五章 闇へ
第41話
夢を――――あの心地よい夢を見なかった。白い部屋で、ずっと誰かを待ちながら、私達に囲まれる夢。ぐっすりと深く眠りについた筈なのに、どうしても、心臓には靄がかかったようだった。
覚えの無い小さな部屋に横たわっていた。記憶を掘り起こす。そういえば、そうだ、私は今、下宿に世話になっているのだ。木でできた部屋に、ベッドと机だけの簡素な配置。質素というよりも、清貧と呼ぶ方が相応しいかもしれない。扉の向こうは静かで、他に誰かが住んでいるというのが、嘘のようにも感じられた。出来るだけ他の住人には顔を合わせないようにと、七竈から釘を刺されていたのを思い出す。息を呑んで、人の気配を探した。少しだけ、足元がうるさかった。多分、下の階で複数人が食事しているのだろう。僅かだが、人の笑い声が聞こえた。
「花鍬さん、花鍬さん、おはようございます」
ふと、足音もなく、声が聞こえた。それを追いかけるように、扉をノックする音がした。声に覚えがあった。昨晩私を迎え入れた鹿山だった。
「朝食の時間ですから、下に降りてきませんか。丁度、他の人達も揃っていますし」
「え……あの、七竈さんから、あまり顔を出すなと言われてしまっていて……」
「そのことなんですがね、深夜、韮井先生の方から連絡がありまして。下宿に住んでいる人なら大丈夫、と。ほら、ハラヤ君って、ちょっと口が悪いでしょう。言い過ぎだと注意しておいたそうですよ」
ゆったりと、何処か母性的な包括力を以て、鹿山はそう笑っていた。顔を見ずとも、微笑んでいるのだろうというのは、理解できた。
そっと扉を開ける。エプロン姿の鹿山を見上げる。印象の薄い顔。細い目をより細くして、私を見下ろしていた。
「パンは食べますか? 今朝、七斤程焼きましたから、まだいっぱいありますよ。全部食べたって良いんです」
「あの、普通、何枚切りを何枚とか、そういう単位では?」
「貴女のような方は、皆さんよく食べますから。まあ、食べなくても、大丈夫ですよ。私が食べますので」
階段を降りながら、ケラケラと鹿山は笑う。昨日まともに食事を取れなかった分、空腹なのは確かだった。五斤程であれば、確かにペロリと食べられそうではある。それよりも、カラカラに乾いた喉の方が、飢餓感を主張していた。喉をさする。昨日、悲鳴こそ上げなかったが、緊張して何度も唾を飲んだ。そのせいか、喉の肉が腫れているのがわかった。
「改めて、おはようございます、皆さん。珈琲のおかわりは足りていますか?」
一階の床に足をつける。四人の人間が、私達を見ていた。集中する視線を遮りたくて、鹿山の後ろに隠れた。それを察して、大きく身を逸らした鹿山は、そのままキッチンへと向かった。
「昨晩から韮井先生に頼まれてお預かりしている、花鍬樹さんです。皆さんと同じ、大学の一回生だそうで。怪異について知ってまだ日が浅いそうですから、相談に乗ってあげてください。そういうものでは、皆さんの方が先輩ですからね」
鹿山の言葉に合わせて、私は頭を下げた。誰かが「よろしく」と言ったのを合図に、顔を上げる。視界の先では、男二人と女二人が、揃ってテーブルを囲っていた。パンの山と、それぞれに配られているスープ、サラダ、スクランブルエッグ。住人達の反応よりも、テーブルの上にある色とりどりの食事の方が、どうしても気になった。
「立ってないで座りなよ」
細身の男がそう笑った。その声に応えて、空いた椅子に腰を下ろした。すると、背後から皿とカップが運ばれ、目の前に置かれていく。「夕食からは自分で」と鹿山が囁いた。どうやら、キッチンで受け取って、自分で配置するのがルールであったらしい。私は「すみません」とだけ口にして、珈琲に口をつけた。
「まさか、あの花鍬さんがうちに来るとは思わなかった」
ふと、隣からそんな声が聞こえた。淡々とした、冷たい声。黒髪を後ろにまとめた女は、背筋を真っ直ぐにして、猫背の私を見下ろしていた。薄いシルバーの眼鏡が、一層彼女の鋭さを誇張する。
「えっと、私のことをご存知で」
「うちの同期で、貴女ほど女子学生に恨まれてる女、いないでしょう。自覚無い?」
「すみません、あまり、他人に興味が持てない性分でして。周りがどう思ってるとか、同級生とか、よくわからなくて」
私が声を濁すと、女は眉間に皺を寄せていた。
「
言葉と共に、彼女はパンを口に含んだ。それ以上喋ることはないと言った様子で、反論さえ許される雰囲気ではなかった。
「アタシは彼氏いないから恨んでないけど、まあ、目立ってる自覚が無いのは、すこぶる問題ね」
阿良ヶ衣の向こう、苦笑いでそう言ったのは、穏やかそうな小柄な少女だった。彼女は私に顔を向けると、目尻を下げて見せた。作り笑いが上手い、仮面の厚い女だと思った。
「アタシは
「つ、綴のこと知ってるんですね」
「あの子、社交的だよね。親友なんだっけ? 花鍬さんのことは綴ちゃんから色々聞いてるし、今度は綴ちゃんのこと聞いてみたいな」
何かを含んだような、情報が途切れ途切れの言葉を、咀嚼する。
社交的だよね――――貴女と違って。
綴ちゃんのことを聞いてみたいな――――貴女のことなんか、興味が無い。
初対面特有の緊張感というよりも、柔らかな大福に針を仕込むような、薄寒い悪意が見えた。社交辞令を受け取って、私は痛む頬を持ち上げた。
そうしているうち、「じゃあ次は」と一言、細身の男が言った。彼は柔らかな指先を胸に置いて、人形のように整った表情で、口を開いた。
「僕は
海棠が皐月の乱れたシャツを引っ張る。一人、食事に手をつけずに微睡んでいた男は、首を振った。その様子に、少しだけ既視感があった。昨日の朝の、目覚めの悪い藤馬君。皐月の様子は、その時の彼にそっくりだった。
「ごめんよ。こいつ、睡眠欲が強い方で」
強引に皐月の口へ珈琲を流し込む海棠を見ながら、私の手は、無意識にパンを掴んでいた。
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