第20話

 何か、様子がおかしかった。女は震えていて、こちらを見る瞳は恐怖に染まっていた。男の方も、右手では額を抑えているが、左手には刃物も何も持っておらず、スマホを握っているのみだった。二人は身なりも整っていて、浮浪者や犯罪者には見えなかった。どちらかと言えば、その辺の駅前でも歩いているような若者に見えた。

 頭を抱える先生が「おい」と言うと、識君が男の腕を絞り上げる。私は綴の身体を寄せて、部屋の壁に背をつけた。腰を抜かしている女の前に、先生が跪く。女の一、一、〇と押そうとする手を、無理矢理に握って、腕ごと彼女のスマホを畳に押しつける。息もかかるほど顔を近づけて、彼は笑った。


「学生か」


 先生の言葉を合図に、識君が腕の力を強めたらしい。男の悲鳴が上がった。男の腕は日常生活ではお目にかかれない方向へ曲がっていた。悲鳴に怯えてか、女が泣き出した。手で顔を拭う彼女の顎を、先生が掴んだ。


「泣いていないで事情を説明しろ。不法侵入はそちらだ。機会を与えてくれている私達へ、感謝し媚び諂いながら、謝罪と説明をする責任が、今のお前達には発生している」


 地を這うような声と脅迫が、表情と釣り合っていない。私達に対する先生の扱いは、大分優しい方であったのだと、ようやく理解出来た。


「すみません説明します! 謝るから殺さないでください!」


 識君の膝の下で、男が叫んだ。彼の腕は、既に折れているのではないかとすら思える状態に達していた。先生が溜息混じりに女の顔から手を離す。すると、識君も微笑んで、手を離した。元に戻った腕で、畳を押して、男は上半身を起こした。先程まで息が上手く吸えなかったのだろう。軽い過呼吸になりながら、彼は勢い良く額を畳に擦り付けた。


「ご、ごめんなさい。ほら、ここ、幽霊が出るって、噂で……ただ興味本意で! その、まさかね、あの、そういう組の人の持ち家だとは思ってなくて……何もみてないから……命だけは……本当に……何も見てませんから……!」


 狼狽えながら土下座を遂行する男に、私は首を傾げた。改めて、彼らと、先生たちを交互に見る。成程、黒いスーツに黒いネクタイの先生と、躊躇の無い識君。何も知らないままこの二人に加害されれば、そういった勘違いもするだろう。当の先生は笑顔を崩して、呆れて物も言えないといった顔をしていた。


「身分証」

「へ」

「身分証を出せ。学生なんだから学生証くらい持ってるだろう。織部おりべ生成きなりも」


 男は、泣き止まない女の隣で、先生の言葉に目を丸くしていた。彼は懐から財布を取り出す。そこから出てきたのは、私達と同じ大学の学生証だった。


「お、織部恵介けいすけです」

「知ってる。経済学部の二年だろ」

「え、あの、な、何で僕の名前を」

「私は自分の授業に出た学生は全員顔と名前を覚えている。だからお前が一年の教養単位を、出席ギリギリで単位習得したのも知っているし、授業中に居眠りして十七回ほど、隣に座っていた生成に叩き起こされていたことも記憶している」


 ポカンと口を開けている織部というその男は、数秒して、顔から血の気を失っていった。何となく、話が見えた気もした。私は生成という女性の先輩に目をやった。


「わ、私は生成美豊みほです……すみません、本当にすみません……」


 学生証を携帯していないのか、彼女は鼻を啜りながらそう言って、ただ震えていた。


「私は韮井ミツキ。梅ヶ丘総合大学で史学を教える教員で、海洋考古学を専門としている。織部を縛り上げたのが、私の甥である識。女学生が花鍬と菖蒲だ。三人はお前達の後輩でもある」


 だから取って食いはしないと、先生は鼻で溜息を吐いた。胡座をかいて頬を掻く先生に、識君が何かを耳打ちする。眉間に皺を寄せた先生は、一度、頷いて、再び視線を先輩達に移した。


「さて、お前達には色々聞かなければならないが……その前に、一つだけ。今すぐ答えてほしいことがある」


 前置きをする先生に合わせて、識君が廊下に身を置いた。彼は私達に「動かないで」と呟いた。


「お前ら、ここに何人で来た?」


 天井から、ガタンと何かが倒れる音がした。建物全体が揺れたようにも思えた。それを合図に、識君が走り出す。階段を駆け上る足音が響く。


「三人です」

「足跡は二人分しか無かったが」

「後輩を一人、車に待機させていて」


 織部と先生が問答を繰り返している間に、二階から再び騒音が降り注ぐ。倒れる音、床に何かを叩きつける音、初めて聞く識君の怒鳴り声――――そして、掠れた男の断末魔。


「調査どころではなくなってしまったな」


 残念だ、と呟いて、先生は立ち上がった。織部と生成の二人を目配せで立たせると、私達に目線を向けた。先生は私に自分のスマホを手渡した。画面のロックは既に解除されていた。彼はポケットから手袋を取り出して、両手に嵌める。


「全員二階に上がるぞ。花鍬、私が教える番号に通報を。警察が出たら、スピーカーにしてくれ」

「通報って、このお二人をですか」


 織部達を見る。二人は目を丸くして首を横に振っていた。彼らの許しを乞う姿は、あまりにも滑稽だった。


「いいや、違う。その二人は私が適当に説明しておく。問題は、二階で識が殴り倒した何者か、だ」


 そう言って、彼は天井を指差した。私はスマホの画面を見ながら、先生の言う番号をなぞった。それは通常の一一〇番通報ではなかった。数度のコール音の後、若い男の声が耳腔に響いた。


『はい、こちら警視庁異失物資料室の葦屋です。あれ、韮井先生の携帯? 先生、何かありましたか?』


 重く低い男の声に、圧倒されかける。急いで電話口をスピーカーに切り替える。先生が肩を上げて大気を吸い込んだ。


「葦屋、今から私が言う住所に来い。怪異絡みの家だ。面倒になるから一般の警官が来ないようにしろ」


 先生の張り上げた声に、警官の男は「あぁ、はい」と笑っていた。住所を唱えながら、先生と私達は階段を登って、二階の廊下に出た。一つだけ開いた扉に、先生は迷いなく入っていった。そこは両親が寝室として使っていた部屋だった。住所を伝え終えた先生は、私の手からスマホを取り上げた。


「だが相手は人間だからな。手錠は持ってこいよ」


 そうマイクに声をかける先生は、引き攣った笑いをしていた。先生の前には、痩せこけた見窄らしい男が一人、識君に押さえつけられながら震えていた。

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