第10話

 話を終えた私に、綴は小さく溜息を吹きかけた。彼女の艶のある頬が、西日で赤く見えた。


「明日、あの家を調べるんでしょう」


 彼女はそうして、私の目を覗いた。信じるだとか、あり得ないだとか、そういった言葉を出す素振りはひとつもなかった。怪異という、何処か迷信めいたものを、私ごと飲み込もうとしているようだった。


「私も立ち会うから」

「大丈夫なの? 綴だって、あそこで百足を見たんでしょう?」

「私、アンタと一緒に住むの、諦めてないし」


 それに、と付け足して、彼女は満面の笑みを浮かべた。


「アンタのこと、アンタがあの家で過ごしてた時のこと、知りたいんだよね。私、アンタのことは、近所に引っ越してきた後のことしか、知らないから」


 無邪気な顔の彼女が、少しだけ羨ましく感じた。私と綴が友人になったのは、私の祖母が亡くなってからのことだった。五年前、私と父と祖父は、あの家から逃げ出すように、数キロ離れただけの別荘に居を移した。学区が代わり、中学も転校したばかりの私に出来た、初めての友人が彼女だった。私の住んでいた別荘と、彼女の実家は近所だった。友人になって五年と言えば、それなりのものだろうが、それでも私達は、お互いに知らないことも多い。性格だとか、そういうものではなく、単純に、私達は、お互いの幼少期などは全く知らないでいる。そんな私について、怪異というものを知ってもなお、まだ繋がろうとする彼女は、稀有な人だと思う。

 私が頷くと、綴は再び歯を見せて笑った。そんな私達の会話の終わりを待っていたかのように、言葉が途切れた頃、桑実が私の肩を叩いた。


「韮井先生から話は聞いたから。そろそろ日も暮れてきたし、行きましょうか」

「あの、綴の方は……」

「菖蒲さんは先生達が送ってくれるから。心配しないで」


 そうして、桑実は私と綴を立たせた。車の鍵で手遊びする先生に、綴は駆け寄っていった。彼女が振り返るのを確認して、小さく手を振る。綴と識君が手を振りながら、先を行く先生を追いかけていった。


「それじゃ、私達は病院の職員駐車場ね。その前に、私、退勤しないとだから、着いて来てくれる?」


 私が「はい」と呟くと、桑実は微笑み、白衣を翻した。


 夕方、もう病院内には人は少ない。廊下を歩きながら聞いた話によると、大学保健室は大学附属病院の一部として扱われるようで、彼女のロッカーも病院内にあるらしかった。更に、桑実は大学保健室の校医ではなく、この大学の看護学部出身の看護師で、働き始めてあまり経っていないのだという。韮井先生と懇意にしているのは何故かと聞けば、彼女は笑って「先生は旦那の友人なの」と言った。


「旦那はここの精神科医なの」


 ロッカー室から出た彼女は、そう言って車の鍵を鞄から取り出した。


「精神科、ですか」

「そう、精神科。だから韮井先生と知り合いなの。精神的な病かと思ったら、怪異だったとか、その逆とか、よくあるもんだから」


 成程、そういうことかと、頭の中で何かが繋がる感触があった。


「その……桑実さんは、怪異を」

「見えないわよ。私、怪異憑きではないもの」


 私の質問に、ケラケラと笑う彼女は、あぁ、でも――――と付け足して、少し荒れた唇を動かした。


「病棟勤務の先輩には見える人がいるわね。旦那も見えるし、息子も、どうやら見えてるみたい」


 軽い口当たりで、さも日常であるかのように、桑実が言った。否、実際に彼女達には日常なのだろう。桑実の軽快さのおかげか、今は蟲が見えていない私だが、多分、そのうち、きっと、私も彼女達のようになっていくのだ。


「見えているということは、旦那さんと息子さんも『怪異憑き』なんでしょうか」

「そうなんじゃない? 私には見えないから知らないけど、旦那は韮井先生の気色悪い鹿に平気でお辞儀してたし、息子の方は韮井君のことを気持ち悪いってよく言ってるし」

「……やっぱり識君って気持ち悪く見えるんですね」

「まあね。私は見えないから先生に似てイケメンでスタイルが良いなー、と思うけど。何か、泥だらけの腕が大量に頭から覆い被さっている……らしいわ」


 話をしているうちに、職員出入り口から駐車場へと出る。春とはいえ、日が隠れた後の空気は、冷たく、鋭かった。迷いなく歩く桑実を追って、風に打たれる。スカートから入る風が足を冷やす。厚手の靴下を履けばよかったと、後悔があった。

 駐車場の隅にひっそりと佇む黒いセダンに、桑実が鍵を向けた。ピピっと音がして、解錠したのがわかった。運転席に乗り込んだ彼女に合わせて、私は助手席に入り込んだ。荷物を膝に抱えて、シートベルトを引き出す。


「駅前のデパ地下で晩御飯買いたいんだけど、体調は大丈夫?」


 ふと、エンジンをつけた直後、桑実がそう尋ねた。


「だ、大丈夫です」

「食べたいものあったら遠慮無く言ってね。あー……塾終わる時間だし、息子も迎えに行っちゃうわ。三人で好きなもの買いましょ。旦那、今日は当直だし」


 車を走らせながら、彼女はそんなことを言って、周囲を見渡した。私に何かを言う権利はない。私は黙って頷いて見せた。

 退勤ラッシュもなく、車両はスムーズに進んで行った。他愛もない話をしながら、私達は明るい駅前の方へと向かっていた。駅の入口が見えた頃、桑実は慣れた手つきでビルの間の駐車場へと進み、車を停めた。彼女が外に出るのに合わせて、私も地面に足を下ろした。ビル風がより一層、春を冬のように見せかけていた。桑実の声に招かれて、私は光り輝く路地のアスファルトを蹴った。

 街灯に集まる蛾や羽虫の中に、一匹だけ、青い蝶が混じっていた。

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