第27話

 発酵しすぎたワインを、鼻にかけられたような、そんな吐き気がした。先生の言葉の意味は、私には理解出来なかった。それでも、綴の、菖蒲綴の存在が揺れているのは、事実だった。


「怪異は人間の認識というものから生まる。故に、怪異が人間の認識を塗り替えることもある」


 先生はそう言って、私の目を睨んだ。動かない綴が、助けに入ってくれもしない綴が、不自然で仕方が無かった。


「お前はそうやって、自分の認識すら上塗りして『産んだ』のだ。この世に存在しなかった『花鍬樹の親友』を」


 ボロボロと音を立てて、記憶が崩れていく。綴の整った顔も、少女らしい天真爛漫な笑みも、私への感謝も。全て、虚無に帰す。それでも、私の中には確かに『綴との記憶』は幾つか残っていた。


「綴は存在しています。ちゃんと、学生証だって持っていて、家があって……貴方達だって、綴と話をしたじゃないですか」

「そうだ。菖蒲綴は存在している」

「存在していない、存在している……一体どっちの話をしているんですか」

「誰も菖蒲綴の存在自体を否定はしていないだろう。今は存在しているんだよ。お前が『産んだ』から」


 先生が、私の手を離す。体が、無意識に綴に向かった。彼女は呆然と立ち尽くしていた。輪郭を取り戻した彼女は、瞳孔を収縮させながら、私を見ていた。そんな彼女の手を掴んだ。風に当たって冷たくなっていた爪先は、私の温度を吸い取って、暖かく血管を拡張させた。


「耐え難い現実に対して、己の中に新しい人格を生み出すというのは、案外巷にも知られている」


 途端に、先生はこめかみに指先を当てた。「精神ではなく脳の話だ」と前置きをして、彼は私達に詰め寄った。


「一般の人間であれば、それを内に置いて、一人の身体を二つ以上の人格が共有するものらしい。だが怪異が絡めば、それは脳やら意識やらの問題だけではなくなる」


 怪異は人間の認識から生まれる。繰り返し聞いた台詞が、脳の中で笑う。綴の手は、温かいばかりだった。彼女には今、言葉も、否定する意志すら無い。それは私も同じだった。先生の言葉を、聞いていることしか出来なかった。彼が正しいかどうかで言えば、一般的な見方では突拍子も無いフィクションだ。だが、今の私にとっては「概ね正しいだろう」ということだけがわかった。


「怪異は認識を通して、現実を歪ませる。菖蒲綴は過去、現実に存在していなかったが、今は存在している。花鍬樹の認識を通して、現実を歪ませながら」


 納得を飲み込む。喉を唾液と鋭い先生の視線が通った。それと同時に、脳の靄が、幾らか晴れたような、そんな爽快感が過ぎった。

 目の裏には、鮮明な記憶があった。私の服を破る男。気の緩んだ男の顔。痛む下半身。無意識にも近い、義務感のような殺意。粉々になった頭蓋骨と、肥料にもならない神経の塊。


「苦しみを二人で分かち合って、それで楽になったのか?」


 先生はそう言って、口元だけ笑っていた。


「楽でした。だから私は、生家に戻ろうと思えた」


 私の口から出たのか、綴の言葉だったかはわからない。だが、それは実際に、私自身の明確な意思だった。


「例え自分が襲われた場所だったとしても、二人なら住めると思いました。お互いが自立出来る様になるまで、二人で」


 綴の声が、耳に響く。私が何も言わなくとも、私に都合の良い言葉を放ってくれる。実感が湧いた。彼女は私が作ったのだ。私が、私のために作ったのだ。


「菖蒲綴。お前のような者のことを、夢蟲と呼んだ人間がいる」


 私達を、否定することもなく、先生はそう言った。彼には敵意も悪意も無かった。どちらかと言えば、好奇心といったものの方が、大きいような。そんな口ぶりだった。


「そいつ曰く、夢蟲は怪異が人間に成り上がる一つの望みだそうだ」


 ジリと近付く先生の足元が、一瞬、揺れた気がした。粘膜同士が触れるような、水っぽい音が、小さく聞こえた。同時に先生の目が、より一層、獣のように、人ではないもののように見えた。


「夢蟲は怪異、それを産む『母』も同時に怪異……怪異は怪異を認識する。つまりだ、夢蟲を存在させている限り、蟲に襲われ続ける可能性が高い」


 ふと、生臭い海の匂いが漂う。その中で、先生は私達を見下ろした。


「今、お前は選択を迫られているわけだ」

「それは、綴が消えても蟲から逃れるか、綴を保ったまま蟲に襲われ続けるか、ですか」


 私は綴とも先生とも目を逸らして、言葉を垂れ流した。意思は地面に落ちて、戻ってきそうもない。


「現状の選択はそれだ。だが、もう一つある」


 先生は指を三本、私に差し向けた。その手の内には、何処かの住所が書かれたメモがあった。


「菖蒲綴という怪異を人間にし、お前も人間に戻る」


 出されたメモ紙を、迷わず取った。風で飛ばされそうになるそれを、ポケットに仕舞う。冷え始めた綴の指も、一緒に入れてしまった。それを了承の意として見た先生の口元が、少し、安心したように、綻んでいた。


「怪異の『夢』を、怪異を人にする方法を研究している奴の住所だ。今夜にでも訪ねると良い。後で私から連絡を入れておく。だが……菖蒲綴は家に帰した方がいい。その方が長持ちする」

「長持ち?」

「花鍬、隣を見ろ」


 隣と言われて、綴を見る。彼女はぼーっと空中を見るばかりで、私のことも、先生のことも見ていなかった。私が名前を呼んでも、特に何も言わない。口元も、鼻も、肩も動かない。ポケットに入れていた彼女の手首を掴む。鼓動はわからなかった。血の巡りも無い。彼女はただそこに存在しているだけだった。


「菖蒲! 菖蒲綴!」


 先生が声を張った。顔の前で、手を叩く。それに反応して、綴はようやく肩を大きく振るわせた。


「母である花鍬が、菖蒲綴を怪異と認識したからな。元々、薄氷の上を歩くようにして存在していたんだ。遅かれ早かれ、ゆっくりと人間らしさを失っていくことには、なっていただろうが……」


 すまないことをした。と、先生は零した。私は彼を責めることも、綴に声をかけることも出来なかった。小さく息をする彼女の、停滞した血管を、手の甲から、撫でるしか、出来ることはなかった。

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