何かを言う前に、私は自分の首を自分の手で絞めた。口の端から唾液が垂れる。その体液溜まりには、白い芋虫――――否、黄色い米粒のような蛆が、ポロポロと溜まっていた。それを見て、思考が止まる。手の力が弱まって、私は静かに息をしていた。その離れた手を、そっと、冬馬が取る。彼は物悲しげは表情で、憐れみを含んで、唇を噛んでいた。


「……その永い時間で、私も、君も変わってしまった。怪異は認識の副産物。時代の流れで変わっていく存在。今は、創造主が死に、夜咲も絶えた時代。全てを諦めていた私達はただの人間へ。諦めなかった君達は、蟲へ」


 変わって、しまったんだよ。静かに、冬馬はそう言った。


「だから結局、十八年前、やっと出会ったというのに、私達の間に生まれたのは、生まれついて蟲に憑かれた、ただの女の子だったじゃないか」


 そうして、彼は頭を抱えた。全てを吐き出し終えたのだろう。彼はただ、息をして、私から目を逸らした。私の目線が、彼の毒になっていることは、理解出来た。故に私は、目を閉じて、ただ、黙るしかなかった。


「……問いを」


 沈黙の中で、ふと、韮井先生が声を上げた。それは呆れを含んで、私達を見下しているのは明らかだった。


「問いを一つ、投げさせてくれ。花鍬樹、お前は今でも、人間になりたいと、菖蒲綴と共にヒトへ成り上がりたいと思っているか」

「……今は、思っています。けど、そのうち、変わっていくかもしれません。いや、変わっちゃうと、思います」


 深呼吸を挟んで、先生の問いを噛み締める。冬馬に会って、わかった。私は少しずつ、変容している。私の中で、理由は明白だった。一つ前の私――便宜上、母と呼ぶ者が、何故焼き死ぬことを選んだのか、私を道連れにしようとしたのか、理解できてしまっていた。


「私、そのうち、ううん、もうすぐ、『花鍬樹』になるんですよ」


 顔を両の手で覆う。ドロドロに溶けた顔を、手に受け止めた。曖昧だった記憶が少しずつ補われていく。


「今度は、私の、この十八年の私達の話を、聞いてくださいますか、先生」


 張り付いて動きづらい頬の筋肉を引き攣らせて、私は笑った。

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